サバイブ!

 暖かい陽気のバラナシ。たまに曇るようなことがあると、春のように優しく包み込む風が吹く。こうなると時間など関係なく四六時中眠気に襲われる。もう何をする気もなくなって、ガンガーのほとりでただそれを眺めていたりする。穏やかな流れは、どちらに進んでいるのかさえ分からなくなる。考えているのは「自分は何を考えているのか?」ということ。要するに何も考えていない。専門家に言わせると間違えっているであろうフォームで瞑想めいたことをしてみたり。気がつけば夜になり、暗い中にそれでも燃え続けるあの炎をぼんやり見つめる。


 宿を変えて、連れがいたおかげ。1人では諦めていたボートから見る朝陽。6時前に起こしてもらい男3人、100ルピーずつ払ってそれに乗り込む。川にはどの時間帯よりも多くの舟が浮かんでいる。ほとんどが観光客。地元の人々は沐浴や洗濯に励んでいる。運なく、この日は滞在中1回きりの曇り。僕の晴れ男と同様の力を持った雨男、雨女がいたのだと思う。残念ではあったが、距離を空けた岸の町並み、そこにある生活は穏やかで雰囲気のある世界だった。


 知り合ってから間もない日本人とその場でガンジス川に入ろうと言うことになった。バラナシでは宿で掛け布団をもらえず、夏風邪をもらってしまい、実現できずにいた。この機を逃すと、きっとせずに終わってしまう。水着に着替えて川に向かう。正しい順序を知りたくて近くにいた男性に教えを請うても「ただ入ればいいんだ」という答え。なら行きますか。一歩足を踏み入れると危うくコケそうになるほど、底は藻が茂っている。ゆっくり遊泳に励んだわけではない。ただ意を決して3度ほどスクワットのような動作で頭まで浸かる。決して口には入れまいときつく結んで、すぐに宿に戻ってシャワーを浴びる。体調を崩すのだとしたらいつ発症するのか。興奮が冷めると不安ばかりがやってくる。病は気から。そんな状況ながら、鏡に映る自分を見ながら「俺は絶対大丈夫」と唱える。


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 結果から言うと、一緒に入った方はその夜、本人曰く「インフルエンザとノロウィルスが同時に来た」と言うこの上ない体調不良、全身の関節痛に襲われ、呻きながら一晩を過ごした。そのことをビールを飲んで先に爆睡していた僕が知ったのは翌朝のことだった。辛そうな表情の彼は見るに耐えず、連れ添って病院へ行った。点滴を受け、帰って来たのは夜遅くだった。一方で何事もなかったかのようにケロっとしている僕を見て、その差に皆驚く。同じ時、同じ場所で沐浴し、同じタイミングでシャワーを浴びた、同じ国からの人間。地元の方がやられる可能性を「半々」と言っていたのは正解だった。もし自分の勢いで決めたその時間、場所によって彼が救われたことがあるのならば、この責任は自分にあるように思う。それでも症状、僕には遅れて現れ、それほど酷くないにせよ倦怠感、人生一の下痢には苦しんでいる。相方と比べると、これはもう無事と言っても過言ではないと思う。その理由を、ケニアで子供にもらったビーズのブレスレットをこの時もしっかり付けていたから。守ってもらったと思うようにしている。現地の子供達が飛び込んだり、水遊びをしているのを見ると環境は人間に驚くべき違いを与えることを教えられた。とにかく、海外旅行、日本で予行練習までして臨んだガンガー。1つの念願を叶えた満足感がある。


 なんとなく1日が過ぎてしまうような、のんびりした場所だった。川辺は道路から離れているのもあって、クラクションから解放されるのが何よりもありがたい。周辺にはバンコクほどのクォリティではないものの、よく日本食を出す店がある。ラーメンとあって頼んでみたら、ただインスタントラーメンを作って出されたりはするが、シャン亭というところで食べたカツ丼は本当に美味だった。気がつけば1週間も滞在してしまい、そろそろ居場所を変えようと思う。憧れていた南部は、ここで出会った人たちの情報から遠からず気温40度に達するということを聞き、迷い始めている。寒いよりはいい。ただここまで行くと、きっと室内に篭ってしまうだろうというのは容易に想像できる。一度少し離れたところにリキシャで出かけたのだか、交通量、喧騒に参ってしまった。その中に戻ることになるのは、少し気を重たくさせられる。


 物乞いをされることはインドでは頻繁にある。高台にいた時、下で5歳ほどの男の子が旅行客に対して何度も挑戦し、何度も断られるのを見ていた。何度も右に左に視界から消えながら、また何度でも戻ってきた。一度女性がお菓子を与えたことがあった、するともう一個をねだる少年。あとで少年は離れたところにいた母親と思しき女に1つを渡していた。暖かくも、それを命じている親の存在。同時に悲しくもあった。こんな確率の低い稼ぎ方を続けるほど、少しでもお金のもらえる仕事がないのだろうか。そこを知らずには取るべき態度が定まらないのだけど、特にまだ幼い子供にせがまれると胸は痛まずにはいられないので。それにしてもアフリカ、アジア。こんなことはもうたくさん見てきた。偉い方々、ぜひ彼らを救ってあげてください。


 広く知られていることなのかは分からないが、出発前に考えていた以上に薬物の勧誘を受ける。これまで行った国で、そういうことが一切なかった場所は皆無だった。高圧的に押し付けられたりしたことはないので、そこまで大きく心配することはないけれど、疲れている日などはこれが鬱陶しい。特にインドでは頻繁に起こる。実際に外国人旅行者でこれらを愛好する姿もたくさん見てきた。バックパッカーを志すなら、こういうことも不可分であることは知っていて損はないと思う。エジプトかどこかで「お前の顔を見れば、これが好きなのは一目瞭然だ」というようなことを言われた時は、本当に勘弁して欲しかった。


 バラナシで有名な日本人宿に結局4泊した。かなり汚いという噂は聞いていたが、シャワーも使え、1泊100ルピーというので離れられなくなった。明らかに洗われていない、硬い布団。虫や爬虫類の入り放題なこの場所は、これまでの経験がなく、日本から直接来ていたら無理だったと思う。慣れは恐ろしく、そこに求めるものは月日とともにかなり減った。今だけに集中することも簡単ではなくなってきたけれど、今一度、心を軽くして歩いていきたい。これがなかなか難しい。


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死と煙

 電車は予定より3時間ほど遅れて到着した。3段ベッドの中段で、その環境にしては十分と言える睡眠をとり、コルカタの駅で買っておいた菓子パンを頰張る。スピリチャルなインドのイメージに、バラナシは大きな働きをしている。「豊饒の海」の執筆のため、この地を訪れた三島由紀夫は、宗教が生活と密接に息づいている光景に驚いたと言う。聖なる川、ガンジス川が車窓から見えた時の喜びは、旅の中でもしばらく味わえていないものだった。想像してたよりは、橋の上、少し高いところから見ると綺麗であると思う。僕の真下、下段にいた韓国人の女性とともにプラットホームに降り立ち、新しい日の空気を吸う。早速リキシャーの価格交渉に入るのだけど、韓国人、女性、頼もしい連れのおかげで、僕は無口のまま安く街に行けることになった。サイクルリキシャー、つまり人力で運んでもらう。大きなバックパックを背負った2人、運転手のオヤジはかなり辛そうに、汗を拭いながら進んでいった。コルカタに比べると道が狭く、我先に進みたがるインド人と合わさってクラクションは止むことを知らない。ましてやゆっくり進む僕らの足は、批難の轟音を浴びる恰好のターゲットになる。あまり遠くないところで降ろされ、そこからは乗り物は入れないらしい。100ルピーで最後まで納得いかない顔の運転手さん、お疲れさま、さようなら。


 歩き始めると、こんなところでも頻繁に日本語で声をかけられる。そういえば先日、サダルストリートで一緒にいた流暢な日本語を話す人々は名高い詐欺師だったらしい。ネットに写真まで上げられているのには驚いた。ほどほどに別れておいたのは正解だったらしい。やっぱり話しかけてくるやつは危ない、旅をした人が必ず持ち帰る事実の1つだと思う。この区域はさっきまでとは違い、交通がバイクくらいしかないので安心して歩ける。車道も歩道もないようなほとんどの道は、歩くだけでかなり神経を使う。そして多くの人がイメージを持っているであろう、やっぱり汚いガンジス川が目の前に広がる。たくさんのボートが寄せられ、歴史を感じさせる建物が川に沿って並ぶ。薄眼で見たら美しいところなのだが、現実は牛、牛、牛の糞、ゴミ、ゴミ、ゴミの臭い。これぞ完全にインド。


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 どうやら予約していた宿は更に2kmほど降ったところにあるらしく、失敗したと思いながらなおも進む。すると初めてくる街で自分の名前が聞こえた。空港、コルカタでもご一緒した方と3度目の再会。僕が追いかけるような形になっているので不思議ではないが、運の巡り合わせを感じる。すでに2日滞在され、慣れたこの方に街を案内してもらう。そこには噂通りのバラナシがあった。迷路のような細い路地が、人、バイク、牛で溢れ、心地よいリズムでは歩けない。この国に来てからはそこら中に落ちている牛の糞、本体の大きいのは流石に避けるけれど、小さいものはもう気を使うのが馬鹿らしくなるほどそこにある。よって頻繁に踏んでいるだろうと思う。それを踏んだからって「うんこまん」とからかってくる同級生たちは、今は、そしてここにはいない。グルメのことなど、1つの知識も持ち合わせていない僕。ありがたいことにラッシー屋に連れていってもらう。ここは1日に2〜3000杯も売り上げると言う有名店。狭い店内に体の大きい西洋人がぎっしり詰め込まれている。日本人2人、臨時の椅子を出され、狛犬のごとく入口の両側に陣取る。種類も豊富に用意されていて、迷った時には必ず選ぶストロベリー。がなかったので、ブルーベリーアップル。名前はとにかく、実際どんなものかもわかっていなかった。しばらく待って持ってこられたのは、ヨーグルトのような、食べるのか飲むのか、その中間にあるもの。スイーツとは離れていたから、とても美味しかった。


 そして進むと火葬場がある。ヒンドゥー教の聖地。ガンジス川で死ぬことが、教徒にとっては1番の幸せであるらしい。各地から死を間近にした人々が最後の財産を叩いてまで訪れ、喜びの中に眼を閉じる。この地域には火葬場が複数存在している。狭い路地にいても、5分に1度を上回るようなペースで、遺族が担ぐ飾った担架のようなものの上に置かれ、無になった身体が運ばれていく。24時間燃やしているところもあり、この行進は唄を歌いながら行われる。慣れない旅行者には睡眠の妨げになるだろう。観光客でも燃やすところまではっきりと見ることができる。日本のように個室や室内で営まれるわけではなく、剥き出しの岸辺に、いくつも木が組まれたものが並び、1度聖なる水で清められた死体はそこに置かれる。同時に複数の人の死に赤い火が配られている。最初は黄色だった煙はゆっくりと色を黒くし、運ばれていく。風に乗った人の死を浴びる。全く知らない人の最後を浴びる。人生の中で最も特殊な体験の1つだった。煙は止み行き、燃え尽きて、残った灰は川に流される。そして彼らの幸福は約束される。目の前にあるのは自分にとってシュールとも言える光景、言葉はでない。流石に写真は禁じられ、自撮りに励む旅行者もいない。旅の中で、これだけ厳粛さを感じられる場所はなかった。一日中煙が上がり続ける、火葬場のためにある街、火葬街。1つのことを文化、習慣とは言え、ここまで守られていることに大きな感動がある。


 文字通り神聖ながら、あたりは変わらずゴミだらけ。そのまま放っておける精神は理解できないけれど、インドらしさと言えば納得がいく。それでいて美しいと感じる心が確かにあった。この一角には女性がいない。過去に夫の死に、焼身自殺をする、迫られる妻がいたことから、今は女性は船の上からとなっているようだ。最後に側にいてほしいのは、どう考えても連れ添った妻であるように思えるけれど、これは堅く守られている。おかげで岸はかなりむさ苦しい。1番見たかったもの、初日からしっかりと留めることができた。ちなみに妊婦や障害を抱えた人は焼かれずに重りを付けられ、沈められる。地元の人々は当たり前のように沐浴をし、日本人的な感覚だとむしろ汚しているのではないかと思う、この川で洗濯をする。伝統とは、その地に育ったものにしか理解のできないところがたくさんある。それが強烈に残るこの街に、日本人をはじめ、旅行者は特別な感慨に浸るのだと思う。こうして今のところはすっかりインド肯定派なのである。


 休憩に石段に腰を下ろして、暮れゆく街を眺める。だんだんと昼間とは比べものにならないほどの人々が集まり始めて。カーストバラモンに属する人によって、礼拝が毎晩行われている。男たちが歌いながら、火を手に舞を繰り返す。現代のスピーカー、電飾などは用いているが、どれだけの時間、これは継承されてきたのだろうか。踊り、そしてそれを真剣に見守る人々のつくる表情は、ずっと変わっていないのだと思う。偉そうに言うが伝統舞踊を心底楽しむには、若すぎるのか、あるいは僕の感性はそこまで豊かではないのか程なく飽きる。ずっと立っていたので疲れ夕食へ。1人ではなかったこともあり、初めて屋台ではなくレストランと呼べるようなところに入る。インド初のビールと共に。ネパールにいる時、ほぼいつも食べていた国民食モモ。向こうでは主流のバッファローモモは食べることはできないので、ベジタブルモモ。そしてガーリックフライドライス。気がつけばベジタリアンのような生活をしている今日この頃。体に変化は今のところまだない。ゆっくりと食事を摂られることへの喜びは、感じずにきた。どんなことでも少しを間を取ることで、特別なことのように感じられる。このことは帰国後も忘れてはいけないことだと思う。到着したのが昼過ぎ、そこからかなり濃い1日を過ごした。そろそろ帰ろうか。


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 深夜、一緒にいた方から嘔吐と下痢に苦しめられているという連絡が来た。数時間前まで元気で、昼からほぼ同じ物を食べていた。自らを心配してみるものの、多少弁が水っぽいくらいか。昔からお腹が弱かった気がするが、どこかで鍛えられてきたのか。ほとんどが泳いだ末に謎の病にやられるというガンジス川、自分ならばと危険な自信が膨らんでいく。


人口爆発とはこのことか

インドの価格設定に慣れてきました。わかればわかるほど不思議に思えてきます。一番大事な食事代。基本的に屋台で食事を摂れば、その中でも場所によって差はあれど30ルピー〜高くても80(約140円)というところで食べられます。水1lは今の所どこで買っても20ルピー。これらから期待したもののタバコの価格は、280ルピー(約480円)と言われました。高い、もう2日間3食くらいの価格です。もうここのところ毎日禁煙しようと思いつつ、どうしても吸いたくなる。ただこの値段だと、本当に馬鹿らしくなりました。食事と比較するといかにも高級品といったところです。家を持たない人々が、人の吸い終わったタバコを拾って、残りわずかなものに火をつける姿。珍しくなく痛ましいこの光景も納得できてしまいます、買えるわけがありません。バラ売りもしているので、この日は1本を14ルピーで買いました。貧富の差とともに、価格も高低差に大きな開きがあります。街を歩いた帰り道、どうしてもトイレに行きたくなり近くにあった喫茶店に入る。ここはそれなりに綺麗な場所で冷房も効いているようなところでした。当たるのは空港以来です。お金を使いたくないと思いながら、アメリカーノのアイスを頼むと190ルピーもする。そして絶望的に美味しくない。立ちションすればよかったと後悔しました。貧困ビジネスという言葉を日本でもよく耳にするようになった今日、圧倒的に様々なバックグラウンドから人の集まるインドの都市では、潤う者、飢える者、それらがぎっしりごちゃ混ぜになって、1つの街、国の姿をつくっています。ちなみに宿は一泊440ルピー(約770円)のところに3泊しました。小さくはない出費です。探せばもっと安いところもきっとあるでしょうが、結局移動はしませんでした。場所によってそれも変わるようで、調べるとこれから向かうバラナシは半分ほどで1泊できるところがたくさんありました。ありがたい。結局最もかかるのは移動費。僕はそれなりに移動を繰り返しているので、時には飛行機、フェリー、鉄道、バスとこればかりは抑えるのが難しい。バラナシまでの電車のチケットは1100ルピーかかりました。これも他の国に比べるとだいぶ安いのは確かです。


そのチケットの予約がけっこう時間がかかりました。駅とは別のチケットオフィスに行かなくてはならず、シーズン的に混むと言われていたので、開く1時間前の到着を目指し8時に宿を出ました。きっとバスを使っても大した値段ではないでしょうが、1時間以上歩いてようやく到着。東南アジアの国々と比べるとさほど暑くないので助かります、長袖でもいられるくらい。今思うとやっぱりカンボジアあたりはものすごく高温だったなと思います。もう汗が止まることを知らなかったから。予定通り10時に開いた事務所で、14の整理番号をもらった僕。順番が来て、終わった頃には2時間以上経っていました。翌日の20時発、バラナシに9時半到着の列車。これでもうすることもなくなって、昼食を食べてブラブラ歩いていました。たまたまその周りには路上生活をしている人々が、木材やシートで歩道に家を設けている。前日で終わったはずのホーリー、まだ身体中に色が付いたままになっている人たち。シャワーなどは浴びられていないのかな。道には水が湧き出ている箇所がいくつかあって、老若男女が体を洗う風景が都会の中に溶け合っている。川に接する地帯に進んでいくと、なんて事のない、特別な事など何もない日に関わらず、土日の渋谷の日にならないくらいの人で溢れかえっている。両側には壁すらない木だけで作られた住居のようなもので子供たちが遊んでいるのが見える。人はそれぞれに忙しそうに流れていく。


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少し落ち着いたところまで来て、疲れたのか歩く気も起きなくなったので道端に座り込んでただ行き交う人を眺めていました。鳥のフンだけ踏まないように、その間を縫って。もちろん肌の色も他と違う日本人がポツンといるのは日常的なことではないはずなので、常に人の視線を感じていましたが、話しかけられるようなことはほとんどありませんでした。僕が見ていた通り、手前の方は途切れることなく見るからに重そうなものを頭に乗せ、リヤカーに乗せ運び続ける人々が往来を繰り返していました。こういう光景は日本では機械化されている部分が多かったり、そうでない部分は目につかないところで行われる場合がほとんどです。その違いに目が離れませんでした。一方で道路を挟んだ奥の歩道では、それなりに身なりのいい人たちが視界を右に横切っていました。近くにいる労働者の人よりも、この奥の人々がより僕のことを気に留めていたように思います。そしてより綺麗な格好をした人たちはバスに乗り、タクシーに乗り通っていく。特に何かを考えてた訳ではありません。無我なところで、道の一部になったような気分でしたが、器があるから見られてしまうなあと。全く気に留められなくなるにはどうしたらいいのかな。でもすぐ近くに横たわっていた、家を持たないであろうおじさんには誰も目もやらないようでした。唖然とするほどの数の人にもみくちゃになりながら、僕にとっては1人も特別な人などいない。1人の人に重さを付与したら、他のすべての人も同じ重さになる。誰も僕が過去にしたことを1つも知る人はいないし、相手のことも何も知らない。宙に浮いているような非日常の中で、頭の中もよくわからないことになっていました。こんなことを1時間ばかりして、途中何度も立ち止まり、座ったりを繰り返しながら宿に帰る。ただ歩くだけでも神経を使うのがコルカタ。この日は他には特に何もせず寝ました。


翌朝はチェックアウトを済ませなければならなかったものの、同部屋のブラジル人、インド人が起きてくれなくて、起こすまいと準備ができない。朝食を食べて戻っても状況は変わらず、結局11時を過ぎてようやく動きはじめる。バックパックを宿に置かせてもらい、マザーハウスを見学に行きました。小学生の頃、本や漫画で伝記を読むことが好きでした。その中の女性で記憶に残っている人は、ジャンヌ・ダルクキュリー夫人、そしてマザー・テレサ。インドでの人道支援、その拠点にしていたのがコルカタでした。彼女が使っていた部屋などが公開されている。彼女の行動、言葉に感銘を受けたかつては少女たちだったのかもしれません、ここにはたくさんのシスターたちがいらっしゃいました。誰でもボランティアに参加することができて、したいとも思っていたのですが後にすることにしました。7時集合というハードルが高すぎたので。自分が立っている場所でかつてマザー・テレサが飢える人たちに暖かい目を注いでいたかと思うと、古い遺産とは違い、明確な歴史を感じ取ることができました。


その後は暇を持て余して、宿から近くの公園に行ったのですが、荒れ放題になったところに牛が普通に歩いていました。奥に進むと子供達が国技とも言えるクリケットをいたるところでやっています。それをただただ見ていると現地人たちに囲まれ「やってみる?」と言われる。野球と似ているからいけるかなと思いつつ挑戦。これはもう似て非なるもので打つにしても凄く難しかった。世界で3番目に競技人口が多いと言われるクリケットですが、実際に見たのはインドが初めてでした。その後は、何を勉強しているのと問われ、文学と文化と答えたところ、いつからか25歳の男性から2時間もインドの文化とイスラム教についての説明を受けることになる。公園にいるのに座らせてくれることもなくひたすらに続く授業。相手は良かれと思ってしてくれていたのでしょうが、初対面の人間に対して暇すぎじゃないか。敬虔なムスリムの方々は自分の体験も引き合いにコーランをよく勉強しているという印象を受けます。ただこの勉強があるからこその理解、それができる余裕がある人は多くないのかもしれません。彼らの考える教えは確かに多くの場面で人の気持ちを楽にしてくれそうですが、それを慎みを忘れ見当はずれのところに応用する人間が多すぎるのかな。何と言ってもインド、今のところ超ローカルな日々を送れています。現地の人と関わりを持てた日は、なんだか充実感があるんです。


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そして僕は駅に向かいました。ヒンドゥー教の聖地、聖なる川、ガンジス川で有名なバラナシ。世界一汚いと言われながら、多くの人を惹きつけてやまない街へ。もうワクワクが止まりません。ガンジス川で泳ぐか、泳がないか、どうしようかな。


ハッピー・ホーリー

前日はほとんど寝ただけで終わってしまい、実質これが初日です。ベッドは快眠を取らせてくれて、気持ちのいい目覚め。ドミトリーは他の客が爆睡中、居場所もなく出かけることに。コルカタ、僕が習った時はカルカッタでしたが、やはりイギリスの植民地だったことで知られる街。当時の名残、建物などが観光名所になっています。南アフリカケープタウンベトナムホーチミン、そういった統治下の遺産が名所になっていることはよく目にしますが、今の僕にとってはなんだかなあと言ったところです。今の国家はそんな歴史の上にできているから重要なものでしょうけど、あまり興味は惹かれない。でも行きます。


途中で朝ごはんとして、屋台を見つけバターと砂糖を挟んだトーストとゆで卵1つ。20ルピー(約34円)の朝食後、しばらく歩いて8ルピーのチャイをいただく。いたるところチャイを売っている屋台があり、おちょこのようなコップに注いで渡してくれます。インドらしさ満開の光景、これを飲みながら一服することにはまってしまいそう。2kmちょっと歩くとヴィクトリア記念堂に到着。建物内は博物館になっていて、そこに入るには200ルピー必要。庭だけなら10ルピー。のんびり椅子に座っていたい気分だったので、後者を選んで腰を下ろす。どこにでもたくさんいるカラス、連日フンがかかる。昨日はカケラが頭についているのを帰ってから発見しました。恥ずかしい。この日はサンダルの細いバックルに。そこらへんに落ちてる葉っぱで拭く。この庭がかなり広く、草花が綺麗に整えられ、左右均等に池がある。その中に白い建物があります。とても落ち着けるところでしたが、ベンチや木陰は地元のカップルで溢れている。なるほど、そういう場所なのか。そこらにはたくさんリスがいて、可愛らしい姿を見せてくれました。何匹かいる白鳥の中に、1羽くちばしの上、おでこに当たるところに黄色いコブを持ったのがいて、少し他の鳥たちとは距離がある。みにくい白鳥。植物も日本では見かけないようなものばかりで見始めたら止まりません。いいかげんにそこを後に、次に向かったのはセントポール寺院。中は撮影禁止でしたが、慎ましい雰囲気、聖像はなく古い十字架が1つ、その後ろには一面の画があります。ここもなんだか安心できる場所で人が次々入れ替わる中、ゆっくりしました。ただ高い天井から無数のファンが地面から3mほどのところに吊られていて、全部を強にしたら天井が飛んで行くんじゃないかと、そんな訳のわからないことを考えていました。近くにマハトマ・ガンディーの娘、首相を務めたインディラ・ガンディーの像が立っている。立ち止まって見るような人は誰もいませんでしたが、これが他に見たことないくらい優しい目をしていたのが印象的でした。そして昼食にこちらも屋台でカレーを食べる。ボリュームのあるフィッシュカレー、周りが手で食べるのを見て、僕もその気でいたのですが、気を使われたのかしっかりスプーンを渡してくれました。屋台と言っても道端に台車と気の屋根があるような簡易的、非衛生的なもので、なんの抵抗も感じないことにバックパッカーとしての成熟を感じます。お腹いっぱいになり、値段がわからず100ルピーを渡すと50ルピー帰ってくる。約85円でこれが食べられる。この価格なら腹を壊すようなことがあっても文句は言えません。この時点でかなり満足感があって、穏やかな気持ちの中、安宿が集まっていることで有名なサダルストリートにどんなところであるか興味があったので行くことにしました。ここから全く違った1日になる。


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その通りへ向かう間に、顔体を真っ赤に染めた家族に会いました。そういえば昨日から、いろんな色で汚れた人たちを見かけていた。全く知らず知らず、到着したのはインドのお祭りホーリーの真っ只中だったみたいです。お願いして写真を撮らせてもらうと、ノリノリで写ってくれて、別れ際「幸せの印」と軽めに僕の顔も塗られる。着くなりすぐに声をかけられ、詐欺師がたくさんいると有名なこの通り、警戒しながらも日本人もいるからということでついていく。そこで前日、一緒の飛行機で一夜を空港で共にした方と再会。安心してその輪に入る。奥さんが日本人なんてインド人もいて、かなり流暢な日本語を話す人が3人ほどいる。パーティしようと移動し、おろしたてのチキン、ウィスキーなどを振舞ってくれました。太鼓の音が響き渡る通りで、子供たちは水鉄砲を持って打ち合っている。大人も子供もみんな様々な色が塗られ、どんな顔をしているかもよくわからない。最初はそれを見ているだけでしたが、だんだん僕たち外国人もターゲットにされはじめる。一度荷物を預けて、特に盛り上がっている裏通りに入っていくと染めてあるタオルをぶつけられたり、バケツで水をかけられたりときている服、顔の色は一気に変わる。一度汚れてしまえば、こちらも「もうどうにでもなれ」、地元の子供たちも「あいつは攻撃しても大丈夫」。赤、緑、黄色、紫、ピンク。何層にも渡って顔に塗りたくられる。「ハッピー・ホーリー」何人ものインド人とハグをする。酔っ払った大人たちが太鼓に合わせてダンスをはじめ、馬鹿みたいに笑う。散らかるゴミ、漂う臭気、そんなものは吹き飛んで忘れ、カラフルな世界、汚れていないものなんて周りにはもう何もなくなっている。久しぶりに地元の人たちと時間を共有できた実感があり、この時間は旅中でも一番楽しい思い出になりました。


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残念ながら普段は宗教上の理由で飲まない、そのタガが外れ、徐々にうざさが姿を現わす。インド人は老けて見えるのもあって、30歳ほどだと思っていた日本人論を何度も何度も語ってくるやつが23歳だとわかり、本当にイライラしてくる。そうなってくると日本語を使うというのはもう厄介でしかありません。言葉は壁になるけれど、乗り越えなければならないのと同時に守ってもくれる。本当に楽しめた後でも結局お金の話になるのがいつものパターンで、そうだとわかりながら、どこかで今回は違うかもしれないと期待する、そして結果はいつも同じ。この体験が積み重なると、だんだんフレンドリーな地元の人を信用しない方がいいとは思うのですが、それでは深いところが見えない気もする。難しいところです。どれだけ楽しんだ後でも気持ちよくない別れをすることが多い。「日本人は保守的だから、西洋人と違って本当の楽しさがわからないんだ」言いたいことも分からなくはないけど、ずっとこの人たちといるのが楽しいわけではないんだよな。自由と自分たちのハートの大きさを豪語するインド人。心から楽しむっていうことに慣れていない日本人の方が多いのは事実だと思います。あまりに騒ぐ姿は滑稽に見えることもある。それはまあ個人差もあることでしょうし、それぞれに楽しいポイントは違う。ただそれを国民性で語られるのは納得できません。日本にだってそれを好む人もいるし、インド人が皆それを愛す訳では絶対にない。出会いは易く、別れは難い。こんなことにも慣れたものです。


帰り道、どこもこのお祭りに盛り上がっているのだろうと思いきや、その区画を離れてしまうと汚れている人なんて誰もいない。笑われるならともかく、不審そうな目で見てくる人が多い。子供の中には逃げ去っていく子もいて。「いやいや、あなたたちのお祭りでしょ?」と言いたくなる。世界的に有名なこのイベントですが、その範囲は広いものではないようでした。宿に帰るとオーナーに引き止められ、すごい剣幕で「何するより前にシャワーを浴びろよ」と強めに言われる。思っていた反応との差に戸惑いながらも、まっすぐシャワー。この時には既にほとんど黒と言ってもいいような色になっていた僕の顔、当然ですが落とすのはかなり大変でした。水を浴びると順にいろんな色に染められた水が体を伝ってくる。顔は4回くらい洗顔をして、ようやく大丈夫だろうというところまで落ちました。それでも何箇所かは無理と諦めました。この手間取った作業の間に、気持ちはかなり現実に戻ってくる。どれだけ一生懸命洗っても、ジーンズなどに着いたものは取れなくて、もうこれはいい記念だと開き直り、頑張ることをやめました。


海外の祭りに参加するような機会にはこれまで恵まれなかったので、何より嬉しかった。3日ぶんくらいのイベントが詰め込まれた1日に、帰ったらもうヘトヘト。21時ごろにはベッドに入って休む。まだまだ始まったばかりですが、インド好きです。汚い、煩いにはかなり鈍感になっているおかげだと思います。日本からいきなり飛び込んだら、辟易しているかもしれない。たぶん明日はあまり動かないだろうことは自分がよくわかっています。


WBC開催中ですよね。前評判以上に盛り上がっていて、野球ファンとしては観れられないのが残念です。宿にいる時に試合があると、頻繁にスポーツナビを確認してしまいます。ただこの調子でキューバに連勝することになると、現地に行った時に敵にされ、イジメられないかという心配を抱えているのは僕くらいではないでしょうか?

僕はインドに立っているよ

直前で一度落とされる経験をしたからか、入国審査を済ませることができた喜びはひとしお。


真っ先にチェックインを済ませたっぷりある時間。たまたま同じ時間帯に成田行きの便があり、日本人の方がたくさんいる。僕は壁際の椅子に座って、そこを通るアジア人の国籍を見分けるゲームに興じ、気がつくと1時間が経過している。コルカタ行きのゲートへ向かうと、先ほどまであれだけ馴染みのある顔立ちが揃っていたのに、ドラヴィダ系の人にほとんどの割合が占められている。他にバックパッカーが何人かいるばかり。ここで早くも、インドに行くという実感が湧いてきました。初めてのエアアジアは荷物に7kgという重量制限があって、確実にオーバーしているのをわかりながら、ゲートまで持ってきてしまっま。いたるところに重量計があって、僕を不安にさせる。気づかれたらきっとお金を取られるだろうと。結局最後まで、明らかにパンパンなバックパックへの言及はされず安心。LCCどんなものかと思っていましたが、特に不便なこともありませんでした。無駄が徹底的に省かれ、座席は普通はビジネスクラスがあって座れない4列目。荷物入れも閉めると企業の広告が貼ってある。イヤホンはもちろん、音声放送、画面もない。救命胴衣などの情報は、CAが実技で説明する。むき出しになったタッチパネルを操作し、凡ゆる必要事項が流され、電気が消され。機長の声を聞くことは一度もありませんでした。そんな中で狭い機内に4人ばかりの客室乗務員は忙しく働き、乗客の要求に応えていく。赤を企業色としているので制服も突然真っ赤。これがけっこう素敵で、1人とても綺麗なCAさんがいたので、電気がついている時はほとんどこの人を眺めていました。着いたのは予定通り深夜1時過ぎ。


心配していた日本人だけが取れるアライバルビザは、24番まである入国審査場の1番隅っこにありました。係員も滅多に相手にすることのないこのビザにかなり時間がかかる。書類は厳格なもので、父はともかく、母親の名前まで書かされたのは初の経験でした。祖父母まで遡ってパキスタンの血は入っていないかという欄も。幸い自分だけだろうと思ったこの手続き、もう1人日本人の方がいらっしゃってお互い話しながら進められたので苦ではありませんでした。僕としてもこの夜遅くではどこにいくこともできないので、ここで時間がかかるのはむしろありがたい。結局1時間ほどかかり、最後に係員に「アライバルビザは大変なんだぞ」というアピールをもらい終わり。この人の手際の悪さもあっての長期戦であったと思います。お金をドルからルピーに替えると、お札にガンディーの肖像が描かれていて嬉しくなりました。空港自体はかなり大きく、綺麗なもので到着ロビーも店は少ないものも十分寝られそう。苦しかったのは喫煙室がないところ。インドならばどこでも吸えそうというイメージは裏切られ、外にはあるけれど一度出たら戻っては来れないよという具合でした。3脚セットの椅子がずらりと並び、すでにここで就寝している人もたくさんいる。もう1人の方も同じようにここで朝まで過ごすということだったので、喜んでお供しました。もちろん快適な睡眠は得られずとも、無事に朝を迎えられた。ただ変な体勢で寝たためか、起きると左足に激痛が走って1人で悶絶しました。この違和感は昼過ぎまで留まる。朝食にさっそくインド料理、名前は忘れましたが生地を焼きながら薄く伸ばしただけのもの、味もほとんどなく、腹にもたまらないこれにカレーなど3種類のソースをつけて食べる。きっとしばらくはカレーばかりの日々になると思います。工夫しながら飽きがくるのを、だましだまし伸ばしていきたい。お互い宿が近かったのもあって、タクシーをシェアして市内へ。


早くもインド、カオスの片鱗をのぞかせる、30分ほど。どの車もというよりは、僕たちの乗ったタクシーのドライバーに問題があったようで、自分が人を轢くことはあり得ないと言わんばかり、クラクションを連発しながら狭い道でも猛スピードで進んでいく。それをバックシートからヒヤヒヤしながら見ているわけですが、恐怖を通り越してもう笑えてくる。街並みはネパールにいた時を少し思い出させてくれるような、あっても3、4階でもろコンクリート、いろんな色彩を持った建物が続く。綺麗とは決して言い難い中に、インドの雰囲気が飲み込めてくる。先に降りた日本人の方が選別と言ってセブンスターを1箱くれたのがなにより嬉しくて、7つ年上で短い間ではありましたが助けてもらい、またどこかで再会することを約束しました。


そのあとは自分の宿までという話はしてありましたが、ここで追加料金を要求される。300ルピー(500円ちょっと)言われ、なら歩いていくと伝える。5km以上あるから無理だと言い張りますが、僕の手元には地図があって確実に1.7kmと書いてある。きっとこれからこんな日々が続くのだろうと思うと、ちょっとうんざりもしてきますが、余計に使わなければならないエネルギーがある日常、わかりませんがすごく楽しい。とにかくインドでは騙されないようにしていきたいと思います。結局100ルピーまで下げてきたのですが、これ以上使いたくなかったので歩いていくことにしました。このドライバーの運転を見ていたら、道路を渡るのも一苦労だろうと想像できましたが、実際にはそこまでではなく。とりあえずクラクションは街を包み込むように響き続けていますが、こういう環境には慣れたものです。人々を見ていると同じアジアでありながら、東南アジアよりはエジプトなどアラブ圏に近い感じがします。噂通りの野良犬の数。犬と烏がこれほど我が物顔で跋扈している姿は新鮮で恐ろしくもあります。道は舗装はされていますが、かなり崩れているし、ゴミは散乱し、さらには頻繁に何かの糞が落ちている。思っていた通りの光景。果たしてこの中で僕は楽しんでいけるのだろうか。宿がわかりにくいところにあったので、近くに着いたところで迷い道を尋ねました。「インド人は尋ねると違う道を答える」という都市伝説は有名ですが、実際は親切に宿まで電話をかけてまで探してくれました。お金を要求されないかと過剰な心配を他所に、お礼を言うとそのまま笑顔で見送ってくれる。やっていける自信がつきました。


Booking.comで一番安い宿を選んだので、期待はしていなかったのですが、2日間ベッドで寝られなかった反動からか、それが目の前にあるだけで嬉しい。さっそく寝てしまい、起きた頃には夕方。寝る前はまだタイの時刻を刻んでいたiPhoneは、起きるとインド時間にシフトしていて、最初は3時頃かと思いましたが、すでに4時半になっていました。それから街を歩いたのですが、人口爆発、貧富の差、階級制度がはっきり目に飛び込んできました。道端で寝ているような、無駄な肉の一切ないような人々、物を乞う子供達がいる後ろには高級車や有名ブランドがびっしりと入ったショッピングモールがそびえ立っています。歩いていても周りには屋台などやレストランなどがあまりなく、どこでご飯を食べたらいいのかよくわからない。とりあえずケバブのような物を買って空腹を紛らす。タイで最後にハンバーガーを食べたのは正しかったと今更ながら思います。ここでは神様の動物である牛は食べることができないし、豚もほとんど口にされない。羊もあるようですが、多くが鶏。カレーと鶏肉縛りというのは、あとあとかなり精神的に追い込んできそうな予感がします。


出発の予定以外何も決まっておらず、広い国土、たくさんある魅力的なプレース。どう回っていけばいいかは本当に悩みどころです。何はともあれ、苦労はありながらも13ヶ国目インドに到着することができました。観光以上にただこの国の発するエネルギーに触れて、自分なりのインド像を描いていけたらと思っています。コルカタは人が多く、栄えてもいますが、これから人の少ないところなどにも積極的に足を運んでいきたい。人の集まるところは世界中、あまり差異がないと思っています。それを離れて昔ながらの暮らし、習慣の残っているところに本当の特色、文化がある。ケニア以来の長期滞在、インドを好きになって次へ進むことができればいいのですが、そんなに甘くない気もします。兎にも角にも命があればいいと思っているので、揉まれる中で発見があればと。そんなことを期待させてくれるのもきっとインドだからこそです。


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クラクションうるさい。

出発から100日ですって

いつの間にか、出発から100日を超えました。まだそんなものか、もうそんなたったのか、様々だと思いますが、カンボジアに向かうバスの中で暇つぶしに記憶を辿ってみる。それが正しければ、これまで32箇所の宿を使ったことがわかりました。深夜バス、寝台列車、それらの中で休んだことも少なくありませんし、ケニアでは同じところに3週間いたにも関わらずこの数。僕にはすごく多く思えて、自分がやってきたこととは思えない。どこか他人事のような気持ちで、この数を前にしています。2日に1回近く換えていることになるかもしれません。これはもう、よくもまあ動いたなという感想なんですが、国も同様に


南アフリカ(宿数:4)

ジンバブエ(2)

ザンビア(2)

タンザニア(4)

ケニア(4)

エジプト(3)

ヨルダン(3)

イスラエル(2)

(パレスチナ)

ベトナム(2)

ラオス(2)

タイ(3)

カンボジア(1)


12ヶ国に達し、そろそろスムーズにも言えなくなってくるのではないかと思います。大きくアフリカ、中東、東南アジアと3つに分けることができるのですが、(どちらかというとエジプトと中東でアラブ圏という方が正しい気がします)この1ヶ月いた東南アジアはイメージカラーでいうと"赤"です。季節的に暑かったというのもありますが、伝統的な建築物の色であったり、街並み、服装、そして人が醸し出す雰囲気といったもの、赤が一番最適ではないかと思います。どこもよく夕陽が似合う街でした。アフリカは緑(自然)、中東は青(寒かったことにも引っ張られている気がします、単純)。また他の地域よりも、文化の類似性が多いので、驚きや発見より安心感に包まれる期間でした。このタイミングで味わえたのは、ちょうどよかった。おそらく残り半分ほどになった今、新たな土地へ進む活力は十分に充電できました。予定ではインドに入国しているはずだったのですが、この事はどうしても暗い気持ちにさせてきます。今晩こそしっかり入国し、13ヶ国目として、1ヶ月近く張り切っていきたい。


昨日の失敗を引きずり、気持ちの荒ぶりはなかなか抑えられません。普段は「しょうがない」と堪えられるところで、それができない。タイへのバスの乗員の態度がものすごく悪かったことに、接客には期待していない僕も、ついイラっとしてしまいました。そんな日も日々の中ではもちろんあるんでしょうけど、何か少しこの旅で大らかになれたような気がしていたのを、皮を剥がされてしまったような気持ちです。それでもバスは快適で、乗客も少ない。ただ国境で特殊な順序を踏まなくてはならないため、緊張感は離れません。深夜12時半に出発し、途中で道路の端に停まったりしながら事務所が開く時間に合わせているようでした。そんなことで、国境でバスを降りたのは夜が明けた頃。まさかもう一度ここにくるなんて、昨日まではちっとも思っていませんでした。他の乗客はまっすぐ出国手続きに向かう中、僕だけ入国手続き場に行かなければならない。そんな中でも、昨日からカンボジア人の優しさに触れてばかりです。この日も事情を説明するとしっかり対応してくれました。ここは無事に解決、タイへの再入国も他の人より時間がかかり、不安にはなりましたが果たすことができた。何度も迷ったことも重なって、結局バスの乗客の中でダントツ遅く戻り、全員を待たせることになってしまいましたが、置いて行かれなくてよかった。これがようやく安心したこと。不幸中の幸いといったところですが、第1関門突破。


到着したのはあのカオサンロードでした。悩んだ末に行かなかったのは、結局こういうオチに備えてのことだったのだろうか。ここは夜に本気を出す場所なので、昼間は確かに外国人はたくさんいるけど別にする事はない。暑い。とりあえずひと通り歩いてみて、こんなものかと確認する。全くタイと関係のない柄のTシャツがどの店でも売られていて、デザインの可愛いものばかりだった。買うつもりは毛頭ありません。バタバタして昨日の昼からほとんど食べていなかったので、バーガーキングハンバーガー。マクドナルド以上に世界ではたくさん見かけますが、入ったのはこれが最初。タイ料理にすればよかったと後悔する。この一角だけは人が集まっていましたが、少し離れるともう外国人はほとんどおらずシャッターが閉まってばかりの通りもありました。新しいビルの隙間を住めるように、バラックの家が密集していたりもする。栄えているといういんしょうばかりで、そういう状況を前回の滞在ではあまり見られていなかったので、一拍置いたことから見えたこと、収穫はあったことにさせてください。


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深夜バス明けだったのもあって疲れていたのか、ぼうっとしながら。不運の影はこの日も僕から離れてくれません。赤信号を渡った僕に非があるのですが、バイクとぶつかる。そんな大げさなものではなく、かわしながらも手があたったくらいです。お互いに一瞬止まったものの、そのまま元の生活に帰っていく。カオサンから空港までは20km以上、電車に乗ったものの、途中から線路は違う方向に伸びていて空港には行けずより離れたところに到着。発着がどちらも無人駅で、無賃で乗れたのがせめてもの救いでした。そこから歩いても、いく道がどれも行き止まりになっていて、もうめげそうにもなりました。とにかく咆哮したくなる。大きな声を出したい。でもきっと平坦な毎日より、少しこんな思いもした方が後で深みが出るのかな。そろそろ僕の元から去ってくれないと、僕の忍耐力はそんなに大したものではないので。どうか幸せよ、この指にとまれ。とまってください。


前日に取ったにも関わらずコルカタまで1万円ほど。午前0時過ぎの出発で、2時間半かかるのですが、インドとタイでは1時間半の時差があるため現地時間の1時過ぎに着く予定です。そこからどうしていくかもかなり迷いどころで、これで2日連続深夜移動なので、はやくベッドで休みたい。深夜のインドはどんな所なのか。できれば日が昇るまで空港にいようと思っています。バンコクではやる事、いられる場所がなく、バックパックも持っているので18時過ぎには空港に来て、とりあえず椅子に落ち着く。諦めて乗ったタクシーの窓からは、これからのバンコクがますます発展するであろうことを見せつけられました。イタリアと共同の立体の線路が建設中。これがまたとても規模の大きいものでした。建設中のビルもたくさん見られる。東南アジアと一括りにしても、バンコクの発展の仕方は群を抜いていて、他の三国とは全く異なります。次いでベトナムラオスカンボジアは2つと比べるとかなり後ろにいる。歩んできた歴史など要因は様々でしょうが、寺がたくさんあること、食の共通点は多くとも、それぞれに特色もしっかりある。なにより全て自国の言語を持っていること。短期間で巡って行ったこともあり、それらはほとんど把握することなく後にすることになってしまいました。日本語、英語ともにあまり通じず、僕も現地の言葉はわからないので、もっと密なコミュニケーションを取れたらと思うのですが、なかなか難しい。それでもやっぱり人間、基本的に優しいんだなと。これから2日連続でインド行きにアタックしますが、もしダメなようなことがあれば心がポキっとなってしまう気がします。突然帰った時は、無言の中で察して温かく迎えてくださいね。


また東南アジアでは写真をたくさん撮ることができました。観光地だけでなく、日常の些細なものまで。と言うのも、それまでの地域は常にカメラを首に下げることが難しかったことがあります。実際にそうしないように忠告されたところも、自ら危険を感じてそうしたところもあります。ほとんどは観光客のいるところ、もしくは辺りに人がいない時に急ぐようにして撮るのが常でした。それもあってあまり写真も残せていないんです。残念ではありますが、安全にはかえられません。この1ヶ月はWi-Fiもよく働く所が多く、上記の理由からもブログも見栄え良くお伝えできたかなと思います。これからのインドではどうなるか、まだまだお付き合いよろしくお願いします。


次は必ずコルカタから。

ちょっと泣いてもいいですか?(下・インドのはずでした)

そんな最終日の夜も、ここには入れ替わり日本人がやってくる。新たにやって来た5人ほどと知り合い、最初は日本人とは思ってもらえてなかったようですが、夕食を食べに行くことになりました。カレーを食べながら、少し会いすぎた日本人も、この先合わなくなればまた恋しくばかり思うだろうと。最近は観光にしても、日々の生活にしても、ある程度自分が後に抱くであろう感情がわかるようになって来ました。きっと旅の中にサイクルのようなものができてきた証だろうと思います。海外にいても、僕らは共通点を探して、見つかると盛り上がる。そして、そんな共通点は探せば探すほど、驚くくらいにたくさんあります。実家の距離であったり、バイト、大学。僕らは沢山のものに属しているから、それを伸ばしてみると、普段はみえないかなり大きなコミュニティがあることがわかります。日本にいながら何かを探している人も立派ですが、海外に飛び出すという行為はそれが見えやすいからありがたい。いろんな考えに触れる1ヶ月間、飲んだアンコールというビールの味。忘れません。この時は、なんだかいい終わりに思えていたのですが。


翌朝も昼過ぎに空港にということでカフェにいき、予定の整理をして準備万端。そしてしばらく綺麗なところでの食事はないだろうと、少し奮発したランチを食べる。サンドイッチが好きであれば食べます。海外では、日本でもしっかりとしたレストランだとナイフフォークが出されます。僕はそれを見るたびに、「サンドイッチをナイフフォークを使って食べるような大人にはなりたくない」そんな訳のわからないことを考えます。自分にはそれが過剰に行儀が良すぎるように思えて。これも、とは言ってもほとんどのものが、美味しくて、幸せな気分を整え宿でトゥクトゥクが来るのを待っている。


子供たちは親以上に綺麗な英語を話します。それを聞くと、日本ではボランティアの対象国、貧しいというイメージのあるカンボジアの大地で、芽吹くことを間近に控えた大きな蕾を前にしたような気持ちになります。識字率といった数字を見ると、ただ後進国に留まっているという思いが多く心を占めますが、確かにそこには成長があること、それを体感として得られた喜びがありました。ポルポト独裁政権下、多くの人々、特に豊かな知識を持った人々は信じられないような歴史の中に葬られてしまいました。実際に街ごとにキリングフィールドと呼ばれる、それらの犠牲者を祀る施設が設けられています。積み上げれた、普段目にすることのない数の頭蓋骨を前に、この国が隣国と比べて低い水準の中に低迷している理由の根底を見る。それでもこの国では確実に新しい力が花開こうとしています。


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カンボジアからインドまで、シェムリアップの国際空港から飛行機で。その場所には出発2時間以上前に着きました。良かったのはここまで。チェックイン手続きがはじまり、僕も列に並ぶ。実はインド入国の際にアライバルビザを取得できるのは日本人だけなんです。今回はバンコクでの経由、そんな細かいことまで係員も把握していない。「ビザを持っていないと乗せることができない。」と言われ、列の端に追いやられる。次々に上役が現れ、心細さの中待つことしかできない。笑顔で帰ってきた係員、答えはオーケー。すぐさまチケットが発券され、何度も謝られながら出国手続きで。一度得た安心感はここですぐに折られる。係員にパスポートを見せたところ、聴き取れない言語でまた別の所に連れていかれる。何かと思うと英語を話せる人が現れ「あなたのパスポートには出国のスタンプが押していない」ビザを取得した時点で押してもらったと思っていた入国スタンプ、どうやら僕はもらえていなかったようです。かなり長い話し合いの末、「国境に戻ってスタンプをもらって来てください」。ここで係員の人たちはかなり一生懸命に僕を通そうとしてくれて、何度も謝ってくれた。予期せぬ状況に言葉を失い、インドへ高まる気持ちはどこか深いところへ消えていってしまった。国境への往復はタクシーで50ドルと言われる。再びチェックインカウンターに戻り、事情を説明すると提案されたのは、もう一度バンコクまで行って、そこから飛行機に乗った方が安いということ。どのみち今日中に飛行機に乗ることは叶わない。そして別れたみんなのいる街に行くのはなんとも情けない。失意の中、トゥクトゥクに乗り、道中ほとんど泣きそうになりながら旅行会社に行き、深夜バスのチケットを予約しました。資金が少なっていく中で、節約しようと思っていた最中、消えてしまった2万円。ビクトリアの滝でカメラを落として以来、2つ目の大きな失敗として心に刻まれ、塞がりました。


こうして僕は予想をはるかに超えたところで、再びタイのバンコクに行かなければならなくなったのでした。これまでがあまりにうまく来すぎていたので、インドの前に気持ちを新たにとポジティブに捉えるしかない。それでもやりきれず、深夜12時半発のバスを待つ辛い待ち時間に、やけコーラを一気に飲み干す。もう使わないであろうカンボジアのお札を、少額ながら物乞いのおじさんに渡す。辛い時こそ、人に優しさを。せめてもの救いを求めて。バスを待つ5時間はあまりにも長く、思考もまともであるか自信はありません。もう誰かにこの悲しさを共有して欲しいところですが、ひとりぼっち。この気持ちはどこに行くのやら。(完)