流れ、流され、10カ国

出発してからの日々。僕はとても長く、今までのどの期間よりも長いように感じています。それは友人に連絡を取るとよく伝えることの一つ。

ある人は言いった。いいことだ。それだけ濃い時間を過ごしているということだね。

またある人は、それは良くないんじゃないかな。きっと日本を恋しく思っているんだよ。

聞くと、どちらもそうだなと思う。でも2つは対局にあります。楽しみながらも寂しい気持ちもある。そんなはっきりしない心境のまま、それでもやることは続けることだけ。はっきりと定まって見えることなんて、ちょっとしかないんです。

弟と合流するために足早にフエを去って、1つの大台、記念すべき10カ国目はラオスです。穏やかな首都ビエンチャン。アフリカでも中心部はごちゃごちゃという擬音が使える。ここはそんな言葉と無縁の街です。車の量が多いでもない、高い建物が並ぶわけでもない。人が集まっているという印象もありません。そんなことがとても新鮮に感じます。一泊1000円以下でダブルルーム。弟と2人で1つのベッド。なんかちょっと恥ずかしいですが、いつかは2人で旅行にと思っていたのが早くも叶いました。とても清潔、朝食にバリエーションのあるアリホームステイ。歩くとすぐに川があり、対岸はタイです。コップンカー。しっかりと1日の計画を立て、場所をチェックしてから出発。東南アジアらしさが色濃く残る国。つまり仏教の寺院が5分歩けば1つは現れる。ここもやはり暑いんです。昼間は35度以上が当たり前、受験で真っ白になった弟の肌がみるみる焼かれていく。

まずはワット・シーサケット。元の様式が現存する最古のお寺は、お堂を囲むように大量の仏像が並べられています。以前は目などに宝石がはめ込まれていたそうですが、戦火の中消失。多くが朽ちて、完全な姿を残しているものは多くありません。顔もほとんど同じなので、四方を囲んでいるとはいえ、半分くらいでいいかとなる。第一印象は素晴らしい、三十三間堂と同じような数により圧倒されます。その後もお寺をいくつか周ったものの、名前もややこしく、そんなに大きな違いもないので、全てを正確に覚えることはできません。ベトナムにあるお寺のように電飾が強い存在感を放つことはなく、基本的には朱色をベースに金などで彩られています。自分としてはそれを見ると東南アジアに持っていたイメージと結びつけることができます。どのお寺も参拝するにあたり靴を脱いで中に入りしゃがむのですが、ここが強い日差しの中で影で一息つく役割を果たしてくれました。12時になってレストランに入って食事。ふんだんに使われた香草に苦戦するブラザー。そこからすぐにフランス統治下にあった影響から、凱旋門がまっすぐな通りに設けられています。ただ建築様式は西洋風ではなく、しっかりとラオス建築で建てられていました。均等な街灯や、噴水の広場などがありながら東洋風に創られた門は、なかなか面白い光景でした。

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また歩くことしばらく、我ながら完璧なルートでタート・ルアンへ。名前でピンとくる人はよっぽど地理歴史に強い方でしょうが、写真を見れば見覚えのある方も少ないないのでは。金ピカの大きな塔で、釈迦の遺物が収められていると言われています。塀が工事中で多少見栄えが良くなかったのが残念。「なんでお寺は金を使うんだろうね」と僕が宗教施設に抱いていた同じ気持ちを弟が述べるのを聞いて、血の力を感じました。「それ、俺も思ってた」この後休憩にとカフェに入って頼んだスムージーが美味しくて、ラオス滞在中は同じ味を求めて頻繁にカフェに行きました。

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トゥクトゥクで宿に帰って、各々日が暮れるのを待つ。道路を挟んだ向かい側に高校とその寮のようなものがありました。バルコニーから放課後、子供たちが一生懸命に筋トレなどをしているのを見て懐かしさに浸る。あの時に着けたはずの筋肉よ、何処。それを照らし出す夕陽。もう一度部活に入りたいとは思わないけれど、雰囲気に対する憧れはあります。体を動かして日が暮れる。帰ったら食事が待っているという楽しみだけで過ごす毎日。程遠い生活、体力、種類の違う精神力。


昼間はただの道路だった場所に、夕暮れとともにナイトマーケットが現れます。宿から1分ほど歩けばつくところから始まり、途中人酔いから踏破を断念するほどの距離で続いている。観光客がターゲットではなく、地元の人々が中心になって、日用品などが同じような赤い色のテントの下に並べられている。これが毎日開かれるらしので、これもまた種類の違う体力を感じさせられます。改めてアフリカでの景色と比べてみると、ラオスも裕福な国ではないにしても清潔感がよっぽど強い。売られているものの質も高く見えます。何店も販売する格安、パチモンの時計やサングラスは一体どこで生産されているのだろう。そして当たり前のようにそれを買う人々。本物か偽物かなんて、そんなことは全く問題ではないように。そんな態度に好意を持ってしまいます。そんなことに囚われない、生き方ができたらいいのにな。

そして晩御飯に「フレンチが美味しいらしい」という弟の進言に、レストランを探し始めたけれど、肝心のフランス料理がどんなものか2人ともわかっていない。結局ハンバーガーを頬張る僕。1日目はこれで終わり。これで主要なところは見尽くした感を得て、翌日早朝からルアンパバーンへバスで移動することに決定。ホーチミンを出たあたりから、頻繁に長時間移動を重ね、こんなことはもう人生で2度とないだろうというような気がします。24時間電車。中1日。18時間バス。中1日。12時間バス。これも綺麗なバスではありませんでしたが、座り心地はよかった。そんなことも関係ないくらいひたすらに山を上り下りする道。地図では近く見えたけれど、これだけ時間がかかる理由がよくわかる。通路側だった僕は、頭を左右に振り回され、睡眠をとることもままならない。字を読みたくても酔ってしまう。後で知り合った人が2、3日前にもバスが崖から落ちたと当たり前のように言うのを聞いて、納得の後からやってくる恐怖。生きていてよかった。国土の多くが山なラオス。見た景色は穏やかな緑が広がっていて。日本も経済が豊かでなかったらこんな道ばかり、車での移動はかなりの時間が必要であっただろうと思いました。

ルアンパバーンには暗くなってから着きました。弟に普段とかけ離れた生活を見せてもしょうがない、少し感じるところがあればと一泊500円のドミトリーを予約しました。着いてシャワーを浴びに行き、すぐに出てきた彼。「50匹以上虫がいる」感覚が麻痺した僕でも少しためらうくらいの場所で、衝撃が大きすぎたようです。弱気になっていくのを見て、3泊とってしまったけど大丈夫だろうか心配になる。

そんな試練もありながら、ルアンパバーンはものすごく素敵な場所でした。ビエンチャンを凌駕する穏やかさ。その詳細、あっという間に過ぎた滞在はこの次に。

3畳半じゃ狭すぎる

ベトナム最後の王朝が都を構えてたフエ。広い幅、豊富な水量を湛えたperfume riverのほとりにある王宮跡。対岸にある宿に泊まっていた僕は起床後、宿泊費に含まれた朝食を食べる。パンケーキとはいうものの、何でも米で作るベトナム人。これもたぶんお米でできたもので、餅のような感触、焼き続ければ煎餅になれそうなパンケーキ。米麺、ライスペーパー、恐るべき徹底ぶり。フランスに植民されていた名残で、フランスパンも豊富。食事はほとんどこの2パターンで成り立ちます。スライスされたバナナにチョコソース、それに甘いベトナムコーヒー。気分は最高ですが、近頃の乱れた食生活、糖尿病が気がかりでなりません。どうにか帰国まで無事に保ってほしい。


ホーチミンから北上したものの、ここもやはり暑い。昼間になると汗っかきの僕はハンカチが手放せなくなる。それでも大きな川のある風景は、そんな中でも少し涼しい気持ちにさせてくれます。王宮の周りもお堀があって、その手前も緑のある共用スペースになっている。旅の疲労と暑さから、頻繁に来る疲れをそんなところに座って休みながら。お堀に架かった小さな橋を渡り門をくぐるとその全貌が姿を見せます。立派な入り口に迎えられ、建物的には最初の5分がピークです。戦火などで焼けてしまい中央は、少しの栄華の跡と草原が広がっています。その周りには、明らかに近年建てられた綺麗な朱色に塗られた廊下がありました。そこにあるベンチで休むのは心地が良かった。思った以上の敷地の面積の中で、順序よく回ることも難しく、いくつかの古い建物、石に掘られた像などを目に留めて後にしました。ただただ居心地は良く、のんびり椅子に座ることのできる公園のような感覚。歩いてた時間よりベンチに座っていた時間の方が長かったと思います。水の豊富なところに都はできる。中には川から水が引かれ、鯉の泳ぐ池に、古風な建造物、茂る草花。一部の派手な装飾を除けば、その風景は日本人にも安心をもたらしてくれる、馴染みやすいところでした。


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そこから調べた中で一番惹かれたお寺を目指しました。4kmの道のりをダラダラ歩いていく。街全体がよく整備されているフエは暑さ以外は歩くのに適しています。これまでの国と比べると、落ちているゴミの数はかなり少ない。そういうところまで手が回る余裕は、人々の生活を一つ約束してくれるものであると思います。もしくはその一歩。途中バイクの勧誘だけはしつこく受けたのですが、相手にしなければ去っていく。よっぽど悪質な相手でない限り。気がつけば1時間ほどの道のりを踏破。その付近には売店や駐車場、たくさんの観光客がいたのでそれなりの場所ではあるようでした。日本のものとは様相が違うものの、7段になった塔が建っていました。漢字が掘られ、色調に、窓の文様、中華感が強く出ています。境内に足を運ぶと、たくさんの修行着のようなものをまとった女性がたくさんいました。こういう格好はなんだかスタイルの悪い方がよく似合う。ホーチミンで見たような金ピカで電飾が目立つものよりは、日本人でも安心できる雰囲気で、内部は厳かに参拝が行われていました。その横で観光客に大きな声で説明をするガイド。やはり場を壊すのではと思うのですが、宗教とはどこでも寛容な場合が多い。お金がってことなんでしょうか。それでも、お寺にいると教会、モスクとは違った落ち着きを得られるので、真に仏教徒ではないにしても少なからず自分の内に流れているように思いました。帰りは歩く気にはならなかったので、バイクに乗ることに。大事な価格交渉、12,000ドンと言われたのを6,000まで値切る。7,000でノーといい、6,000でイェスと言う。このたった50円の差に全く意味はないのですが、最近はできる限り安くしようと交渉から入る。何かに取り憑かれたかのように。


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晩御飯は近場のレストランで麺料理。ベトナムは食にはなんの文句もありません。安く、どれも美味しい。翌日からはバスでラオスへ、と言うことでベトナム最後の晩餐が少し名残惜しい。7時に宿に迎えが来ると言うことで、前夜から荷物をまとめ備えました。


翌朝バスは遅れに遅れる。せっかくの6時起きも無に帰する。なんだかんだ旅中はまだ寝坊もしてない。「帰巣本能があるから、出先で寝ても体力は50%しか回復しない」不吉なことを友人から言われ、そう言えば頭がぼうっとするのが取れないこの頃。寝てはいても緊張モードは続いているのかな。結局10時ごろにようやくバスに乗ることができました。寝台バスは初めてで、かなり快適なものを想像していました。実際は最後に乗ったこともあり、2段3列になってベッドが並んでいる一番後ろの下段。3畳半ほどのスペースで5人が横に並び、足も伸ばせないと言う悪状況。唯一の喜びは隣にお姉さんがいることくらい。ラオスには日本人はビザなしで入れるようになり、他の外国人を他所に簡単に入国。順調な旅を信じて疑わなかった僕に突きつけられた、5時間のバス待ち。入国審査場の先にある露店でひたすらに暇をつぶす。待ち疲れでヘトヘト、ようやくバスが来てこれで寝られる、お姉さんの隣で、という淡い期待も今回は何も僕を救わない。8時ごろになると、混血グラマーなお姉さんは下車し、そのスペースにラオス人のおっさんがズカズカ入ってくる。何を興奮したのか、他の客が寝静まっても、隣で2人の男が大声で話し続ける。最初はわざとらしい咳払いで不満を伝える。失敗。続いて英語で想いを伝える。失敗。最終的に人差し指を口に当てる仕草をする。成功。万国共通、ジェスチャーの偉大さを学びました。そんな18時間を経て朝の4時にラオスの首都ビエンチャンに到着。


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トゥクトゥクでホテルまで。そしてようやく部屋に入って、久しぶりに弟と再会。そうです、休み期間に入った弟がラオスまで遊びに来てくれました。1人でここまでちゃんと来たことに少し感動。気の利く彼が、キットカットじゃがりこを買って来てくれていて、再会の喜びもそこそこに日本のお菓子を堪能。ここから5日間彼とラオスを周りました。


次は兄の威厳を保つべく、しっかりとプランを立て、かなり充実したラオスでの日々について書きます。




長時間の電車がクセになる

6日間のホーチミン滞在を終え、向かうわベトナム最後の王朝が都を構えた街フエ。バスという選択肢もあったものの、選んだのは今再びの電車行。トータル24時間、寝台車もありましたがこの国ならある程度のクォリティーを望めるのではないかと普通席にする。4時間ほどの睡眠、眠い目をこすりながら13時10分発の電車に宿から30分ほど歩いて、駅に着いたのが12時40分。駅の雰囲気から、それがもう期待できるものではないことを察しました。2000円ほど払ってプラットホームへ。全体的に清潔感とは程遠い。車内に入ると、予想に反してほとんど空きがないほど人がいる。バックパックを背負った旅行者もちらほら。席も快適とは程遠い、狭く、硬いものでした。でもなぜだかワクワクします。景色を見ながら、音楽や本があれば50時間までは許容範囲。それに、宿代も浮き、なんだかゆっくり考え事ができるのが僕にとっての電車です。Wi-Fiなどもなく、ネットが使えないのも心地いい。座って間も無く、肘掛を我が物顔で這うGを発見しても、発狂するでもなく笑みがこぼれるくらい。なんだか肝が座ってきたみたい。


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隣に座ったのは5歳くらいの男の子。全ての人間が同じ言語を話すと思っているのか、僕をベトナム人と思ったのか、頻繁に話しかけてくれました。無垢な積極性。あいにくひとつの意味も掴めない。それでも話を続けてくれる。近くにいた母親はそんな息子に優しく「味の素って挨拶するのよ」噂では聞いていましたが、都市伝説だと思っていました。笑顔で「AJINOMOTO」と返すのが正解なのでしょうか。きっと起源には、よっぽどのホラ吹きでもいたのでしょう。汚しのプロ集団である子供達。その1人として、彼も30分ほどの乗車でその能力を遺憾なく発揮してくれました。スイカやアイスをこぼして、さようなら。


アフリカとの決定的な違い。それは時刻表に忠実に電車は走っていくことです。それに座席もしっかり管理されている。ベトナム人が乗降車して、外国人以外は頻繁に入れ替わる。大都会ホーチミンを離れて、少しずつ建物が低くなっていく。線路は変哲のない街中を縫って進んでいきます。うとうとしてきた、しばらく眠ってしまうと車窓からは田んぼが流れる景色に変わっている。日本との違いは、それが不規則な形をしていること。四角形ではないこともしばしばです。畦道もところどころ歩いたら崩れてしまいそう。青々と茂った稲が、電車の中まで匂いを運んでくれる。落ち着きをもらう。そんな田園風景の中にはそれを囲むように、アロエのような植物も広く栽培されています。そして所々、大きな墓が姿をあらわす。確かベトナムでは土葬が行われているはずです。1つ1つが日本のものより倍以上の大きさがあって、細かい装飾に、カラフルに塗装がされている。やはりベトナム人の派手好きは伝統的に刻まれてきたもののようです。見受けられる山も緑が映え、少し懐かしい気持ちに浸ります。日が暮れてしまうと、もう数少ない灯りが捉えられるほどで、どんな風景が広がっているのか分からないのが残念です。


途中、明らかに1席では収まらないくらいの大きく丸い体を持った白人のおじさんが乗ってきました。2度着替え、どれもベトナムのビールのロゴが入ったtシャツを着ていたのが、ぶれない人柄を表していました。どこからともなくウクレレを取り出し、演奏開始。大きい体に、小さいウクレレをよくもまあ器用に操るものだと感心しながら。ちょうどイヤホンを長時間装着して、痛くなりはじめていた耳の保養に。楽器が1つでもできたら、旅先でより楽しい思い出ができただろうなということは頻繁にあります。ホステルにはよくギターなどが置かれている。根気のいること、知っていましたか、ギターは持っているだけでは弾けるようにはなりませんよ。僕がいい例てす。周りのベトナム人が英語の歌詞に喜んでいて、音楽の力を改めて感じる。意味は分からなくても、リズムに乗ってしまえばいい。前に書いたように、本当に友人に東京タワーの文庫を持ってきてもらったので、読みはじめる。結局止まらなくなって寝る前には読了してしまう。もう少し大事に読み進めばいいものを。でもこれならば、何周でも読み続けられる気がします。同じように、近場からながら東京に吸い寄せられて、ぐるぐるぐるぐる、意味もわからない自由にしがみつきながら、流れていた毎日。自分にとって東京はどんな街だったかな。懐かしいキャンパスライフ。


日付が変わり、寝ようと思いながら、硬いイスと無数に駆け回る黒い影になかなか安心できる体勢を見つけられないでいました。結局楽になることはないことがわかる。もう腰が痛くてたまらないのだけど、前日の寝不足のおかげか、気づいたら日が昇っている。すぐにつかないことは、もう十分すぎるほどわかっています。経験から、こういう時に頻繁に時計を見るのは精神衛生上よろしくないことを学んだ。時間なんか分からなくて、日は沈み、また昇る。朝からなんだかいつまでたっても眠くて。夜にリクライニングした椅子が戻らなくなって、頭が自然と後ろになる。そのせいか何度も寝ては起きてを繰り返して、気づけば到着が間近に迫る。反対側の車窓からは海が流れていて、自分には無縁ですが、この国のリゾートの一端をのぞきました。そしてようやくフエに到着しました。


駅前でフォーを食べる。タクシーの勧誘かしつこくて、うんざりしました。英語も日本語も通じないと、こちらがいくら強い言葉を選んでも何の働きもしません。2kmは歩ける距離。ヨルダンで友人から教えてもらったアプリ「maps.me」があれば、オフラインでも自分の現在地がわかります。これはなんとも便利です。それをゲストハウスのある通りに合わせる。ホーチミンほど車やバイクも走っていないので、気持ちよく歩ける。空気も鼻から吸い込むのが苦にならない匂い。歩き始めたら、すぐに幅の広い川が目に入って。あひるボートや船も浮かんでいる。川岸は公園のようになり、たくさんの木や芝生が植えられています。都会的ではありませんが、綺麗で整理された街です。やっぱりベトナムは栄えている。そんな中に、時折歴史的な建物が目に入る。英語は話せなくても、道を尋ねれば一生懸命教えてくれて、やっぱり人間は大方親切です。宿に着いて、昼間からもう一眠り。夕方には、コンビニに行ってモナカとカップ麺、ビールという日本さながらの夕食。こんなのが幸せ。ただホーチミンにはたくさんあった日清のカップヌードルがここでは見つからない。買い込まなかったことへの後悔に苛まれる。しょうもない。


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昼間歩いていて、対岸に存在感を放っていた王宮。そこへ行った話はこの次に。


旅は続きます。

3年連続3回目

ベストナインみたいになりました。ベトナムホーチミン3回目。2年前、はじめて日本を離れていったのがこの国、この街でした。一昨年も、去年も、この2月に。日本の寒い時期に、この暖かさは現実味がなくて、それでいて嬉しかった。今年も同じように、寒かったヨルダンから。異国の地を踏んだ、その時の新しい感情、感動を思い出す。相変わらず派手がお好きな国民性。正月を祝う街は、まばゆいばかりの電飾でただの道路がテーマパークにいるようだ。その数は増えたかもしれない。タクシーに乗って、それが左ハンドル、右側通行であることを思い出した。というよりは憶えていませんでした。僕の記憶はとても曖昧で、やはりしっかりと記録を残しておくべきです。もしくは、他のものに完全に注意を引かれていて、このことは当時の僕には些細なことだったのかもしれません。窓から見慣れた風景が流れていくのは、安心を得られます。「帰ってきた」と言える場所。僕にとっては数えきれるほどしかない、その一つです。


そして変化に気がつきます。街にも自分にも。はじめていった時は対比に日本しか持ち合わせがなかった。おびただしいバイクの数は貧しさの象徴であると思った。清潔感のなさも同様に、20年間母国から出なかった僕にはイレギュラーなこと。人々が営む生活を見ていると、いかに自分が恵まれているかを思い知らされるような気分に浸って。話は飛躍して、長生きしようと思いました。他の国も自分の目で見てみたい。直に触れないとわからないことばかりだったから。その半年後にいったネパールで、僕の思考は幅を増しました。最貧国と呼ばれるその国に行ったことで、今まで2国間のみながら1番低いところにあったベトナムはネパールと日本との中間に移動した。「ここに比べたら、ベトナムは断然栄えている」そして3度目の今回はアフリカ、中東9カ国を周った直後の視点から。この国が今までに増して栄えて見えます。このことはデータとして起こされた経済水準からしても当然のことですが、明確に理解できるようになってきた感覚があります。前述のイルミネーションも、国によって異なる装飾が文化として培われているのも承知で、これだけの電力を供給できる国は一体どれくらいあるだろうかと。少なくとも今回の旅で訪れた国々の中で、自信を持って可能だろうと思えるのはイスラエルくらいです。あとは南アフリカなら大丈夫かな。


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僕の中の変化と同様、この国も確実に姿を変えている。日本ではもう見られないスピードで、この街は今も新しくなっていく。2年前とは歴然と、1年前とは漠然とながら、その光が強くなることは留まるところを知らないみたいに。多少自分の感覚が麻痺しているところもあるかもしれませんが、イルミネーションの数、未完ながら範囲の広がっている日本が協力している地下鉄の工事。こう言った目に見える成長を母国で見るには、生まれるのが遅すぎた僕にとっては、一国が伸びていく姿を見守ることは新鮮です。きっと自分の親や祖父母が体験してきたものと類似点はたくさんある。しかしそんな状況も、先を思って希望ばかりを持てないのも日本人であるがため。ましてや以前現地の方との会話の中で、都心の超高層ビルやマンションなどに住まうことができるのは、一握りのベトナム人と大多数の富裕な海外からの人々。そしてベトナムの中心の中心に限ったことばかりを話しているのみで、15分でも離れれば、そこにはほとんど変化が見受けられないはずです。


過去2回とは趣の異なった今回の滞在では、異国を見て肥やしにしたいと思って歩いた今までとは真逆に、この街で旅中一番母国と近くにいる証を探して歩きました。前回よりも中心に近いところにいたのもあり、そこには驚くほど日本という国があります。目にすることすら難しかった日本食は、望んだ以上、飽きすら催すほどに溢れていました。待ちに待ったラーメンを続けてお腹の中に収めてしまうと、心境は豹変し、せっかくの海外でそれらに触れることに嫌気がさしてくるのでした。またしばらく経つとそれらへの想いは膨らんでいくのでしょうが、東南アジアいる間は困ることもなさそうです。少し奥まった通りで、「カラオケスナック」という看板が5店も並んで軒を連ねているのを見たときは、もう自分がどこにいるかも見失ってしまいそうで。


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自分が2年前にこの地に降り立って得た経験、昨年再びのホーチミンで考えたこと。過去の自分と同じ境遇にいる友人たちのそばにいて、風景以上に彼らの内を見つめた5日間。違ったところもあるにせよ、当時の自分を引き合いに、頼もしく映った彼らの姿。修学旅行で行く原爆ドームひめゆりの塔は、感じるところもあるにせよ、大勢のクラスメイトに囲まれて暗い表情ばかりが続くわけではありません。16人、今回はそんな様相もありながら、個々に何かを掴もうとしてくれているのは明らかでした。ドクさんとも対面した彼らの経験は純粋に羨ましい。孤児院を訪れたときの行動や表情。感受性を剥き出しに、年齢など関係なく、それを高く持つことの大切さを教えてもらいました。これまで通ってきた施設で、今までよりはるかに多くのボランティアが活動し、設備もいくらか改善が見えて嬉しかった。何はともあれ、また来られて良かったと思うことができました。


あっという間に過ぎた日々。最終日は午前4時に彼らを見送って宿までの帰路。安心感とブルーな気持ちに揺れながら、バイクに乗った2人組のゲイにつきまとわれ、触られ、感傷に必要以上の感情を加えられました。2017年最初の予定。本旨とは離れたところで友人たちに静養できる環境をもらって、純粋に楽しい時間でした。感情とは別に、行動はいたって無私なものでしたが、そうできることが嬉しかった。そして会った数だけ寂しくなって。次に誰かと会う約束はまだありません。いつになるのか。接する大多数の人々が日本語を操るホーチミンでの生活。活力とともに、それにはしばらく触れなくていいような。コミュニケーションに苦労する日々に覚える奇妙な心の躍動。簡単なことが簡単に運ばない楽しさ。表情の機微や声のトーン、選ぶ言葉から相手のことがわかりすぎるのはここに居て嬉しいばかりではないことだと思う。わからないくらいの方がいい時もたくさんあるように思います。


日本に帰りたいと思う気持ちは薄れて、しかし明確にいきたい場所があるわけではない。改めて出発時の多くのものを自分の目で見たいということだけが、今はまた大きくあります。3度目とは言えど、ホーチミンを出たことのなかった今までから、他の街にもいってよりはっきりとしたベトナムを探していきたいと思います。

Do you have a weapon?

イスラエルからの帰路は平穏に。出国場に入る前、IDチェックのためにバスに乗ってきた金髪美女のお姉さんに言われた一言。「いや、持ってないです」ただ非日常、人生で初めてもらった質問に、それも綺麗な人からという状況が笑えて。「はい、ここにマグナムが」でも相手は軍人なので、結局ボケる勇気も湧かずに通過。ヨルダン側からのバスが1時間ほど待ってやっときた以外はストレスもありませんでした。心配していた、押されると中東他国への入場が難しくなるというイスラエルスタンプも、出入国とも別紙にもらうことができました。緊張のキングフセイン橋、往復の完了。そして5日ぶりのヨルダンに帰国。前に宿泊していた場所から少し離れたところにある別の宿に。受付を済まし、1つ上の階のドミトリーの扉を開いて「あ、こんにちは」日本人、同い年で同名の方と出会い、ここからベトナムへのフライトまでの3日間、アンマン暮らし再開。イスラエルに行くまでの滞在は体調不良により、ほとんど観光もできなかった。少しレストランの知識あるばかり。この新しくできた友人のおかげで、アンマンでの日々は一気にスピードを上げて。いつもは原付ぐらいの速さで送られる生活が、引っ張られるように特急に乗って進む。


9日の昼ごろアンマン到着。10日は1日フリー。11日の夜には空港という中で、初日は夕方から近くにあるローマ劇場、アンマン城。2日目は朝からケーキを食べ、人気のシュオルマの店に行き、そこから有名なモスク、昨日閉まっていたアンマン城へのリベンジ。最終日は朝からバスに乗って死海へ。1人ではありえなかった日々を、充実感と共に過ごしました。ヨルダンでやるべきことは、ほとんど済ませた自負があります。特に存在はハッキリと知りながら、まさか自分が死海に浮かぶなんて考えてもいなかった僕は、このもう1人のゆうたへの感謝が尽きないのでした。


ローマは威厳を示すためなのか、今まで見てきたその大国の痕跡はいつも辺鄙なところにあります。ペトラにしても、このアンマンのシアターや高台にある神殿跡も。そんなことのために、多くの奴隷が酷使されたかと思うと気の毒でなりません。ジャバル・エル・カラと呼ばれる神殿から見る景色はとてもいいもので、近所にあったら入場料3JOD払ってでもしょっちゅう来てしまいそう。没個性の建物が並び、自分のいる街がとても小さなものに感じますが、ここから見るとさすがに首都は広い。登ったり下ったりの地形に、無数の家々がぎっしり敷き詰められています。そして個性を放つ、いくつかのモスクが頭をのぞかせる。


まさか自分が死海に浮かぶことになるなんて。1人でいき、浮いていることに喜ぶのは寂しすぎるので、名所の一つでありながら行こうと思うことはありませんでした。それに寒そうだし。それも2人となっては心境も変わる。ヨルダン最終日は、朝からホステルを出て歩いてバス停へ。途中朝ごはんをほうばりながら。こちらのバスは時刻というよりは、定員に達したら出発。ラーマというところで降り、スイス人、インド人と割り勘でタクシーに乗る。片道1.8JOD(約300円)で行くことができました。ヨルダンはコンパクトで移動しやすいのも長所の一つです。海パンなんて持っていないのでパンツ一丁になって入水。塩分濃度が高すぎて生き物が住めない死海、思った以上に体は簡単に浮かびます。これが結構楽しくて、22歳2人軽くはしゃぎました。ただ体の力を抜けば簡単に並みになったような気分を味わえる。泳げない、でも人生で1度くらい泳いでみたいという方は今すぐこの場所へ。10分もせずに満足できます。2JODで小屋から伸ばされたホースを伝ったジョウロ程度の勢いの水で行水。死海の水は晴れ間の中、心地よいくらいでしたが、これが寒かった。おっちょこちょいは替えを忘れ、帰りはフルチンでアンマンに戻る。楽しもうという気持ち次第で、いくらでも機会はやってくる。


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これほど現地の食事を堪能することもなかったと思います。肉を何かで巻くのが基本の基本。シュオルマは計7日ほどの滞在で10回は食べたと思います。基本的にはどれもテイクアウト。そうすると少し安くなって、ホテルで食べることがほとんどでした。うまさ以上に安さから。そしてフレッシュジュースにはまりました。これも後半は毎日飲んで、きっと知ったら恐ろしい砂糖が潜んでいるのでしょうが、栄養もあると信じて。歩けばいくらでも見つかる、ヨルダンの定番です。種類も豊富で飽きません。スイカ、メロン、カキなんかもあります。柿は英語でもカキなんですね、驚きました。このクォリティ、日本にあっても必ず人気を集めると思います。きっと価格は倍以上するんでしょうが。


この間滞在したのは、マンスールホテル。前記のクリフホテルで日本人にイラク行きのチケットを手配した方が彼を偲び、オープンした通称コーダホテル。南京虫が出るとの噂もあってか、僕たち以外はほとんど客がいないようでした。もう心配になるくらい。朝ごはんもなく、綺麗なところではありませんが、価格からしてそんなことは期待していないから。一部屋にコンセントが1個しかなかったのはちょっと不便でしたが。シャワーのお湯でたら、他には何もいらない。虫に襲われることもなく滞在を終えました。


日本人の方といると、なかなかブログを書けない。思ったことを、しっかり伝えられる相手がいる期間はそれだけですっきりしてしまいます。きっと普段は人に伝えられない想いのはけ口をこのブログが担ってくれているのだと思います。書くことも好きだけど、やっぱり直接伝えられるというのはいいものですね。


そして京都出身の連れのおかで、まさかのヨルダンで関西弁をもらうという。たぶんしばらく抜けないと思います。これから飛行機に乗って、ベトナムへ。実は毎年行っているこの国は、これで3回目になります。歩いたことある道を歩く、こんなことが今はすごく楽しみです。エジプトからのアラブ世界と、イスラエルで過ごした日々。心配をよそに危険な目にあうこともなく、アフリカと比べれば目に見えて発展している。独自の文化を持ち、身近にイスラームを感じる毎日でした。それでも何かがガラッと変わるわけではありません。人間の暮らしは違いよりも共通点の方がたくさんある。周辺には現在入国の叶わない国もあります。それらの国々が抱える問題が解決されていき、安心してこの地域が持つ魅力を楽しめる日がくることを願います。僕が訪れた国々は、場所を選べば心配いりません。観光資源にも溢れています。アフガニスタン、シリア、イラクなどなど。いつかその地を踏むことができればいいなあと。この地を、この時代に歩いたこと。これからの情勢は、それにどんな意味を持たせてくれるでしょうか。


マッサラーマ、アラブ世界

マッサラーマ、中東


まだ足りない心持ち。

あなたの夜空は何色ですか?

「東京の夜空は黒くない」カイロで出会った佐賀から上京したという女性が言っていたのを思い出しました。言われた時に少しはっとして、改めて東京の夜空を思ってみた。消えないあかりに照らされて、本当の色はわからない。それが僕たちの暮らす街、東京。ずっとそこで育った人には、低いところはいつでも白んでいる夜空が当たり前の光景。幸か不幸か、アフリカではそれを原色に近い色で見ることが日常でした。本当に綺麗な空は星が強く輝き、高いところほど白んでいる。気温、大気汚染、様々なものに左右されて、その色は数えきれるものではないのかもしれません。同じ空の下とは言えど、やっぱり違う空の下。ここで見えるのは、見慣れた色、黒くない空。近い感覚で並ぶ街灯、信号、立ち並ぶ近代的な建物の群れ。街灯や街路樹はその国の状況をよく教えてくれる。旅の中で1番栄えている街。エルサレムの新市街を歩いて、日が暮れた空を眺めた時に思ったこと。


自然。自然体。等身大。ケニアを離れて後、僕は人の作り出したものばかりを前にしています。朝からバスに乗ってパレスチナへ。ヨルダン川西岸地区。世界史ではおなじみの名前です。そこに位置する街の一つ、ベツレヘムに行ってきました。宿からすぐのところに出ている市バスに乗ったら、1時間も経たずに到着。途中にパスポートを確認されるようなボーダーはありませんでした。日本は国家として承認していませんが、世界の130以上の国がそれを認めているらしい。中東戦争で領土の変遷を経た両国。その原因を作った当事者と言っていいイギリスに、今さら呆れを覚えたりしながら。終点、普通の道路に降ろされるなり待ち構えているタクシー。ただ見たいものを周るには、これを使うほかないようです。さっそく価格交渉に入るわけですが、正解はわからない。ラテン教会に行き、バンクシーの絵を周るプラン。モスクと比べて、教会というのは画や像に溢れていて、よっぽど腕のある画家によって描かれたもの以外は神聖さを損ねているような。建物以外に何もなく、ひとえに心で祈りを込めるモスクの方が個人的には好意を感じます。壁という壁にごちゃごちゃと絵で埋め尽くされた教会を慎ましい気持ちよりも、その派手さを楽しむつもりで行きました。最初は自分以外誰もいなかったのをいいことに隅々まで。左右には青と赤のステンドグラスがあってそれなりに綺麗なところでした。途中からは中国人の団体御一行がいらっしゃったので、それに紛れるようなことをして。起源は知りませんが、ここのところ数千年の歴史を持つものばかりと対峙していたので、比べて気楽に見られたのがよかった。あまりにスケールの大きいものは、感受性を激しく揺さぶられ、感動はすれど著しく体力を消耗させられます。焼肉と寿司ばかりが続くのも考えものです。たまには、いや普段は富士そばくらいがちょうどいい。これは教会に失礼か。素敵なところでした。


それからイギリスの芸術家バンクシーの作品を見てまわりました。彼のことは授業で知っていたので、なんとも偶然。この街にとっては大切な観光資源として定着しているようです。こちらがお願いする前に、運転手が提案してくるぐらい。思っていた以上に彼の作品群は世界的に人気を得ているようでした。ゲリラ的に、時には無許可で残され落書きとも言えるものが人を呼ぶというのは皮肉にもとれます。4箇所周ったなかで印象に残ったのは「花束を投げる人」。顔を隠した男が爆弾を投げるところを、代わりに花束を持たせている絵です。この秀でたブラックユーモアのセンス、緊迫感のある場面を丸く包み込める能力が、彼をこれだけ有名にしたのでしょう。ただ深刻なもの以上に、そこに笑いを交えて伝えることができればメッセージはより先鋭に響くことをよく教えてくれます。イスラエルが一方的に建築した高い壁には彼の絵をはじめ、200mぐらいに渡って様々な人により隙間なくアートが残されています。しょうもない落書きのようなものがほとんどですが、中には思わずシャッターを押したくなるようなものもありました。そんな壁の存在がありながらも、現在この地域は1人で歩いても緊迫感などは感じない穏やかな時間が流れているように見えました。パレスチナ側のドライバーはどんな気持ちでこの壁を案内しているのでしょうか。お金になる壁ぐらいにしか思っていない節はありますが。


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執拗な他の場所への勧誘を断って、降り立った場所に戻る。そこから歩いてキリストの生まれたという教会に。20分ほどの道中、中心部への町並みは旧市街と同じように石造りの細い道が続きました。パレスチナの地区に記念すべき場所をとられ、悔しい思いをしている人間がいるのも容易に想像できます。入ってみると聖墳墓教会と同じく改修工事をしていて、なんだかキリスト教には縁がないようです。感動はしませんでした。根っから信じられることではなく、信者でもないので。それなら行かなければいいではないかと思われるかもしれませんが、見ることで満足なんです。その地点に明確な像を持ってたことが、僕にはとても嬉しい。教徒にとっての重みは理解しているつもりです。


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この地区の様子を目に留めながら、バス停に向かいパレスチナを後にしました。本当に味見したくらいです。帰り道は途中でバスが止まり、旅行者以外は降りて身分確認が行われていました。イスラエルからは出ることは自由でも、入ることには厳しく、そう言ったところでしょうか。おそらくそこが国境ということになっていたのだと思います。風景が変わるようなことは全くありません。強いていうならイスラエル側の方が建物がぎっしりとあるくらい。売っているもの、営まれている生活も一見何も変わらない。通貨もイスラエルのものを使う。こんなものかと少し拍子抜けしました。関係が悪くないことは何よりのことですが、明確な差があることを期待している自分がいた。ユダヤ人の国と言いながらムスリムもたくさんいるイスラエルヘブライ語アラビア語公用語としています。看板も親切にこの2つに英語も加え、3カ国語で表記があることがほとんどです。先日訪れた聖地の存在もあるでしょうが、とてもグローバルに開けている印象を受け、イメージとの誤差をよく埋めることのできる滞在でした。急ぎ足ではありますが、再びヨルダンに戻ります。


ここのところ人間の手による遺跡をたくさん見てきました。それらは時に、人間の存在を、そして自分の存在をも大きくしてくれるような気持ちを抱かせることもあります。これは自惚れであり、人類への誇りのようなもの。あまり先が続きません。その背景、歴史を思うと、恐ろしいような醜さも姿を現します。改めて気持ちを整えて、空など見ていると落ち着ける場所は他のところにある。自然。人工物はそれと並べるととても小さいものです。そして人間もそこから生み出されたことを思う時、人間の生み出したものもまた、そこに帰結するのではないでしょうか。そんな気持ちで今日は街を人の流れを見下ろしていたら、なんだかとても穏やかな気持ちになりました。それはアリの巣を上から眺めるのとさして変わらない。普段は上から目線で注ぐ落ち葉も、人が長く悩んでばかりいるのを憐れんでいるように思えて。対等に切り離そうとすることをやめて、大きな自然の中、その一部として自分も一緒に包み込まれていることを感じる。大きな安心感がそこにあります。自分の存在は矮小でいて輝く。そしてその矮小さを肯定的に捉えられる時、僕は一番気持ちがいい。


アフリカで自分が見た自然の中には、道路や線路が必ずありました。それでも壮大に思えるのですが、より大きく感じられる場所。行くのは困難でも、地球上には、その外にもたくさんあるんだと思います。行ってみたいけど、それ以上に恐れも膨らみます。そして難しい。宗教との距離が近かったこの数日間、神様のことを考えはじめると、視点を人間だけにとどめることは大きな間違いな気がした水曜日。


たくさんのものを自分の眼で、同時に自由に考えられる時間がある。こうしていられることが、改めてありがたく思われます。感謝です。

壁に囲まれた特別な空間で

畳。恋しくなりました。代わりになるようなものも思いつかないので、これは帰ったら大いに満喫するしかありません。いざそこに座ったらきっと行為に主眼が置かれて、床の材質なんてすぐに忘れそうです。それでもこんな状況にいると、畳の匂いを何時間も嗅いでいたいような錯覚に陥ります。そんなことは絶対にすることがないのに。よく考えると日本にいてもその上で過ごす時間はすごく限られたものだったので、結局母国が全体的に恋しいんだと思います。エルサレム旧市街の中、全てが石とコンクリートの中で生活していると、木造の建物やその温もりを感じたくなる。確かにこれなら冷たい外気はほとんど入ってきませんが、触ると冷たい壁というのは日本人の心が家に求める大切な要素が欠陥している、海外でファストフードに転落した寿司と呼びたくない寿司を前にしているような気分です。コンクリートに溢れた社会の中でも、家に木の存在を求めるジャパニーズは、古くから心の中で築かれ、刻めれてきた愛着があるのでしょう。訪れてきた地域柄、あれほど青々と広がる山脈は目にすることがない。石を求めようが、まずその上に緑があるから、わりと合理的に木造の文化は生まれたのかもしれません。材質上、ここで見るもののように長く姿を留めないことは残念ですが、それを風流ととる精神は再考すると2017年現在も脈々と生き続けています。少なくとも僕の中には。


地理を把握していなかった昨日から、朝散策のために調べて気がつきました。玄関を出て左に10秒行くと、そこは岩のドームの広場でした。信徒しかこの入り口からは入場できませんが、ここのオーナーはムスリムなので、イスラーム教第3の聖地にこれだけ近いのところに家を構えているのはすごいことではないでしょうか。それにしては熱心な様子は見受けられませんが。いつでも簡単に入れる嘆きの壁聖墳墓教会と比べ、異教徒と無宗教者は1日に2回、入場できる時間が限られているので、これを中心に予定を立てました。


まずは嘆きの壁へ。ここへも徒歩3分で到着。なんて優れたロケーション。ユダヤ人の王ヘロデがこの地を治めていた時の城。現在残されているのはその西側にあった城壁のみ。英語では「西の壁」と書かれていることが一般的です。荷物検査はあるものの、入場料はかかりません。開けた広場に入ると左側に壁が立っています。これはまさになんの変哲も無い壁です。真ん中で区切られ、左は男性、右は女性となっていました。とても厳粛な雰囲気を想像していましたが、観光客が大勢その前で写真を撮ったり、区切りを挟んで男女がたわむれていたり、聖地と言えどもこんな感じなのかと少しがっかりしました。それでも白シャツに帽子から靴まで黒に揃え、豊かな髭を蓄えたイメージどうりのユダヤ教徒が啓典を読みながら、壁を触り祈りを捧げています。その横でポーズを決める観光客3世代の家族。聖地をよくもこうオープンにできるなと、寛容さに感心します。置いてある白く小さい帽子のようなものを頭に乗せれば誰でも自由に触ることができる。今の髪では、被っても感覚がないので落としていないか頻繁に確認しながら。形はわかりませんが、両手を壁につけてみる。その冷たさからか、その間頭の中がすっとする感覚がありました。あるいは何か力が宿っているのか。これまで想像もつかない数の人間が触れ、祈りを捧げてたことを思えば、特別な力のようなものを帯びても不思議ではないと思います。少なくともそのことを知る僕の頭、知識は少し特殊な反応をさせました。それが正しいのかわかりませんが、すっきりした感覚が残る。それで終わりです。


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キリスト教地区に向かうと岩のドーム開放時間に間に合わない可能性があったので、一旦宿で休憩して、12時半の開場時間の30分前からゲートに並びました。すでに30人ほど並んでいて、あとからあとから人がやってきました。これも嘆きの広場のすぐ近くにあります。午後はこの1時間の1回だけなのでたくさんの人で列ができます。横を何かの伝統装束をまとった人々が楽器に合わせて歌いながら何度も通過して行くのを見ていたら時間になってゲートが開き、ここでも手荷物検査。中身を開けらる徹底ぶり。直前にもらった嘆きの壁のパンフレットを無言で没収されました。別に欲しくてもらったものではなかったのでありがたいくらいでしたが、なんだか排他的で小心に映ってしまう。ムスリム以外、ドームの内部には入れず、岩自体は見ることができません。それでも金の屋根を持ち、細かい装飾、白い石の床、青と白を基調とした建物は空の青と相まってとても綺麗です。文様フェチの僕は、複雑さの中に規則性のあるイスラーム文様、建物自体に均整が取れていて、他のモスクも同様に好きです。いくらでも見ていられる。アラビア語は壁に並ぶとすでに文様の役割も果たすので、意味はわかりませんが芸術性に優れた言語であると思います。汚れなどは目立たず、今のタイルはスレイマン1世により500年前に貼られたものにしては、驚くほどきれいに保たれています。カップルが腕を組むと注意されるあたりはさすがイスラーム教。僕も片膝をついていいアングルを探していると怒られました。今度は立ってそれをじっくり眺めていると「祈るな」と再び怒られる。祈ってない、祈ってない。僕は神にすがるような顔をしていたのでしょうか。


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そこから1度旧市街を出て、ライオン門から入り直し、イエスが十字架を背負って歩いたと言われる苦難の道を辿って教会を目指しました。これがただまっすぐにというわけではないので、途中で間違えて引き返したりしながら。道に並ぶ店も、泊まっているイスラームのエリアとは全く異なるから面白い。その界は明確にわかりません。ライオン門までの道でオリーブ山を眺めたり、自分が歩いている道、聖書の中にいるような気持ちでした。新約聖書、舞台設定はかなり現実的だったんですね。そして聖墳墓教会に到着。外観は古さばかりが伝わる、派手なものではありません。内部は肝心なところが工事中で残念でしたが、地下から2階まで古いものから、多少新しいものまで壁画や像などイエスを崇めたものがいくつもありました。今の世界が形作られる、その契機をもたらした1人の人間が一度は眠り、復活した場所。クリスチャンの人々は一様に真剣に、とても大切なものを前にしている表情が印象的でした。そもそも死後300年経って建てられ、破壊される目にもあっているこの場所は、1つでももし本当のことであればそれだけですごいと思います。昔のことはわからないからクリスチャンではない僕には、おとぎ話の中にいるような気分でした。


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世界中の人が来ることを望む場所。3つの宗教にとってそれぞれ大きな意味を持つものが、こんなに近い距離、1つの壁の中で。こんな空間は2つとない、興味深い場所です。啓典の民として、同じ神様を信仰する彼ら。先行きの不透明なこのご時世にお互い上手に共存できることを示してくれてる街でもあるかもしれません。その重みから、周り終わったのは15時ごろでしたが頭がいっぱいになっていました。1度は博物館に行こうと思いましたが、16時閉館だったので後日に延期。そんな旧市街散策、この3つの場所を横一列に並べて見ることができる人は、世界にはそんなに多くないのかもしれません。宿に帰って明日からの宿泊先と日程を決める。今度は旧市街の壁を出て、新市街などを探索していきたいと思います。


物価の高いエルサレムにあって、朝食は宿が出してくれるからありがたいものの、他の食事に困ります。それでも探せばそれなりに安いものもあって、昼はファラフェルサンド約180円、夜はカップ麺150円、風呂上がりにクッキーとスプライトで180円。大切なのは高い国で多少の出費をしても気にならないくらいに、物価の安い国でそれを理由に欲張らないことかもしれません。とりあえずベトナムに行ったら埋め合わせるように食べたいと思います。ホーチミンではラーメンブームらしく、美味しそうな店はバッチリ地図に地点登録してあります。今はしばしの辛抱する期間。空腹と闘う夜がある。