あなたの夜空は何色ですか?

「東京の夜空は黒くない」カイロで出会った佐賀から上京したという女性が言っていたのを思い出しました。言われた時に少しはっとして、改めて東京の夜空を思ってみた。消えないあかりに照らされて、本当の色はわからない。それが僕たちの暮らす街、東京。ずっとそこで育った人には、低いところはいつでも白んでいる夜空が当たり前の光景。幸か不幸か、アフリカではそれを原色に近い色で見ることが日常でした。本当に綺麗な空は星が強く輝き、高いところほど白んでいる。気温、大気汚染、様々なものに左右されて、その色は数えきれるものではないのかもしれません。同じ空の下とは言えど、やっぱり違う空の下。ここで見えるのは、見慣れた色、黒くない空。近い感覚で並ぶ街灯、信号、立ち並ぶ近代的な建物の群れ。街灯や街路樹はその国の状況をよく教えてくれる。旅の中で1番栄えている街。エルサレムの新市街を歩いて、日が暮れた空を眺めた時に思ったこと。


自然。自然体。等身大。ケニアを離れて後、僕は人の作り出したものばかりを前にしています。朝からバスに乗ってパレスチナへ。ヨルダン川西岸地区。世界史ではおなじみの名前です。そこに位置する街の一つ、ベツレヘムに行ってきました。宿からすぐのところに出ている市バスに乗ったら、1時間も経たずに到着。途中にパスポートを確認されるようなボーダーはありませんでした。日本は国家として承認していませんが、世界の130以上の国がそれを認めているらしい。中東戦争で領土の変遷を経た両国。その原因を作った当事者と言っていいイギリスに、今さら呆れを覚えたりしながら。終点、普通の道路に降ろされるなり待ち構えているタクシー。ただ見たいものを周るには、これを使うほかないようです。さっそく価格交渉に入るわけですが、正解はわからない。ラテン教会に行き、バンクシーの絵を周るプラン。モスクと比べて、教会というのは画や像に溢れていて、よっぽど腕のある画家によって描かれたもの以外は神聖さを損ねているような。建物以外に何もなく、ひとえに心で祈りを込めるモスクの方が個人的には好意を感じます。壁という壁にごちゃごちゃと絵で埋め尽くされた教会を慎ましい気持ちよりも、その派手さを楽しむつもりで行きました。最初は自分以外誰もいなかったのをいいことに隅々まで。左右には青と赤のステンドグラスがあってそれなりに綺麗なところでした。途中からは中国人の団体御一行がいらっしゃったので、それに紛れるようなことをして。起源は知りませんが、ここのところ数千年の歴史を持つものばかりと対峙していたので、比べて気楽に見られたのがよかった。あまりにスケールの大きいものは、感受性を激しく揺さぶられ、感動はすれど著しく体力を消耗させられます。焼肉と寿司ばかりが続くのも考えものです。たまには、いや普段は富士そばくらいがちょうどいい。これは教会に失礼か。素敵なところでした。


それからイギリスの芸術家バンクシーの作品を見てまわりました。彼のことは授業で知っていたので、なんとも偶然。この街にとっては大切な観光資源として定着しているようです。こちらがお願いする前に、運転手が提案してくるぐらい。思っていた以上に彼の作品群は世界的に人気を得ているようでした。ゲリラ的に、時には無許可で残され落書きとも言えるものが人を呼ぶというのは皮肉にもとれます。4箇所周ったなかで印象に残ったのは「花束を投げる人」。顔を隠した男が爆弾を投げるところを、代わりに花束を持たせている絵です。この秀でたブラックユーモアのセンス、緊迫感のある場面を丸く包み込める能力が、彼をこれだけ有名にしたのでしょう。ただ深刻なもの以上に、そこに笑いを交えて伝えることができればメッセージはより先鋭に響くことをよく教えてくれます。イスラエルが一方的に建築した高い壁には彼の絵をはじめ、200mぐらいに渡って様々な人により隙間なくアートが残されています。しょうもない落書きのようなものがほとんどですが、中には思わずシャッターを押したくなるようなものもありました。そんな壁の存在がありながらも、現在この地域は1人で歩いても緊迫感などは感じない穏やかな時間が流れているように見えました。パレスチナ側のドライバーはどんな気持ちでこの壁を案内しているのでしょうか。お金になる壁ぐらいにしか思っていない節はありますが。


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執拗な他の場所への勧誘を断って、降り立った場所に戻る。そこから歩いてキリストの生まれたという教会に。20分ほどの道中、中心部への町並みは旧市街と同じように石造りの細い道が続きました。パレスチナの地区に記念すべき場所をとられ、悔しい思いをしている人間がいるのも容易に想像できます。入ってみると聖墳墓教会と同じく改修工事をしていて、なんだかキリスト教には縁がないようです。感動はしませんでした。根っから信じられることではなく、信者でもないので。それなら行かなければいいではないかと思われるかもしれませんが、見ることで満足なんです。その地点に明確な像を持ってたことが、僕にはとても嬉しい。教徒にとっての重みは理解しているつもりです。


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この地区の様子を目に留めながら、バス停に向かいパレスチナを後にしました。本当に味見したくらいです。帰り道は途中でバスが止まり、旅行者以外は降りて身分確認が行われていました。イスラエルからは出ることは自由でも、入ることには厳しく、そう言ったところでしょうか。おそらくそこが国境ということになっていたのだと思います。風景が変わるようなことは全くありません。強いていうならイスラエル側の方が建物がぎっしりとあるくらい。売っているもの、営まれている生活も一見何も変わらない。通貨もイスラエルのものを使う。こんなものかと少し拍子抜けしました。関係が悪くないことは何よりのことですが、明確な差があることを期待している自分がいた。ユダヤ人の国と言いながらムスリムもたくさんいるイスラエルヘブライ語アラビア語公用語としています。看板も親切にこの2つに英語も加え、3カ国語で表記があることがほとんどです。先日訪れた聖地の存在もあるでしょうが、とてもグローバルに開けている印象を受け、イメージとの誤差をよく埋めることのできる滞在でした。急ぎ足ではありますが、再びヨルダンに戻ります。


ここのところ人間の手による遺跡をたくさん見てきました。それらは時に、人間の存在を、そして自分の存在をも大きくしてくれるような気持ちを抱かせることもあります。これは自惚れであり、人類への誇りのようなもの。あまり先が続きません。その背景、歴史を思うと、恐ろしいような醜さも姿を現します。改めて気持ちを整えて、空など見ていると落ち着ける場所は他のところにある。自然。人工物はそれと並べるととても小さいものです。そして人間もそこから生み出されたことを思う時、人間の生み出したものもまた、そこに帰結するのではないでしょうか。そんな気持ちで今日は街を人の流れを見下ろしていたら、なんだかとても穏やかな気持ちになりました。それはアリの巣を上から眺めるのとさして変わらない。普段は上から目線で注ぐ落ち葉も、人が長く悩んでばかりいるのを憐れんでいるように思えて。対等に切り離そうとすることをやめて、大きな自然の中、その一部として自分も一緒に包み込まれていることを感じる。大きな安心感がそこにあります。自分の存在は矮小でいて輝く。そしてその矮小さを肯定的に捉えられる時、僕は一番気持ちがいい。


アフリカで自分が見た自然の中には、道路や線路が必ずありました。それでも壮大に思えるのですが、より大きく感じられる場所。行くのは困難でも、地球上には、その外にもたくさんあるんだと思います。行ってみたいけど、それ以上に恐れも膨らみます。そして難しい。宗教との距離が近かったこの数日間、神様のことを考えはじめると、視点を人間だけにとどめることは大きな間違いな気がした水曜日。


たくさんのものを自分の眼で、同時に自由に考えられる時間がある。こうしていられることが、改めてありがたく思われます。感謝です。