ブルー・シティー

 ジャイプールからジョードプル。ピンクから青。より西へ進んだ僕は、夕方ごろに宿に到着。インドのホステルには、よく壁に旅行者が落書きをしてあります。宿側も公認で、様々な言語、国籍の人たちにより時にはクサイ人生訓が、時には面白くもないオラオラしたメッセージが壁一面に広がっています。僕は未だに気が向かず、書いたことがありません。何か思いついたら1箇所くらい挑戦したいのですが、納得できるもの以外、そんなおおっぴらに残すのは恥ずかしく許せないタチなので、閃き待ちです。結局寒いものしか残せない気がします。日本語のものもいくつかあって、あぐらの宿には受付に近いところに大きな文字で「この宿 ヤッベーゾ」と書いてありました。オーナーが読めないからと堂々と、束の間の人気芸人にあやかって、到着した直後に見る方の気持ちにもなってほしい。確かにここでは不快な滞在をしましたが。そして今回の宿には大きく「インドで最高の宿」と書かれていました。それを見ただけで安心に包まれる。確かに2泊、快適に過ごすことができました。


 ジョードプルはインドの中で、お気に入りです。メヘランガル城を中心に特有の歴史を持っています。そしてブルーシティの名の通り、この街は多くの建物がはっきりとした青色に染められています。起源はシロアリ駆除の薬が日光で変色したことが始まりなど諸説、定かではありませんが、モロッコにある有名なブルーシティ同様、この街もしっかりと特殊な世界を創り出しています。


 健康的な7時頃の目覚めに、猛暑に襲われる前にと早めに準備を済ませる。宿をでて、まずははじまりのチャイ。そんな気は無かったのですが、売っていたおじさんの笑顔が素敵で引き寄せられてしまいました。しばらく歩いた道端の屋台で名前も知らない朝食を摂る。そこからはしばらくまっすぐ歩いていく。城跡は宿から既に見えているのだけど、なかなか近づくことが出来ない。ブルーシティも旧市街に入ってからがはじまりなため、しばらくはただ行為に集中する。早起きも否定されるくらい、この日も暑いのなんの。近頃は毎日1リットルの水を3本ずつ消費しています。もうこれがないとやってられないので。古い街並みへの入口の門をくぐり、あたりにはチラホラ青く塗られた家が現れはじめる。細くて狭い、地図にもない道を勘だけを頼りに、もう迷いながら。高い方を目指していくと、どうやらお城への道に入れたみたい。ここで同じく観光にやってきたインド人3人組と出会い、ヒイヒイ言いながら急な坂道を一緒に登っていく。正直彼らの英語はほとんどわからず、適当な相槌、そんなことはお構いなく。


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 外国人専用の受付、ここでも学生証が役に立つ。この施設のすごいところは、外国人は無料で音声案内を借りられるところ。タージ・マハルでも無かったことです。それになんと日本語にも対応している。聴き始めると、多少のカタコトへの期待も外れ、綺麗で聞き取りやすい男性の声でしっかりと説明がされる。メヘランガル城。ラージプート族の名前は、世界史を習った方なら覚えていると思います。彼らの拠点としたのが、この地域とお城でした。無数の国家の集合体だったムガル帝国の中でも、皇帝が最も繋がりを重視した豪族。実際にラージプート家の女性を娶った皇帝もいました。今も続くその一族が、ここを解放し、所有している数々の貴重な品を公開しています。最初はインド人3人組と共に回っていましたが、1つ1つの展示品の前で写真を撮る、巻き込んでくる彼らに嫌気がさして、途中から距離をとるようにしました。王族が実際に使用した様々で、豪華絢爛な品々。それらのコレクションもさることながら、この城一体が要塞としての機能、芸術作品としての機能を遺憾無く発揮しています。特に後者の趣向を凝らした装飾、それぞれの空間が役割を持った造りは、それだけで訪れる価値のあるものです。音声ガイドもあり、当時の生活を眼に浮かぶようによくわかりました。時代背景として元々持つ文化とイスラーム、そして進出してきた西洋の文化まで垣間見ることができます。建物としてこれだけ完成されていると感じた場所は他にありませんでした。頂上から眺めるといかに青い建物が広がっているのかがよくわかります。昼食にサンドイッチと、全く冷えていない真っ赤な、一体なんだろうというドリンクを飲んで、午後のはじまり。


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 それを終えると次にはひたすらにブルーシティー散策。地図も見ずに、ただいい眺めを探す旅。複雑に入り組んだ道を、行き交う人たちに尋ねながら、奥へ奥へと進んでいく。途中で池のようなところに出て、休みました。ガンジス川にはあれだけ人がいたのに、ここには誰1人いない。近くには猿たちが休み、水中に群れるたくさんの魚。波紋を残しながら進む鳥。なんだかいい場所で、歩いた甲斐を見つける。また歩き出し、正確な位置は自分もわかっていませんが、ほとんどの建物が綺麗に染められた一画を見つけ写真を撮る。雲ひとつない晴れ渡った空と、先日のピンクシティーが対照をなしたのに対して、親密に絡み合うようでした。満足がいったところで、宿に帰ろうとなるわけですが、間の抜けたことに、ちょうど1番暑い時間と被る。本当は30分ほどの道のりを何度も間違え、その度疲れ。結局1時間くらいかけて帰りました。途中、視界の中心に黒い斑点が流れていく、明らかに熱中症への階段を登りながら。屋台で一気飲みしたビンのマウンテンデューが美味しかった。世界のどこにでも手に入る飲料の1つです。しばらく休憩したのち、夕食へ。スパゲティが食べたくて、看板にそれらしき写真が載っていたので入った店。結局あったのはまたもチョーメンでした。翌朝は5時26分発の電車で次の街に移動することになっていたので、準備だけはしっかり済ませて。眠ろうとするけど、なかなか寝付けない。


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 そんな時に友人から連絡があって、なんと自分も世界を旅することにしたという知らせでした。前にも電話で話したり、ブログを読んでくれたりして、本人はきっかけをもらったと言ってくれました。もちろんたくさんの要因があって、本人が悩んで決めたことでしょうが、仮に少しでも人の背中を押すことができたのなら、とても嬉しい。そしてこれを書いていて良かったと思わせてもらいました。出発前のことを質問される中で、自分が元々抱いていた気持ちと、当時の感情を思い返すことができて、改めて自分も進んでいかなきゃいけないと。また、近しい友人が実際にそういう決断をする側にいたことが初めてだったので、他人事のようにすごい、勇気があると感心する。ただ楽しい、安全ばかりではいられない時もあるから、しっかりと身を守ってほしい、心配でもあります。こうして、出発から4ヶ月が経ち、それなりの日数が重なり、鈍ってきたところもあるのは事実です。でもまだまだ見たいものはたくさんあるからね、さあしっかりやっていこう。うざいインド人なんかに負けてられない。暑い気候に耐えるのは、うん、頑張ろう。自信ないや。たまには意地かなんかも見せなくちゃ。


そして砂漠の入口と言われるジョードプルから、次の街は砂漠のオアシス都市です。これまでスルーしてきた多くの砂漠、目の前に待つ新しい体験に、またワクワク。これはもう青春です。

ピンク・シティー

 西遊記よろしく、僕はインドを西へ進み続ける。これまでは誰しもが聞き覚えがあるような街を辿ってきました。自分としてもアグラまでは予め行くことは必然として決めてあった。その先になると選択肢は南北西へと広がっていたのですが、南はインド人にも暑いからよした方が良いと言われ続け断念。北へはその後に行くこととし、バラナシで出会った人が口を揃えてオススメしてくれた西の街へ。パキスタンとの国境付近、砂漠地域を目指して。ジョイプールは北へはデリーともそう遠くないところに位置しています。北部の中央。アグラから電車で5時間ほど。降り立った感想としては今までよりも栄えている印象。立体の線路を電車が走り、ある程度高さのある建物が並びます。


 遅い時間についたホステルは、ここでもドミトリーを予約してあったのですが、通されたのは物置のようになっている地下の部屋。ベッドメイキングもされておらず、他の3つのベッドにはマットレスすら置いてない。そのことからもわかるように、宿泊客は僕だけだったのでむしろありがたく思いました。ドミトリーは人がいなければ、ただ広いシングルです。安い値段なのに人の目を気にしなくていいのは嬉しいばかり。気にせずオナラもできるから。普段はもよおすと、音が立たないように必死です。出てしまった時は知らん顔。清潔感のある館内は、5階だて、ほとんどがシングルかダブルであるようでした。必要以上のスタッフも皆フレンドリーでよく助けてもらった。聞くと多くが自分たちの村から出てきていて、故郷の方が好きだけど仕事がないからとここで働いているそうです。いいタクシーの運転手の見分け方なども伝授してもらいました。若いドライバーは平気で倍以上の価格を要求してくるからやめた方がいい。屋上にあるレストランは街の様子が一望でき、一度どう食べたらいいか人生で1番悩んだサンドイッチと遭遇しましたが、味もおいしく心地の良い滞在でした。特に2日目に食べた、メニューにないけどお願いして作ってもらったカレーライスは久しぶりの肉入りだったこともあり、だいぶ汚い食べ方をしてしまいました。ここにも2泊。バラナシを離れてからは、残りの時間もあってハイペースジャーニーです。


 ジャイプールはそれほど見所の多い場所ではないとは思います。それでいて都市としての規模が大きく、周るのは難しい。これはアグラから、城跡があるのは当然のことなので、わざわざ入場しようとも思いません。そして完全復活です。2日目は1日かけて、20km以上も歩きました。頭の中でブルーハーツが流れるくらい、これはもう元どおり。昼ごろから、もうびっくりするくらい暑いのですが、意を決して出かけて行く。当然といったら失礼ですが、道はやはり汚くて。露骨なので、この汚さをディープと呼ぶことにします。どこにいっても見かける、不法投棄のゴミが大量に集まっているようなところを見ると、現実として受け止めなければならないことですが、悲しく、シャッターを押す気は湧きません。交通量も多く、時には渡らなければならないけれど、渡れないような事もあります。響き渡る、煩わしく、耐えられないほどのクラクション。これをシンフォニーと呼ぶことにします。それらと内面は激しく闘いながら、道程をこなしていきます。他の国では人柄がイメージを作る上で大切な役割を果たしますが、インドでは人とともに、街全体に行き届いた混沌さに圧倒されます。正直言ってかなり疲れるし、お世辞にもいい環境とは思いません。その中でも持つパワーがあるのか、それともこんな中でやっている自分の中にパワーを感じるのか。後者かもしれません。なんだか生き生きとした気持ちになるのが不思議です。


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 ここの1番の売りであろうもの。通称ピンクシティーと呼ばれるこの街は、中心部に行くと古い町並みに、同じ色をした建物が無数に並んでいます。実際に見ると、ピンクと言うのはどうだかな。橙色といった方が正確です。ただどんな色であろうと、統一感に対して、人は感動や感心を覚えます。細かい実用的な品々が売られる店が軒を連ね、観光地というよりは生活の色が濃い。その中にも名所があります。宿で確認した中で目を取られたハワ・マハル。そんなピンクシティーの真ん中に位置しています。この街では久しぶりに国際学生証が威力を発揮。インドの学生が最安、その次にインド人旅行者を差し置いて、海外の学生が続きます。これは今までなかったことで、ただただありがたい。一般の外国人旅行者はかなりお高くなっている中、かなり得した気分。インド人は本当に周りの人間に気を使うようなところがほとんどありません。何かに並ぶ事も苦手ならば、通路を塞ぐような事も平気でやってきます。狭い順路の続くこの場所で、能力は遺憾無く発揮されていました。気にしなければいいのですが、どうも切り離すことができない。外観が有名なので、中には入らなくても良かったかなというのが正直なところです。綺麗なところではありました。ただ四角が並べられたばかり、細かい細工のものではありませんが、ステンドグラスで飾られた回廊がありました。どんな質でも、"ステンドグラス=美"という単純な美的感覚が僕の中にはあります。惹きつけられるワードの1つです。てっぺんまで登ることができ、そこから見える街と、高台に聳える城跡の姿は、味のある風景でした。


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 王宮跡と博物館にも向かったのですが、入口で入場料の高さに断念せざるを得ませんでした。かなり整然と区画整理されている中心部を建物を見ながらゆっくり、そして休み休み歩いていきました。途中で昼食を。中華料理なのか、チョーメンと呼ばれる麺料理があって、焼きそばのような具材と味のこの料理をインドではよく食べています。この日もいただいて、とても好きな訳ではありませんが、麺が食べたくなります。そうなると他にはチョイスがないんです。先ほども述べたようにステンドグラス。それが珍しくヒンドゥー寺院に使われているということでBirla Mandirというお寺に行きました。白を基調に、教会のようなルックスのところでしたが、散々見てきたヒンドゥーの神々もステンドグラスとなると違う趣きがありました。というよりも、この寺院自体が他とは一線画した異端のような存在に映りました。同じように境内に置かれていた白くテカテカの神像は、どうも祈るような気持ちにはなれなく、安っぽい。物珍しさで観光客も多くきますが、厳かに祈るような人はいませんでした。


 日も暮れはじめ、もうかなりの距離をこなしていたので、疲労感もあり、歩くかトゥクトゥクか悩みました。無理だと思ったら頼もうと、とりあえず宿まで徒歩を選択。なんてことのない、もう2度と通ることがないだろう道ばかりを少しずつ後ろに送っていく。何の変哲もなく、特に変わった特徴もない。でもやっぱり富裕な人達が目につきます。乗馬場や大学など、かなり綺麗な身なりをした人たちをたくさん見ました。先程までいた旧市街とは、まるっきり別世界です。道は綺麗に舗装され、牛もほとんど見かけない。日本人というだけで、子供たちを中心に大人もよく声をかけてきます。適当に返事をして行き過ぎる。ちょうど直線の道路の先に夕陽が輝いて、脇に並んだ果物の屋台との風景が穏な空気を演出してくれました。郷愁の中に、明日への希望も渡してくれる。


"聞こえる街のシンフォニー

とまどいながらも歩いてゆける

心の鐘鳴らして

相変わらずさ俺は

ゆくりなく吹く風とともに

鳴らし続けるぜ

俺の心の中のシンフォニー"

エレファントカシマシ「大地のシンフォニー」より


 音楽を聴いていたら、何だか楽しくなって結局最後まで踏破。いつもは行くだけ行って、帰りは甘えることがしばしばですが、この日は何だか体力をつけておきたかった。そのことを伝えると宿のスタッフは「見た目は弱そうだけど、芯は強いんだな」褒めてないよ?確かにますます細くなる上半身に筋肉が欲しい。そんなことを最近はインドで考えています。シックスパック。人生で1度はなってみたいものです。そんな気持ちとは裏腹、ご褒美にビールを飲んで気持ち良い就寝。


 翌日は昼前の電車に乗って、足早に次なる街へ。今度はピンクシティーではなく、ブルーシティ。砂漠への入口の街、ジョードプルから。何とも名前がややこしい。

恋してる、いつだって

 忘れられません。最近は目を瞑ると、平らな大地が地平線まで続く風景、瞼の裏にくっ付いて離れない。そこに隙間なく並んだ大きなお皿、盛られた数々の日本食。これは初期から繰り返し言い続けていることですが、変化もあります。追求していけばいくほど、答えはシンプルなところに行き着いたりするもの。今僕が欲しているものは納豆ご飯と豆腐。朝から炊きたての白米によく混ぜた納豆をかける瞬間、そのルックス。暑かった日の終わりに食べる山葵醬油の冷奴。大豆製品素敵です。名ばかりで、魂の通わないなんちゃって日本食ではもう満足できないところまで来た。考え始めたら暗くなるだけですが、そして帰ったら当たり前のように食べるのですが。インドは特に美味しいということはありません。ましてや体調が悪い時に食べられるようなものはほとんどないので、困ったもの。自分は何でも食べられるからと当たり前に思っていましたが、こんなに日本のご飯が好きだったことに気がつきました。耐える他ありません。この強すぎる、叶わぬ想いが変に拗れるようなことが無ければいいのですが。


 ようやく本調子になってきて、些細なことにも笑えるような感性が戻りつつあります。この数日間、コンディション不良に加え、不運なことばかりが続きました。もう無理かもしれないと思いました。今すぐ帰ろうかとも、1番強く思った瞬間がありました。なんせ歩くのもしんどいような時もあったので。それでも長居しすぎたバラナシを離れようとアグラを目指してみたのですが、なぜか気がつくと電車を逃していました。その電車を追いかけるために他の駅にとお願いしたはずのトゥクトゥクは僕をさらに違う駅へ連れていきました。それでも翌日のチケットを、23時まで空いていると言われたオフィスに行くと既に閉まっていました。落ち込んで行くその間にあった細々したことにも気をやられ、その夜は駅近くに宿を探し歩く。カンボジアからの出国未遂から、そんなに時間も経たぬ中、本当にどうなっているのだろうというくらいどん底ですが、今回のことはほとんど自分が好んでガンガーに入ったせいなので、これ以上の自業自得もありません。


 ただこんな時こそ、身に染みる人の情。急遽泊まった所のオーナーが僕が弱っているのを察してか、とても親切にしてくれました。インドでこんなに客思いな人がいるのかと言うほどに。着いたのも遅い時間だったのですが、チャイやクッキーをふるまってくれました。食事を食べたほうがいいと、しきりに提案してくれた。食欲はなかったし、すぐにでも横になりたかったので断らせてもらって、寝たのですが、本当に嬉しかった。ただ親切も度を過ぎると面倒臭さと紙一重。翌日起きた僕に、体調の改善を見てか同じようなことを繰り返し言ってくる。「シャワーは浴びたか」「シャワーを浴びてないだろう」「シャワーは体調不良に最高だぞ」「もうシャワー入ったのか」またホテルをネットで評価してくれと「Googleで」「トリップアドバイザーで」「booking.comで」とまあうるさい。もう途中から露骨に受け流していたのですが、それでも言ってくる。細かい評価を気にしているけれど、そもそもロケーションに問題がある。なんてことは思っても言えませんでしたが。電車までの時間、夕方5時までベッドを使わせてくれたりと、本当に感謝してもしきれません。出してもらった食事もほとんど喉を通る状態ではありませんでしたが、この日薬局で購入した抗生物質のおかげで、ここから回復に向かいます。


 前日と同じ時間の電車にリトライ。心配で人に尋ねまくり、万全の予防線。乗車完了。その中でも素敵な出会いがありました。同席だった同じくアグラへ向かうイスラエル人のアレックス。彼がとても魅力的な人間で、飽きることなく楽しませてくれました。日本文化への理解も深くて、久しぶりに村上春樹の話題になる。彼以外の作家の話は海外の方から聴いたことがないので、村上さんの海外進出戦略は見事なまでに成功していると感じました。イスラエルに行った時には、そういう人に出くわすことはなかったので不思議ですが、海外で旅をしているイスラエル人は、僕の会った限り、見た目から派手にロックでそれでいて優しいという最高な人たちばかりです。髭やタトゥーがよく似合い、果物などを分けてくれる。日本人ではなかなか出せない'旅人感'を彼らは会得しています。ここのところスリーパーというグレード、寝具などはなく3段ベッドになる車両を使っているのですが、気温調節が難しく、もとはと言えば熱いインドで鼻水が止まらないのはこれのせいです。長い編成の中で、きっとみなさんがイメージされるような、立ちっぱなしで人が溢れているような車両もあります。さすがに屋根に乗るような光景は見たことがありません。基本的に移動は長時間になり、荷物もあるので、寝られるような車両に甘んじています。早朝6時の到着予定は驚きもなく遅れ、11時ごろになりました。


 アグラと言えば、何と言ってもタージ・マハルです。インドで最も有名な建造物と言って差し支え無いと思います。そこから歩いて2km範囲内にあるところに宿泊し、ちょうどこの日はタージ・マハルが休館だったのもあり、初日は到着後休むばかりでした。アレックスはその日のうちにこれを見て、夜には街を後にすると言っていたけれど、一体どうしただろうか。この宿はもうはっきりさいやくでした。シャワーは出ない。ドミトリーなのに、ドアは内側から嬢をかけない限り開きっぱなし。何より、窓が壊れて隙間があり、夜間の蚊の量が尋常ではなかった。一度蚊取り線香をもらったものも一晩は保たず、顔も腕も足も刺され放題。刺されすぎた時は、何か肌が強く乾燥してカサカサになるような感覚があるのですが、それに陥りました。僕は中東にいた短期間以外、基本的にずっと蚊と闘っています。日本で冬が楽しまれている間も、疎まれ始めてからも。スタッフはとても良くしてくれたのですが、このせいで寝不足。前日インドネシア人のチカと朝日に照らされるタージ・マハルを観に行こうと約束していたのですが、すっぽかしてしまいました。もう一泊は無理だという判断を下し、朝から夕方の電車を手配する。


 ようやく10時ごろから1人で向かいました。手前から道が綺麗に舗装されていて、それをまっすぐに進むばかり。途中チケットオフィスがあって、人がたくさん並んでいました。少しお高め1000ルピーを支払って、また歩く。だんだんとその姿が見えてきます。大きな門をくぐると教科書で何度も見たあの建物が。白というのは汚れやすく、それを綺麗に保つのにはかなりの努力が必要だと思います。それが果たされているこの場所は、有名なだけあって来られた喜びも大きなものでした。その墓標だけでなく、水の通った広場に、木々に至るまで気持ちよく整えられている。世界的な場所だからぜいたくは言えませんが、やっぱり人が多いのは苦手だな。このご時世です。どこにいってまでも、老若男女、セルフィーや写真撮影のためポジションどりに必死。見るに耐えない光景です。それても団体でいる人たちへの嫉妬なのかな。木陰で休んでいると警護をしている兵士の方が話しかけれてくれて、タージマハル内部にもスムーズに入れてもらいました。ムガル帝国、シャー・ジャ・ハーンにより竣工。イスラームを信奉した国だけあって、装飾や様式はモスクと通ずるところがたくさんありました。つまり好きです。大理石をこれだけふんだんに、莫大なお金がかかっていることは想像に易い。王の力というのは、その時代に造られたものから理解することができます。四角形、均等に配置された諸々、近くにいても、離れてもゆっくり眺めていました。


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 その後は宿でチカと合流してトゥクトゥクハイヤーし、他にある名所を周ってもらいました。城跡は近くに行ったものの入場料から断念。ベイビー・タージ・マハルと呼ばれる、シャー・ジャ・ハーンの祖父によって建立された墓標。名前の通りかなり小さい規模ですが、類似性がたくさんある。人が少ないぶん、座りながらのんびりできたのがよかったなあ。内側は大理石ばかりでなく、細緻でより時代を感じる飾りがされている。あまり公言していないことですが、インド文様、幾何学模様をいつまでも見ていられるフェチを持つ僕は、天井を見ているだけで非常に楽しめました。その他にもいくつか、お土産屋なども周って、宿に一度戻り、そのまま駅まで連れて行ってもらいました。一生懸命説明をしてくれた運転手。若々しいルックスに年齢を聞くと16歳。「免許は?」「持ってないよ、インドでは普通のこと」「警察は?」「お金を払えば大丈夫」こんな人たちに命を託すのだから、簡単なドライブでも少し覚悟がいるかもしれません。彼は無免許ながら稀に見る優良なドライバーでした。そんなこんな1泊で次なる街、ジョイプールへ。アグラではタージ・マハルさて見られれば満足です。


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 鳥に翼があって飛ぶことを羨ましく思います。それでも金子みすゞさんの詩ではありませんが、2足歩行ができる動物として、歩くことに大きな喜びを感じられたら、なんだか毎日楽しく過ごせそう。

サバイブ!

 暖かい陽気のバラナシ。たまに曇るようなことがあると、春のように優しく包み込む風が吹く。こうなると時間など関係なく四六時中眠気に襲われる。もう何をする気もなくなって、ガンガーのほとりでただそれを眺めていたりする。穏やかな流れは、どちらに進んでいるのかさえ分からなくなる。考えているのは「自分は何を考えているのか?」ということ。要するに何も考えていない。専門家に言わせると間違えっているであろうフォームで瞑想めいたことをしてみたり。気がつけば夜になり、暗い中にそれでも燃え続けるあの炎をぼんやり見つめる。


 宿を変えて、連れがいたおかげ。1人では諦めていたボートから見る朝陽。6時前に起こしてもらい男3人、100ルピーずつ払ってそれに乗り込む。川にはどの時間帯よりも多くの舟が浮かんでいる。ほとんどが観光客。地元の人々は沐浴や洗濯に励んでいる。運なく、この日は滞在中1回きりの曇り。僕の晴れ男と同様の力を持った雨男、雨女がいたのだと思う。残念ではあったが、距離を空けた岸の町並み、そこにある生活は穏やかで雰囲気のある世界だった。


 知り合ってから間もない日本人とその場でガンジス川に入ろうと言うことになった。バラナシでは宿で掛け布団をもらえず、夏風邪をもらってしまい、実現できずにいた。この機を逃すと、きっとせずに終わってしまう。水着に着替えて川に向かう。正しい順序を知りたくて近くにいた男性に教えを請うても「ただ入ればいいんだ」という答え。なら行きますか。一歩足を踏み入れると危うくコケそうになるほど、底は藻が茂っている。ゆっくり遊泳に励んだわけではない。ただ意を決して3度ほどスクワットのような動作で頭まで浸かる。決して口には入れまいときつく結んで、すぐに宿に戻ってシャワーを浴びる。体調を崩すのだとしたらいつ発症するのか。興奮が冷めると不安ばかりがやってくる。病は気から。そんな状況ながら、鏡に映る自分を見ながら「俺は絶対大丈夫」と唱える。


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 結果から言うと、一緒に入った方はその夜、本人曰く「インフルエンザとノロウィルスが同時に来た」と言うこの上ない体調不良、全身の関節痛に襲われ、呻きながら一晩を過ごした。そのことをビールを飲んで先に爆睡していた僕が知ったのは翌朝のことだった。辛そうな表情の彼は見るに耐えず、連れ添って病院へ行った。点滴を受け、帰って来たのは夜遅くだった。一方で何事もなかったかのようにケロっとしている僕を見て、その差に皆驚く。同じ時、同じ場所で沐浴し、同じタイミングでシャワーを浴びた、同じ国からの人間。地元の方がやられる可能性を「半々」と言っていたのは正解だった。もし自分の勢いで決めたその時間、場所によって彼が救われたことがあるのならば、この責任は自分にあるように思う。それでも症状、僕には遅れて現れ、それほど酷くないにせよ倦怠感、人生一の下痢には苦しんでいる。相方と比べると、これはもう無事と言っても過言ではないと思う。その理由を、ケニアで子供にもらったビーズのブレスレットをこの時もしっかり付けていたから。守ってもらったと思うようにしている。現地の子供達が飛び込んだり、水遊びをしているのを見ると環境は人間に驚くべき違いを与えることを教えられた。とにかく、海外旅行、日本で予行練習までして臨んだガンガー。1つの念願を叶えた満足感がある。


 なんとなく1日が過ぎてしまうような、のんびりした場所だった。川辺は道路から離れているのもあって、クラクションから解放されるのが何よりもありがたい。周辺にはバンコクほどのクォリティではないものの、よく日本食を出す店がある。ラーメンとあって頼んでみたら、ただインスタントラーメンを作って出されたりはするが、シャン亭というところで食べたカツ丼は本当に美味だった。気がつけば1週間も滞在してしまい、そろそろ居場所を変えようと思う。憧れていた南部は、ここで出会った人たちの情報から遠からず気温40度に達するということを聞き、迷い始めている。寒いよりはいい。ただここまで行くと、きっと室内に篭ってしまうだろうというのは容易に想像できる。一度少し離れたところにリキシャで出かけたのだか、交通量、喧騒に参ってしまった。その中に戻ることになるのは、少し気を重たくさせられる。


 物乞いをされることはインドでは頻繁にある。高台にいた時、下で5歳ほどの男の子が旅行客に対して何度も挑戦し、何度も断られるのを見ていた。何度も右に左に視界から消えながら、また何度でも戻ってきた。一度女性がお菓子を与えたことがあった、するともう一個をねだる少年。あとで少年は離れたところにいた母親と思しき女に1つを渡していた。暖かくも、それを命じている親の存在。同時に悲しくもあった。こんな確率の低い稼ぎ方を続けるほど、少しでもお金のもらえる仕事がないのだろうか。そこを知らずには取るべき態度が定まらないのだけど、特にまだ幼い子供にせがまれると胸は痛まずにはいられないので。それにしてもアフリカ、アジア。こんなことはもうたくさん見てきた。偉い方々、ぜひ彼らを救ってあげてください。


 広く知られていることなのかは分からないが、出発前に考えていた以上に薬物の勧誘を受ける。これまで行った国で、そういうことが一切なかった場所は皆無だった。高圧的に押し付けられたりしたことはないので、そこまで大きく心配することはないけれど、疲れている日などはこれが鬱陶しい。特にインドでは頻繁に起こる。実際に外国人旅行者でこれらを愛好する姿もたくさん見てきた。バックパッカーを志すなら、こういうことも不可分であることは知っていて損はないと思う。エジプトかどこかで「お前の顔を見れば、これが好きなのは一目瞭然だ」というようなことを言われた時は、本当に勘弁して欲しかった。


 バラナシで有名な日本人宿に結局4泊した。かなり汚いという噂は聞いていたが、シャワーも使え、1泊100ルピーというので離れられなくなった。明らかに洗われていない、硬い布団。虫や爬虫類の入り放題なこの場所は、これまでの経験がなく、日本から直接来ていたら無理だったと思う。慣れは恐ろしく、そこに求めるものは月日とともにかなり減った。今だけに集中することも簡単ではなくなってきたけれど、今一度、心を軽くして歩いていきたい。これがなかなか難しい。


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死と煙

 電車は予定より3時間ほど遅れて到着した。3段ベッドの中段で、その環境にしては十分と言える睡眠をとり、コルカタの駅で買っておいた菓子パンを頰張る。スピリチャルなインドのイメージに、バラナシは大きな働きをしている。「豊饒の海」の執筆のため、この地を訪れた三島由紀夫は、宗教が生活と密接に息づいている光景に驚いたと言う。聖なる川、ガンジス川が車窓から見えた時の喜びは、旅の中でもしばらく味わえていないものだった。想像してたよりは、橋の上、少し高いところから見ると綺麗であると思う。僕の真下、下段にいた韓国人の女性とともにプラットホームに降り立ち、新しい日の空気を吸う。早速リキシャーの価格交渉に入るのだけど、韓国人、女性、頼もしい連れのおかげで、僕は無口のまま安く街に行けることになった。サイクルリキシャー、つまり人力で運んでもらう。大きなバックパックを背負った2人、運転手のオヤジはかなり辛そうに、汗を拭いながら進んでいった。コルカタに比べると道が狭く、我先に進みたがるインド人と合わさってクラクションは止むことを知らない。ましてやゆっくり進む僕らの足は、批難の轟音を浴びる恰好のターゲットになる。あまり遠くないところで降ろされ、そこからは乗り物は入れないらしい。100ルピーで最後まで納得いかない顔の運転手さん、お疲れさま、さようなら。


 歩き始めると、こんなところでも頻繁に日本語で声をかけられる。そういえば先日、サダルストリートで一緒にいた流暢な日本語を話す人々は名高い詐欺師だったらしい。ネットに写真まで上げられているのには驚いた。ほどほどに別れておいたのは正解だったらしい。やっぱり話しかけてくるやつは危ない、旅をした人が必ず持ち帰る事実の1つだと思う。この区域はさっきまでとは違い、交通がバイクくらいしかないので安心して歩ける。車道も歩道もないようなほとんどの道は、歩くだけでかなり神経を使う。そして多くの人がイメージを持っているであろう、やっぱり汚いガンジス川が目の前に広がる。たくさんのボートが寄せられ、歴史を感じさせる建物が川に沿って並ぶ。薄眼で見たら美しいところなのだが、現実は牛、牛、牛の糞、ゴミ、ゴミ、ゴミの臭い。これぞ完全にインド。


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 どうやら予約していた宿は更に2kmほど降ったところにあるらしく、失敗したと思いながらなおも進む。すると初めてくる街で自分の名前が聞こえた。空港、コルカタでもご一緒した方と3度目の再会。僕が追いかけるような形になっているので不思議ではないが、運の巡り合わせを感じる。すでに2日滞在され、慣れたこの方に街を案内してもらう。そこには噂通りのバラナシがあった。迷路のような細い路地が、人、バイク、牛で溢れ、心地よいリズムでは歩けない。この国に来てからはそこら中に落ちている牛の糞、本体の大きいのは流石に避けるけれど、小さいものはもう気を使うのが馬鹿らしくなるほどそこにある。よって頻繁に踏んでいるだろうと思う。それを踏んだからって「うんこまん」とからかってくる同級生たちは、今は、そしてここにはいない。グルメのことなど、1つの知識も持ち合わせていない僕。ありがたいことにラッシー屋に連れていってもらう。ここは1日に2〜3000杯も売り上げると言う有名店。狭い店内に体の大きい西洋人がぎっしり詰め込まれている。日本人2人、臨時の椅子を出され、狛犬のごとく入口の両側に陣取る。種類も豊富に用意されていて、迷った時には必ず選ぶストロベリー。がなかったので、ブルーベリーアップル。名前はとにかく、実際どんなものかもわかっていなかった。しばらく待って持ってこられたのは、ヨーグルトのような、食べるのか飲むのか、その中間にあるもの。スイーツとは離れていたから、とても美味しかった。


 そして進むと火葬場がある。ヒンドゥー教の聖地。ガンジス川で死ぬことが、教徒にとっては1番の幸せであるらしい。各地から死を間近にした人々が最後の財産を叩いてまで訪れ、喜びの中に眼を閉じる。この地域には火葬場が複数存在している。狭い路地にいても、5分に1度を上回るようなペースで、遺族が担ぐ飾った担架のようなものの上に置かれ、無になった身体が運ばれていく。24時間燃やしているところもあり、この行進は唄を歌いながら行われる。慣れない旅行者には睡眠の妨げになるだろう。観光客でも燃やすところまではっきりと見ることができる。日本のように個室や室内で営まれるわけではなく、剥き出しの岸辺に、いくつも木が組まれたものが並び、1度聖なる水で清められた死体はそこに置かれる。同時に複数の人の死に赤い火が配られている。最初は黄色だった煙はゆっくりと色を黒くし、運ばれていく。風に乗った人の死を浴びる。全く知らない人の最後を浴びる。人生の中で最も特殊な体験の1つだった。煙は止み行き、燃え尽きて、残った灰は川に流される。そして彼らの幸福は約束される。目の前にあるのは自分にとってシュールとも言える光景、言葉はでない。流石に写真は禁じられ、自撮りに励む旅行者もいない。旅の中で、これだけ厳粛さを感じられる場所はなかった。一日中煙が上がり続ける、火葬場のためにある街、火葬街。1つのことを文化、習慣とは言え、ここまで守られていることに大きな感動がある。


 文字通り神聖ながら、あたりは変わらずゴミだらけ。そのまま放っておける精神は理解できないけれど、インドらしさと言えば納得がいく。それでいて美しいと感じる心が確かにあった。この一角には女性がいない。過去に夫の死に、焼身自殺をする、迫られる妻がいたことから、今は女性は船の上からとなっているようだ。最後に側にいてほしいのは、どう考えても連れ添った妻であるように思えるけれど、これは堅く守られている。おかげで岸はかなりむさ苦しい。1番見たかったもの、初日からしっかりと留めることができた。ちなみに妊婦や障害を抱えた人は焼かれずに重りを付けられ、沈められる。地元の人々は当たり前のように沐浴をし、日本人的な感覚だとむしろ汚しているのではないかと思う、この川で洗濯をする。伝統とは、その地に育ったものにしか理解のできないところがたくさんある。それが強烈に残るこの街に、日本人をはじめ、旅行者は特別な感慨に浸るのだと思う。こうして今のところはすっかりインド肯定派なのである。


 休憩に石段に腰を下ろして、暮れゆく街を眺める。だんだんと昼間とは比べものにならないほどの人々が集まり始めて。カーストバラモンに属する人によって、礼拝が毎晩行われている。男たちが歌いながら、火を手に舞を繰り返す。現代のスピーカー、電飾などは用いているが、どれだけの時間、これは継承されてきたのだろうか。踊り、そしてそれを真剣に見守る人々のつくる表情は、ずっと変わっていないのだと思う。偉そうに言うが伝統舞踊を心底楽しむには、若すぎるのか、あるいは僕の感性はそこまで豊かではないのか程なく飽きる。ずっと立っていたので疲れ夕食へ。1人ではなかったこともあり、初めて屋台ではなくレストランと呼べるようなところに入る。インド初のビールと共に。ネパールにいる時、ほぼいつも食べていた国民食モモ。向こうでは主流のバッファローモモは食べることはできないので、ベジタブルモモ。そしてガーリックフライドライス。気がつけばベジタリアンのような生活をしている今日この頃。体に変化は今のところまだない。ゆっくりと食事を摂られることへの喜びは、感じずにきた。どんなことでも少しを間を取ることで、特別なことのように感じられる。このことは帰国後も忘れてはいけないことだと思う。到着したのが昼過ぎ、そこからかなり濃い1日を過ごした。そろそろ帰ろうか。


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 深夜、一緒にいた方から嘔吐と下痢に苦しめられているという連絡が来た。数時間前まで元気で、昼からほぼ同じ物を食べていた。自らを心配してみるものの、多少弁が水っぽいくらいか。昔からお腹が弱かった気がするが、どこかで鍛えられてきたのか。ほとんどが泳いだ末に謎の病にやられるというガンジス川、自分ならばと危険な自信が膨らんでいく。


人口爆発とはこのことか

インドの価格設定に慣れてきました。わかればわかるほど不思議に思えてきます。一番大事な食事代。基本的に屋台で食事を摂れば、その中でも場所によって差はあれど30ルピー〜高くても80(約140円)というところで食べられます。水1lは今の所どこで買っても20ルピー。これらから期待したもののタバコの価格は、280ルピー(約480円)と言われました。高い、もう2日間3食くらいの価格です。もうここのところ毎日禁煙しようと思いつつ、どうしても吸いたくなる。ただこの値段だと、本当に馬鹿らしくなりました。食事と比較するといかにも高級品といったところです。家を持たない人々が、人の吸い終わったタバコを拾って、残りわずかなものに火をつける姿。珍しくなく痛ましいこの光景も納得できてしまいます、買えるわけがありません。バラ売りもしているので、この日は1本を14ルピーで買いました。貧富の差とともに、価格も高低差に大きな開きがあります。街を歩いた帰り道、どうしてもトイレに行きたくなり近くにあった喫茶店に入る。ここはそれなりに綺麗な場所で冷房も効いているようなところでした。当たるのは空港以来です。お金を使いたくないと思いながら、アメリカーノのアイスを頼むと190ルピーもする。そして絶望的に美味しくない。立ちションすればよかったと後悔しました。貧困ビジネスという言葉を日本でもよく耳にするようになった今日、圧倒的に様々なバックグラウンドから人の集まるインドの都市では、潤う者、飢える者、それらがぎっしりごちゃ混ぜになって、1つの街、国の姿をつくっています。ちなみに宿は一泊440ルピー(約770円)のところに3泊しました。小さくはない出費です。探せばもっと安いところもきっとあるでしょうが、結局移動はしませんでした。場所によってそれも変わるようで、調べるとこれから向かうバラナシは半分ほどで1泊できるところがたくさんありました。ありがたい。結局最もかかるのは移動費。僕はそれなりに移動を繰り返しているので、時には飛行機、フェリー、鉄道、バスとこればかりは抑えるのが難しい。バラナシまでの電車のチケットは1100ルピーかかりました。これも他の国に比べるとだいぶ安いのは確かです。


そのチケットの予約がけっこう時間がかかりました。駅とは別のチケットオフィスに行かなくてはならず、シーズン的に混むと言われていたので、開く1時間前の到着を目指し8時に宿を出ました。きっとバスを使っても大した値段ではないでしょうが、1時間以上歩いてようやく到着。東南アジアの国々と比べるとさほど暑くないので助かります、長袖でもいられるくらい。今思うとやっぱりカンボジアあたりはものすごく高温だったなと思います。もう汗が止まることを知らなかったから。予定通り10時に開いた事務所で、14の整理番号をもらった僕。順番が来て、終わった頃には2時間以上経っていました。翌日の20時発、バラナシに9時半到着の列車。これでもうすることもなくなって、昼食を食べてブラブラ歩いていました。たまたまその周りには路上生活をしている人々が、木材やシートで歩道に家を設けている。前日で終わったはずのホーリー、まだ身体中に色が付いたままになっている人たち。シャワーなどは浴びられていないのかな。道には水が湧き出ている箇所がいくつかあって、老若男女が体を洗う風景が都会の中に溶け合っている。川に接する地帯に進んでいくと、なんて事のない、特別な事など何もない日に関わらず、土日の渋谷の日にならないくらいの人で溢れかえっている。両側には壁すらない木だけで作られた住居のようなもので子供たちが遊んでいるのが見える。人はそれぞれに忙しそうに流れていく。


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少し落ち着いたところまで来て、疲れたのか歩く気も起きなくなったので道端に座り込んでただ行き交う人を眺めていました。鳥のフンだけ踏まないように、その間を縫って。もちろん肌の色も他と違う日本人がポツンといるのは日常的なことではないはずなので、常に人の視線を感じていましたが、話しかけられるようなことはほとんどありませんでした。僕が見ていた通り、手前の方は途切れることなく見るからに重そうなものを頭に乗せ、リヤカーに乗せ運び続ける人々が往来を繰り返していました。こういう光景は日本では機械化されている部分が多かったり、そうでない部分は目につかないところで行われる場合がほとんどです。その違いに目が離れませんでした。一方で道路を挟んだ奥の歩道では、それなりに身なりのいい人たちが視界を右に横切っていました。近くにいる労働者の人よりも、この奥の人々がより僕のことを気に留めていたように思います。そしてより綺麗な格好をした人たちはバスに乗り、タクシーに乗り通っていく。特に何かを考えてた訳ではありません。無我なところで、道の一部になったような気分でしたが、器があるから見られてしまうなあと。全く気に留められなくなるにはどうしたらいいのかな。でもすぐ近くに横たわっていた、家を持たないであろうおじさんには誰も目もやらないようでした。唖然とするほどの数の人にもみくちゃになりながら、僕にとっては1人も特別な人などいない。1人の人に重さを付与したら、他のすべての人も同じ重さになる。誰も僕が過去にしたことを1つも知る人はいないし、相手のことも何も知らない。宙に浮いているような非日常の中で、頭の中もよくわからないことになっていました。こんなことを1時間ばかりして、途中何度も立ち止まり、座ったりを繰り返しながら宿に帰る。ただ歩くだけでも神経を使うのがコルカタ。この日は他には特に何もせず寝ました。


翌朝はチェックアウトを済ませなければならなかったものの、同部屋のブラジル人、インド人が起きてくれなくて、起こすまいと準備ができない。朝食を食べて戻っても状況は変わらず、結局11時を過ぎてようやく動きはじめる。バックパックを宿に置かせてもらい、マザーハウスを見学に行きました。小学生の頃、本や漫画で伝記を読むことが好きでした。その中の女性で記憶に残っている人は、ジャンヌ・ダルクキュリー夫人、そしてマザー・テレサ。インドでの人道支援、その拠点にしていたのがコルカタでした。彼女が使っていた部屋などが公開されている。彼女の行動、言葉に感銘を受けたかつては少女たちだったのかもしれません、ここにはたくさんのシスターたちがいらっしゃいました。誰でもボランティアに参加することができて、したいとも思っていたのですが後にすることにしました。7時集合というハードルが高すぎたので。自分が立っている場所でかつてマザー・テレサが飢える人たちに暖かい目を注いでいたかと思うと、古い遺産とは違い、明確な歴史を感じ取ることができました。


その後は暇を持て余して、宿から近くの公園に行ったのですが、荒れ放題になったところに牛が普通に歩いていました。奥に進むと子供達が国技とも言えるクリケットをいたるところでやっています。それをただただ見ていると現地人たちに囲まれ「やってみる?」と言われる。野球と似ているからいけるかなと思いつつ挑戦。これはもう似て非なるもので打つにしても凄く難しかった。世界で3番目に競技人口が多いと言われるクリケットですが、実際に見たのはインドが初めてでした。その後は、何を勉強しているのと問われ、文学と文化と答えたところ、いつからか25歳の男性から2時間もインドの文化とイスラム教についての説明を受けることになる。公園にいるのに座らせてくれることもなくひたすらに続く授業。相手は良かれと思ってしてくれていたのでしょうが、初対面の人間に対して暇すぎじゃないか。敬虔なムスリムの方々は自分の体験も引き合いにコーランをよく勉強しているという印象を受けます。ただこの勉強があるからこその理解、それができる余裕がある人は多くないのかもしれません。彼らの考える教えは確かに多くの場面で人の気持ちを楽にしてくれそうですが、それを慎みを忘れ見当はずれのところに応用する人間が多すぎるのかな。何と言ってもインド、今のところ超ローカルな日々を送れています。現地の人と関わりを持てた日は、なんだか充実感があるんです。


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そして僕は駅に向かいました。ヒンドゥー教の聖地、聖なる川、ガンジス川で有名なバラナシ。世界一汚いと言われながら、多くの人を惹きつけてやまない街へ。もうワクワクが止まりません。ガンジス川で泳ぐか、泳がないか、どうしようかな。


ハッピー・ホーリー

前日はほとんど寝ただけで終わってしまい、実質これが初日です。ベッドは快眠を取らせてくれて、気持ちのいい目覚め。ドミトリーは他の客が爆睡中、居場所もなく出かけることに。コルカタ、僕が習った時はカルカッタでしたが、やはりイギリスの植民地だったことで知られる街。当時の名残、建物などが観光名所になっています。南アフリカケープタウンベトナムホーチミン、そういった統治下の遺産が名所になっていることはよく目にしますが、今の僕にとってはなんだかなあと言ったところです。今の国家はそんな歴史の上にできているから重要なものでしょうけど、あまり興味は惹かれない。でも行きます。


途中で朝ごはんとして、屋台を見つけバターと砂糖を挟んだトーストとゆで卵1つ。20ルピー(約34円)の朝食後、しばらく歩いて8ルピーのチャイをいただく。いたるところチャイを売っている屋台があり、おちょこのようなコップに注いで渡してくれます。インドらしさ満開の光景、これを飲みながら一服することにはまってしまいそう。2kmちょっと歩くとヴィクトリア記念堂に到着。建物内は博物館になっていて、そこに入るには200ルピー必要。庭だけなら10ルピー。のんびり椅子に座っていたい気分だったので、後者を選んで腰を下ろす。どこにでもたくさんいるカラス、連日フンがかかる。昨日はカケラが頭についているのを帰ってから発見しました。恥ずかしい。この日はサンダルの細いバックルに。そこらへんに落ちてる葉っぱで拭く。この庭がかなり広く、草花が綺麗に整えられ、左右均等に池がある。その中に白い建物があります。とても落ち着けるところでしたが、ベンチや木陰は地元のカップルで溢れている。なるほど、そういう場所なのか。そこらにはたくさんリスがいて、可愛らしい姿を見せてくれました。何匹かいる白鳥の中に、1羽くちばしの上、おでこに当たるところに黄色いコブを持ったのがいて、少し他の鳥たちとは距離がある。みにくい白鳥。植物も日本では見かけないようなものばかりで見始めたら止まりません。いいかげんにそこを後に、次に向かったのはセントポール寺院。中は撮影禁止でしたが、慎ましい雰囲気、聖像はなく古い十字架が1つ、その後ろには一面の画があります。ここもなんだか安心できる場所で人が次々入れ替わる中、ゆっくりしました。ただ高い天井から無数のファンが地面から3mほどのところに吊られていて、全部を強にしたら天井が飛んで行くんじゃないかと、そんな訳のわからないことを考えていました。近くにマハトマ・ガンディーの娘、首相を務めたインディラ・ガンディーの像が立っている。立ち止まって見るような人は誰もいませんでしたが、これが他に見たことないくらい優しい目をしていたのが印象的でした。そして昼食にこちらも屋台でカレーを食べる。ボリュームのあるフィッシュカレー、周りが手で食べるのを見て、僕もその気でいたのですが、気を使われたのかしっかりスプーンを渡してくれました。屋台と言っても道端に台車と気の屋根があるような簡易的、非衛生的なもので、なんの抵抗も感じないことにバックパッカーとしての成熟を感じます。お腹いっぱいになり、値段がわからず100ルピーを渡すと50ルピー帰ってくる。約85円でこれが食べられる。この価格なら腹を壊すようなことがあっても文句は言えません。この時点でかなり満足感があって、穏やかな気持ちの中、安宿が集まっていることで有名なサダルストリートにどんなところであるか興味があったので行くことにしました。ここから全く違った1日になる。


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その通りへ向かう間に、顔体を真っ赤に染めた家族に会いました。そういえば昨日から、いろんな色で汚れた人たちを見かけていた。全く知らず知らず、到着したのはインドのお祭りホーリーの真っ只中だったみたいです。お願いして写真を撮らせてもらうと、ノリノリで写ってくれて、別れ際「幸せの印」と軽めに僕の顔も塗られる。着くなりすぐに声をかけられ、詐欺師がたくさんいると有名なこの通り、警戒しながらも日本人もいるからということでついていく。そこで前日、一緒の飛行機で一夜を空港で共にした方と再会。安心してその輪に入る。奥さんが日本人なんてインド人もいて、かなり流暢な日本語を話す人が3人ほどいる。パーティしようと移動し、おろしたてのチキン、ウィスキーなどを振舞ってくれました。太鼓の音が響き渡る通りで、子供たちは水鉄砲を持って打ち合っている。大人も子供もみんな様々な色が塗られ、どんな顔をしているかもよくわからない。最初はそれを見ているだけでしたが、だんだん僕たち外国人もターゲットにされはじめる。一度荷物を預けて、特に盛り上がっている裏通りに入っていくと染めてあるタオルをぶつけられたり、バケツで水をかけられたりときている服、顔の色は一気に変わる。一度汚れてしまえば、こちらも「もうどうにでもなれ」、地元の子供たちも「あいつは攻撃しても大丈夫」。赤、緑、黄色、紫、ピンク。何層にも渡って顔に塗りたくられる。「ハッピー・ホーリー」何人ものインド人とハグをする。酔っ払った大人たちが太鼓に合わせてダンスをはじめ、馬鹿みたいに笑う。散らかるゴミ、漂う臭気、そんなものは吹き飛んで忘れ、カラフルな世界、汚れていないものなんて周りにはもう何もなくなっている。久しぶりに地元の人たちと時間を共有できた実感があり、この時間は旅中でも一番楽しい思い出になりました。


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残念ながら普段は宗教上の理由で飲まない、そのタガが外れ、徐々にうざさが姿を現わす。インド人は老けて見えるのもあって、30歳ほどだと思っていた日本人論を何度も何度も語ってくるやつが23歳だとわかり、本当にイライラしてくる。そうなってくると日本語を使うというのはもう厄介でしかありません。言葉は壁になるけれど、乗り越えなければならないのと同時に守ってもくれる。本当に楽しめた後でも結局お金の話になるのがいつものパターンで、そうだとわかりながら、どこかで今回は違うかもしれないと期待する、そして結果はいつも同じ。この体験が積み重なると、だんだんフレンドリーな地元の人を信用しない方がいいとは思うのですが、それでは深いところが見えない気もする。難しいところです。どれだけ楽しんだ後でも気持ちよくない別れをすることが多い。「日本人は保守的だから、西洋人と違って本当の楽しさがわからないんだ」言いたいことも分からなくはないけど、ずっとこの人たちといるのが楽しいわけではないんだよな。自由と自分たちのハートの大きさを豪語するインド人。心から楽しむっていうことに慣れていない日本人の方が多いのは事実だと思います。あまりに騒ぐ姿は滑稽に見えることもある。それはまあ個人差もあることでしょうし、それぞれに楽しいポイントは違う。ただそれを国民性で語られるのは納得できません。日本にだってそれを好む人もいるし、インド人が皆それを愛す訳では絶対にない。出会いは易く、別れは難い。こんなことにも慣れたものです。


帰り道、どこもこのお祭りに盛り上がっているのだろうと思いきや、その区画を離れてしまうと汚れている人なんて誰もいない。笑われるならともかく、不審そうな目で見てくる人が多い。子供の中には逃げ去っていく子もいて。「いやいや、あなたたちのお祭りでしょ?」と言いたくなる。世界的に有名なこのイベントですが、その範囲は広いものではないようでした。宿に帰るとオーナーに引き止められ、すごい剣幕で「何するより前にシャワーを浴びろよ」と強めに言われる。思っていた反応との差に戸惑いながらも、まっすぐシャワー。この時には既にほとんど黒と言ってもいいような色になっていた僕の顔、当然ですが落とすのはかなり大変でした。水を浴びると順にいろんな色に染められた水が体を伝ってくる。顔は4回くらい洗顔をして、ようやく大丈夫だろうというところまで落ちました。それでも何箇所かは無理と諦めました。この手間取った作業の間に、気持ちはかなり現実に戻ってくる。どれだけ一生懸命洗っても、ジーンズなどに着いたものは取れなくて、もうこれはいい記念だと開き直り、頑張ることをやめました。


海外の祭りに参加するような機会にはこれまで恵まれなかったので、何より嬉しかった。3日ぶんくらいのイベントが詰め込まれた1日に、帰ったらもうヘトヘト。21時ごろにはベッドに入って休む。まだまだ始まったばかりですが、インド好きです。汚い、煩いにはかなり鈍感になっているおかげだと思います。日本からいきなり飛び込んだら、辟易しているかもしれない。たぶん明日はあまり動かないだろうことは自分がよくわかっています。


WBC開催中ですよね。前評判以上に盛り上がっていて、野球ファンとしては観れられないのが残念です。宿にいる時に試合があると、頻繁にスポーツナビを確認してしまいます。ただこの調子でキューバに連勝することになると、現地に行った時に敵にされ、イジメられないかという心配を抱えているのは僕くらいではないでしょうか?