天国と地獄

 ローマ2日目。この日はイタリアにいながら、新しい国。世界で一番小さい国家、バチカン市国に行ってきました。集めた情報から、予約等していない場合、相当並ぶ必要があるらしい。ここ最近は早起きの毎日です。ドミトリーは8時、場所によっては10時ごろまで他の客が寝静まっていたりするので気を使うのですが、付き合っていては時間がもったいないので失礼して。みなさん夜型の人ばっかりです。僕がベッドに入る時間から、街に繰り出して行ったりする。中にはそれでいて、自分よりも早起きの方もいらっしゃる。とてもタフです。太刀打ちできません。7時過ぎに起きて、ヨーロッパでは珍しく朝食付きの恩恵を受ける。食パンにジャム、クッキー、シリアルがある程度ですが、かなり助かります。空腹の寝起きから、すぐに食事がある喜びは、例えどんなものでも母の味。ご飯と味噌汁っていうのも、もうそんなに遠い話ではない。一度出かけて、走るように進み、ちょっとして忘れ物に気がつく。大事なものだったので、放っておくと後々目の前にあるものを楽しめない気がしたので、しぶしぶ引き返す。そしてまた早歩き。1時間ほどあるいて、バチカン市国の側面から入場できる美術館についたのですが、すでに長蛇の列でした。通常の梅の価格のファストパスを勧誘するお兄さんたちの話では、1時間、2時間、3時間。要するに結構待つらしい。着いたのはまだ8時半ではあったのですが、甘くない。イタリアの観光地はどこもディズニーランドにいるような心地、雰囲気からも国そのものがテーマパークのようです。2列あって、右側は既にチケットを持っている人の列。瞬く間に進んでいく彼らを横目に、羨望の眼差しの日本人。目にできるものは変わらないので、辛抱あるのみ。控えている大物たちを想えば、明るい気持ちでいることができます。


 いざ中へ。持っていた国際学生証が3月いっぱいで期限切れになってしまい、有効であれば半額という事実に少し納得がいかない。運頼みと、一度提示してみようかとも思うのですが、どうもルールを守らなければならないという強迫が胸にこみ上げる。日本の美術館の内部で写真を撮った記憶はありません。禁止だったのか、自分がそれをしなかったのかというのは定かではありませんが、周りにいる人も一様に絵画、彫刻に集中していた記憶があるので、おそらく禁止だったのでしょう。ここは世界的にも相当貴重とされ、貯蔵数でもたいへん立派な美術館ですが、一部を除いて撮影は許されています。じっくり眺める人も、写真を残して足早に去っていく人もどちらもいます。記憶に残せばいいし、写真など撮ればそれに甘えて薄れてしまうとは思いながらも、ぼくもシャッターを押します。それが終わってからゆっくり観る。他人がどれだけの想い出をそこに残すのかはわかりませんが、記憶力不足か、僕は大抵2、3の作品が胸に残り、それ以外は遠からず見たことさえも忘れていってしまいます。それに、有名である作品や、芸術家のものにはより惹きつけられるので、かなりアマチュアな楽しみ方をしているのでしょうが、そんなところです。


 そんな中で、特に僕が見られて嬉しかった作品。まずは「ラオコーン」。世界史の資料集などにも載っていた像ですが、大蛇に襲われ、苦悶の表情が何ともリアルに表現されていました。この作品はその完成度と保存状態から、ルネサンス期の多くの芸術家にも影響を与えたと言われています。僕も何かを与えられたいものです。そしてラファエロの描いた天井画。これは一間だけではなく、館内を進むと彼が手がけた画が残された部屋が続きます。その中でも「アテネの学堂」は生で観られたことに大きな満足がありました。これらはもともと作品の名前や、背景を多少知っているのも大きい。初見のものは、イタリア語と英語で書かれた紹介カードでは誰のものかもわからないことが多々あります。その向かいにある、同じくラファエロの作品で、戴冠式のような場面を描いたもの。階段の途中にいる子供が他の人物とは違い、観賞者の方を向き、目が合うように描かれていました。しっかり向かい合ったのもあり、彼の顔は鮮明に覚えています。


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 そして何よりも楽しみにしていた場所がやってきます。この時はすでに2時間近くが経っていたはず。とにかく展示物が多く、一つの廊下をとっても、無数の彫刻が所狭しと並んでいます。その彫刻の上にまで絵画が掛かっていたりしますが、もうここまで注意を払っている人はいなんじゃないか。教皇が望んで収集したものもあるのでしょうが、贈られたものも多いのだと思います。もちろん、西欧の歴史の中でそれだけ重要であり続けた地位であるということは百も承知。体力勝負になります。これだけのものを、価値のあるものを次々に突きつけられると、だんだんと脳が糖分を欲しはじめるのがわかりる。まだか、まだかと作品をこなしていき、辿り着いたシスティーナ礼拝堂ミケランジェロの「最後の審判」の描かれているチャペル。"万能の人"によって描かれた前面、壁面、天井と広がる大作。ここだけは写真が禁止され、おしゃべりも注意を受けます。バスケットコートくらいの広さに、学校の集会のように人が詰め込まれている。胸に何かがこみ上げてきて、口から息が漏れる。今更評価を述べるようなものではありませんが、力強く、それでいて細かかく描かれた肉体、表情。その大きさも少なからず圧倒的である要素であるはずです。1人の人間が完成させるまでにかかる時間、苦労は誰もが想像できる。そして僕は、描いた本人の実在はもちろんですが、今までにこの画を前にしてきた数えられない人々の存在にも想いが向かいます。どんな人でも、地位や人種を超えて、感嘆の声をもらしたであろうこの場所。無数のその囁かな声が時代を経るごとに、この作品を偉大にしているようにも思います。逆にここにいられたことは、自分が存在できたことの喜びを優しく撫でてくれる。


 狭い出口には詰まった排水溝のように、人が流れなくなっていました。隠れて写真を撮る人も少なからずいましたが、僕ならそれを見返すたびにルールを破った罪悪感に苛まれてしまいそうです。そしてそれが許されなかったことが、よりこの場を強く記憶に留めてくれました。留めようと一生懸命でした。そこからもまた展示が続いたのですが早足に。最後は現代の抽象的なものが展示されていました。写実的なものは、よっぽど作者の腕がいいか、画風が好みでない限り、僕はこっちの「なんだこれ」と半ば笑いながらも観られるようなものが好きです。そして出口へ。


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 美術館だけで入国したと言えるのか、パスポートチェックはないので実感が湧かず、昼食を食べて、今度は正面から入ることにしました。言うまでもなく、ここでも1時間以上の待ちが発生する。自分が望んで列ぶけれど、これが何日も連続になると保たないだろうとわかる。そして残念なことに、待った挙句、正面の広場に入るだけ入り、この日はサン・ピエトロが閉館していたので、何をするでもなく退場。ピエタを拝むことはできませんでした。サバンナの夕陽にはじまり、見ることを願いながらその場に行き、叶わなかったことも少なくありません。残念ではありますが、長生きを望む理由にはなってくれるかなとポジティブにいきます。昨日と同じ、広場を通りながら帰りました。それはもう、とてもいい気分で。途中スーパーで、野菜不足の僕は先進国ならではのカットされた野菜を買って、夕食に。気分が良かったのに加え、久しぶりに摂取できるビタミンに天にも昇るような。


 しかし大きな喜びは、バランスをとるかのように直後落とし穴が待っています。サラダは皿に盛ると思っていた以上にボリュームがあり、そして思った以上にセロリが多い。僕は美味しいとは思わないまでも完食して、それなりに満腹に。キッチンに洗い物をしにいくと、宿の従業員の人たちが夕食を食べている。気さくな彼らは、「お前も一緒に食べろ」と招待してくれる。ご飯に肉、お腹が一杯だと言っても、いいから食べろ。ありがたいことに久しぶりに動きたくないほどの満腹に。ただ少しすると体調に変化が現れる。僕の胃袋が旅の間にかなり小さくなって、耐えられなかったのか。もしくは食品に問題があったのか。僕の推測では、人生で最も口に運んだセロリが合わなかったのか、黒くなっていたので、品質に問題があったのか。どっちにせよ、犯人はセロリだと思っています。人類の宝物。綺麗な芸術作品に満たされた1日は、トイレで嘔吐、美の全く反対側にあるものを前にして終わりました。こちらの描写は割愛。概して、いい日であったと締めさせてもらいます。