最後の国

 クスコからバスで最後の国境越え。ボリビアはラパスへ。思えばたくさんのボーダーを超えてきました。南アフリカからジンバブエへ。初めて陸路で違う国に入国した際は感動したものです。だいぶ昔のことに思えます。陸、海、空。いろいろありましたが、気がつけば30回以上もこんなことを繰り返してきました。殊にバス、電車で越えたアフリカの国境では苦労したこともあり、ヨーロッパ以外では緊張感とは切っても切れないイベントです。そんな最後はあっけないほど簡単に通過。


 31カ国目、最後の国ボリビアに入国。安いバス会社を選んだため、直通だと思いきや途中の街でストップ。「今すぐラパスに行きたいならあれ」と、ボロボロのバスに乗り換えて旅路は続く。12時間と言われたのも、アディショナルタイムは6時間ほどかかって到着。南米でも特に物価の安い国。旅の中で物価の安い国というのは、取りも直さずイコールあまり綺麗ではない国。標高も高く、すり鉢型の窪んだところに作られた都市。高いところほど治安が悪というのがよく知られたことなので、そこには絶対近づかないようにしよう。到着したのもつかの間、時間に余裕はないので、そのまま次のバス乗り場へ。4時間後、僕はウユニへ向かいました。こんな日程の中、もう4日シャワーも浴びずに怒涛の移動。目的地に着いたのは朝5時のこと。何よりも寒い。とりあえず開いているカフェに避難し、ココアをすすりながらWiFiで気温をチェック。マイナス10度。そりゃあ自然と歯もカタカタなるわけだ。7時ごろには宿に移動し、睡眠。


 11時ごろに起きて、ツアー会社を探します。ウユニ塩湖には乗り合いのバンで、定員7人で集まった人数で1台分を割り勘になります。運のいいことに、その日のサンセットツアーがちょうど6人とのこと。即決で申し込む。7人いると1人100ボリビアーノほど(約1500円)かなり良心的です。15時に再びそこに行き、ツアー開始。参加者は香港人の夫婦と同年代の男性2人の4人に、アメリカ人の夫婦、日本人。このメンバーだと会話も全員が英語でやり取りができて、簡単に一体感も生まれます。


 心配していたことは、乾季のこの時期に水があるのかということでした。1ヶ月ほど前から気になっていたことで、前の国であった人にはもうないと言われてがっかりもしていました。それでも白い大地は見る価値があると割り切って参加したものの、そこにはまだ十分に水がありました。日本人御用達のこの会社は、欧米人が真っ白の大地が目当てであるのと違い、アジア人が鏡張りを目当てにやってくることをよく知っていますあ。ガイド兼ドライバー、そしてカメラマンまでこなす彼は、鏡張りを利用したトリックアートのような写真を、ポーズを指定し何種類も撮影してくれました。その道で彼は天才的に、小道具まで用意して、ゴジラに襲われる絵や、プリングルスの箱に入っていく動画。これは誰に見せたらいいのだか。中には後で確認するとびっくりするようなものも仕上がりました。さすがはプロです。普段はこんなことに照れ臭さも覚える僕ですが、ラテンの血に触れて来たからか、言われたポーズを全力でこなしました。全員がiPhoneユーザでAirDropを使える便利なご時世、1人の携帯で撮影後、すぐに全員に共有される。


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 それらが終わると自由時間で、各々好きなように真っ白な風景。鏡張りを満喫できます。風もなく、雲ほとんどないような晴天はまさにウユニ日和でした。遠くにある山々、太陽までがそこには2つありました。香港人の夫妻は、人の目も気にせずに堂々と、お互いにポーズを決めて、写真を撮りあい続ける。アメリカ人の夫婦、奥さんは少し恥ずかしそうにしていて、僕は遠くから見て親しみを感じる。若い2人は高そうなカメラと、3脚を駆使して、きっといい写真を残しているのだろう。僕は1人でぼんやりと、たまにシャッターを押しながら、最後にここを選んで良かったと思う。そしてシュールな風景の中、いろんなことが頭の中を行き過ぎる。何年も会っていない人を思い出したりする。連絡も取れなくなれば、生きていることにも確信を持てないから、安易な繋がりに溢れる現在も、そう思うとありがたいかもしれない。ただそれを絶ってしまった人は、心配でも為すすべのない無力さを改めて思い知らされる。だんだんと暮れ行く日を、可能な限り見つめながら。暖色に包まれていく世界。ほとんど沈んでしまった頃には、その暖色と地平線の間に、深い青色が立ちこめる。不思議とほのかで、幻想の中にいるような風景でした。平らに広がる白い大地と、水のおかげで映し出されるもう一つの世界。存在しない世界と、実在すると信じている世界。その間に吸い込まれて、どこか違うところに行ければいいと思う。今はそれが僕の見知った人たち、見慣れた故郷に続いてくれていたら1番嬉しい。間なんて本当はないことを知りながら、そんなことを考える。


 その後、寒さから退避するため、全員しばらく車の中へ。30分ほどが経って、極寒に耐えながらまた外へ。そこには間違いなく、僕が今まで見た中で1番の星空がありました。黒のキャンバスに隙間なく敷き詰められた輝き。天の川の存在も、自分の目でこれほどまでに認められたことは今までにないことです。それにここでは、自分の踏む地面にもそれらが映る。旅の終わりを、これほどまで綺麗に締めくくれるなんて、幸せに幸せの上塗り。これ以上の星を見ることは、もうないかもしれません。全員が寒さに耐えかねて車内に戻ってもしばらくは、1人空気も読まず、1秒でも長く目の裏に焼き付けるように。そして20時ごろ、車は街に戻って行きました。持っている服をほとんど駆使し、上には7枚、下もジーンズを二枚重ねて、それでもまだ寒かった。ただこの時期のウユニ、ベストシーズンほど人もおらず、季節的にも星空はより輝く。寒さに耐えられれば、ベストなタイミングもだったかもしれません。この上ない満足感を得た僕は、申し込んでいた朝3時集合のサンライズツアーをキャンセルしました。何度も参加することを勧められていましたが、これ以上の気持ちは自分の中に知らないし、多少の慣れから寒さばかりに気が行き、思い出が縮むことを恐れたからです。感動を覚えた場所には2度行かないほうがいい。誰か偉い作家が言っていたはずです。おかげで久しぶりに僕はベッドの中、長い眠りに就くことができました。


 こうして最後のイベントが終わりました。あとは深夜バスが何事もなく空港のある街まで運んでくれて、3つの飛行機が無事なフライトを果たしてくれたなら、僕の奇抜な冒険譚は終わりを迎えます。元いた場所に吸い込まれていきます。それでも"奇抜な"という形容が似つかわしくなくなるだけで、それは続いていきます。当たり前のものから抜け出して、当たり前なことへのありがたさが募りました。膨らむばかりでした。生活が変わるたびに何度か経験したことのある気持ちですが、それに大きさがあるなら、今回のものが1番大きかった。すこしずつ今の生活も当たり前のような気がしていた。それはもう3日も経てば、再び特別なこととして映るのでしょうか。また日常の中で普通に戻ってしまうだろうことたちを、それでも特別だと思っていたいなあ。そう思いながら、バスを待つまでの時間、ほとんど同じベンチから動かずにいます。

出会い、再会

 キューバを後にして、僕は一旦メキシコシティに戻る。そこで空港泊、翌日に次の飛行機でペルーへ。南米へやってきました。治安の面でも少し心配がある。キューバで会った人たちは、南米から上がっている方が多かったので、気をつけることを教えてもいました。聴けば聴くほど不安になっていく。帰国の飛行機までは11日しかなく、マチュピチュとウユニだけには必ずいきたい。それだけでも途中で躓けば難しくなります。3分の1は移動に使う必要があって、立ちはだかるは連なる山々と富士山を越すこともある高度。高山病とバス酔い。そんなところにも人は住んでいる。酸素が薄くてすぐ落ちるから、首締め強盗なんて輩もいるらしい。最初にリマにつきオーナーに教えられたのは「南米でタクシーに乗るときは、窓を開けたり、外にいる人と目を合わせたりしてはいけない」怖すぎます。実際に最初に着いた宿にも、強盗の被害にあったという方もいらっしゃいました。それにしても南米に旅行者はとてもディープです。6年間旅を続けていたり、自転車やリアカーを押して世界を回る人たち。とてもじゃないけど敵いません。最後の最後に、とても謙虚な気持ちになって日本へ帰れそうです。上には上がいる。


 後が詰まるのを避けるため、夕方に着いたリマは一泊で後に。翌日の13時発バスでクスコへ。20時間以上に及ぶ道、バス酔いから吐き続けるという生き地獄を味わう人もいると聞いていました。実際に数席後ろにはそういう人がいて、もらうまいと、必死にiPodで違う世界に避難する。何事もなく到着できた自分を少し誇らしく思います。この街もずいぶん高いところにあるのですが、高山病も無縁に着けたようです。ただ、坂や階段の多い土地柄、それらを登るには普段の倍時間がかかり、すぐに息が切れてしまいます。生活するだけでさながらトレーニングを積んでいる気分です。ウユニのベストシーズンが4月には終わってしまい、冬になるとパタゴニアにいくこともできない。これらを重要視する日本人は、今の時期だとペルーにもあまり多くありません。しかし6月下旬、クスコでは伝統的なお祭り、インティライミがあり、1年を通してかなり観光客の多い時期なようです。そんなことは知らずにやってきた僕。本番にそこにいることは叶いませんが、すでに街はお祭りの賑やかな空気に包まれ、練習なのか、前夜祭的なものか、時間によってはパレードが行われ、たくさんの聴衆が集まります。夜には各所から花火が打ち上がる。寒い中で見る花火。


 ここも1泊して荷物を預け、翌朝からマチュピチュへ2泊3日のツアーに参加。電車で行く方法もありますが、こちらがかなり高額になっておりまして。6時間ほどかけて途中までバンで行き、そこから歩いて向かうコースを選びました。適当に数カ所に聴いて、選んだエージェンシーがかなり悪くて、朝7時に迎えに来るはずが、来たのは1時間以上経ってから。結局、誘い文句にもあったWiFiも滞在中使えないまま、その他も困らされることが多かった。それに周りはスペイン語を話す旅行者の方ばかり。少しさみしい旅になるかと思いきや、チリ人やアルゼンチン人の同行者たちが声をかけてもらい輪に入れてもらう。あまり上手ではない英語で、僕のことも気にかけてくれる。ラテンの温かさに触れました。途中から断崖絶壁、悪路を走るバンは無事に目的地に到着。そこからは3時間ほど、線路の脇を歩いて村に向かう。ここは日本人には"スタンドバイミーロード"として有名なそうです。確かに今にも壊れそうな鉄橋、線路の気をつたって川を渡ったりと、冒険感満載。鳥のさえずり、虫の声など楽しみながら歩くのかと思いきや、一緒に歩くチリ人、27歳、20歳の従兄弟同士の二人組。取り出したのは、ベルトに装着するスピーカー。テクノミュージックを大音量で流しながら、年上の方は草を髪に巻いては吸い、また巻くを繰り返して進んで行く。完全にアホでした。でもこういう人たちが人一倍優しく、思いやりにも秀でている。こんな人たちに道中、何度も気持ちを救われてきました。宿には日が沈んでから着き、参加者全員で夕食。宿に戻っては翌日の4時起きに備えて就寝。同じ参加者の1人に明日の降水確率が50%と聞かされましたが、これはきっと大丈夫だろうと。晴れ男ということに、僕は何より自信を持っているかもしれません。


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 3時過ぎに無事起きて一安心。朝食付きといっても、パンにジャムがあるくらい。ココアを飲んで出発。やっぱり雨は降っていない。まだ暗い中を進んでいると、脇道に何やら光るもの。闇の中、姿が見えないので蛍であるかは定かではないのですか、とにかく光る虫。日本のものよりもオレンジに近い灯りを点滅させて、僕の隣をいきます。なかなか見られるものではないと、早朝から嬉しい気持ちになって足を動かす。寒いと聞かされていた南米に、僕はそれなりに着込んで出かけましたが、止まらない足に、徐々に汗をかきはじめる。村からはバスも出ていますが、みんなも歩いて行くと言うし、僕もそのつもりでした。ただ予想外の暖かさにパーカーもダウンも、ジャケットも脱ぎ、最後はシャツ1枚になって入り口に到着。ただこの日は運のいい日ではありませんでした。ツアー会社のミスでチケットが用意されず、必要な番号だけ書かれた手書きの紙を渡されましたが、結局それでは入場できず。パスポートを預ける羽目に。スペイン語、英語に対応したガイドというのも嘘っぱちで、英語を希望する参加者は他の団体に押し付けられる。そのせいでツアー終了後、元いたグループと離れ離れ。一度退場して、パスポートに判子を押せば再入場可能。僕はそのパスポートを持っていない。探しに戻ろうとすると、係員のおばさんに一通だから引き返すことはできないと拒まれる。どうしようもなく出口付近で待つことに。ポケットに入れていたリンゴを取り出して食べようとすると、手から滑り落ち、マチュピチュの勾配を止まることなく転がっていく。それを見て笑うおじさん。こんなこともあるかと。いいえ、食い意地が張ってもう片方のポケットに入れていたリンゴを取り出す。こちらは無事に口をつけるも、しゃりしゃりで、こんなに不味いリンゴはどの国にも無かった。災難なことの方が文章にするのは容易い。


 しかし待っているとあの従兄弟たちがやってきて、そこからまた一緒に回ることに。無事にガイドも見つけて再入場。彼らがいなければこのツアーはどん底でした。陽気な2人のおかげで僕も元気を取り戻す。肝心なマチュピチュは、相変わらずよくも、こうへんぴなところにという印象がまずはじめに。人間、科学が進歩する前から、頑張ればこんなものまで作り出せるという力強さ。よく話題にもなるインカの遺跡を目の前に、これだけの技術力。目の前にするとより強く思います。高い山々に囲まれて、侵略を免れ、しっかりと形を残す都市。丁寧に隙間なく積み上げられた石は、当時でどう実現されたのか想像もつきません。歴史ミステリーなどに普段から強い関心があるわけではありませんが、ここに来るとやはりそういったロマンを感じます。標高も相まって、雲が近く、霧がかかったようになった姿も、この世のものではないような雰囲気を演出していました。テレビで何度も見た、アルパカや、スペインなど侵略国家との血が混じっていない、いかにもインカ系の血を引く人々、謎多き空中都市マチュピチュ。来られて大満足です。


 2泊したのは中日で徹底的に回ってやろうと思ってのことでしたが、早起きに朝からの登山。ヘトヘトになり宿に戻ったのは、まだ12時前のことでした。1泊で来たチリ人のアミーゴスは途中で別れ、帰っていきました。僕には絶対にできない。南米ではホットシャーが使えないところも多いものの、滞在した宿の唯一の長所、それが十分に使えること。帰りも1時間ほど歩いて、再び汗だくになって帰った僕には最高の贈り物でした。そして寝る。その後しばらく、僕はこの筋肉痛に悩まされました。翌日の昼過ぎには行きと同じ線路を辿ってバンが迎えに来るポイントまで歩いていく。初日から一緒だった2組のチリ人カップルと帰りの道も連れ添って。本当に彼らへの感謝は忘れられず、いつの日かスペイン語を習得してチリに行きたいという思いも芽生えました。やはりアニメのことを中心に、地球の裏側に暮らす彼らも日本のことをよく知ってくれている。27歳のマリアは特に詳しく、Netflixなどで日本の番組なども見ているようです。彼女はテラスハウスも見たらしく、手を繋ぐだけで完成の上がる日本の文化に疑問を覚えていました。そりゃあ人前でも音を立ててキスをする人々だから、そう思うのも納得です。「あんなこと、日常茶飯事すぎるわ」彼女は言いました。バンを待つ間、彼らと談笑していると、他の車の窓を通して、エジプトで会った日本人の顔を発見、彼もクスコに戻るということだったので、あとで会う約束をしました。車が逆向き、彼の席が窓側でなければ気がつかなかった。運命を感じます。


 クスコに着いたのはもう夜10時過ぎ、マリアたちと一緒に夕食を食べ、彼らが伝統的なお酒、ビスコのサワーをご馳走してくれました。アルパカのステーキを食べながら。マチュピチュは遺跡だけでなく、人との繋がりも残る、いい思い出になりました。疲れた体に効いたアルコール。帰り道の階段を、もう声を上げながら登っていく、シャワーも浴びずにお休みなさい。


 次の日は前日に再会した日本人と連絡を取って会うことに。同学年の彼も同じような期間で旅をしていて、カイロで会った時にはお互い終わりが本当に来るのかわからないような頃でした。同じ頃に南米に行く予定ではあったので、また会えたらと言う話はしていました。だけど、まさか本当に会えるとは。そんな彼と話すうちに、この旅で自分の中に起こった変化などと強く認識することができました。うまくまとめることはできないけれど、いろんなことが整理させてもらう。残り1週間のこのタイミングで会えたことは、本当に大切なことに思えました。まだ3週間ほど続く彼の旅も無事に終わりを迎えますように。昼ごはんを共にし、別れて自分の宿に。すると今度はそこで、カイロの後に訪れたダハブで出会った方と再会しました。1日の間に、1度でなく、2度までも。本当に感動的でした。舞い上がってしまいました。この方は10歳ほど年が上、僕の倍も旅をされていまふ。昼過ぎから、バスに乗る時間まで、興奮も相まって僕のとりとめのない話を優しく聴いもらう。タイミングはもちろん、同じ街でも、宿が違えば合わないところを2度。旅を長期間続けると楽しみもあるんですね。前述の彼も含め、2人に会えたこと。帰国を目前に、何か大きな存在にご褒美、整理する機会をもらったような心地でした。


 そして最後の国、ボリビアのラパスに向けて。終わりを間近に控えた、最後の目的地ウユニへ。ここまで来たら無事に帰りたい。

キヅキ

 ヨーロッパを後にして気がついたことがあります。メキシコにはたった2泊、ティオティワカンを見たばかり。1番の思い出は、ピラミッドに行くため地下鉄に乗り、本来は2度の乗り継ぎで済むところを、間違え、乗り過ごし5回も電車を変えたこと。それもティオティワカンへ向かうバスターミナルに着くまでに。そしてキューバへ。WiFiもない、社会主義の国。クラシックカーは空港を出てすぐにお出迎え。何をするにも緊張して、うまく行くか安心できない。そんなことを積み重ねる必要のある途上国では、日本や欧米でするにはなんてことのないことにも、達成感が宿る。だから特に何かをしたわけでもなく、ただやろうとしたことを無事にやり遂げると、満足がある。これは定住、慣れてしまえば無くなっていくものだと思いますが、そこに短期間しかいないことの決まっている僕にとっては、半年間、新鮮なことであり続けました。こういう気持ちは、ヨーロッパにいた時は抱けなかった。バックパッカーの本懐は、アフリカや南米で強く抱かれるのは、少なからずこの気持ちを誰しも持つからではないでしょうか。


 旅券の安い日に絞って旅程を決めた結果の、ネガティヴな側面は、メキシコシティでの滞在が2泊になってしまったことです。スペイン、マドリードの模倣が多いこの街。つい先日そこにも滞在したことが懐かしい。人口の爆発、地下鉄網の発達が著しい首都圏。高層ビルが続き、大都市ではありますが、清潔感には乏しく、タイのバンコクで感じた雰囲気とかなり近いものがありました。宿も、安い上に、スペースに余裕があり、くつろげる。日本人として、ヨーロッパでは帰って来たように思い。メキシコにいては、東南アジアの国々から、これも帰って来たように感じます。もっと精力的に回りたかったのですが、ロンドンから6時間の時差にもやられ、だるさが抜けないまま次の国へ。ここでは日本と14時間の時差があります。どのくらいかというと、朝起きたらプロ野球のナイターの結果が確認できるくらい。そんなことはないのですが、未来を見ているような、すこし得をした気持ちです。


 カストロ議長の逝去のニュースが新しい、キューバ。アメリカとの直行便も開通した現在、これからより民主化に向かうというのが大方の意見。その中で守られてきて、すこしずつ薄れ行く社会主義の瀬戸際を目の当たりにしました。他の国とは異種の感慨があります。ここにはマクドナルドも、バーガーキングも、スタバもない。商業的な広告も、中心部であるほど、ほとんどありません。僕が平均的な寿命を全うするのであれば、日本人としてはそれの最終盤を目撃した生き証人になる日が来るかもしれません。年代物のクラシックカーが一生懸命に走る光景はやはり特殊です。初めて足を踏み入れた者、最初の数日は特別に。なんでもそうですが、やはり慣れはやって来ます。5泊したキューバ、3日目にはもう当たり前のものとして映りました。スペイン統治下の旧市街、これも世界遺産に登録されています。ユネスコは"旧市街"というワードがとても好みのようで、世界中でそれをまるまる登録しているのには度々出くわして来ました。紛争、戦争、世界大戦の続いた、あるいは続くこの数世紀、確かにそれらが形を留めていることはとても尊いことなのかもしれません。そしてまた、それらがあったからこそ、古いものを残していかなければならないという風潮もあるのでしょう。確かにそこには植民地とさせていた当時のコロニアル建築、西欧風の建物があり、今も人々が生活しています。


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 キューバではカサと呼ばれるものに宿泊します。これは民宿であり、部屋を貸すという形になっています。特に地方だと、家族の暮らす家の一室を、1人に貸すという規模の小さなものもよくあるようです。僕が滞在したのはハバナとトリニダーと人の多い地域だったこともあり、ホステルのドミトリーとなんの違いもなく、4人部屋、2人部屋に宿泊しました。朝ごはんは必ず、ハバナでは洗濯までしてくれる優しさ。南国のフルーツはやはり美味しくて、搾りたてのジュースも定番でした。スペイン語の国で、英語はほとんど通じなかったこともあり、勉強の必要性を痛感したものの、ここには日本人も多くいて、期間中、それを話せる方と一緒に行動していたので、甘えっぱなしになってしまいました。どうにか数字が5まで言えるようになったくらい。ただ現地の方々は、アジア人がスペイン語で話すのを前にすると珍しいのか、嬉しそうに、とても親切にしてくれるのを横で見ていて羨ましくもありました。習得したさもありながら、帰ってしまえばほとんど使うこともないからな。憧れながらも、たぶんやらないかな。


 二重通貨制度。これもとても珍しく受け取りました。自国のものに、ドルも流通していることなどはありましたが、キューバには現地の人が用いるCUCと旅行者用のCUPがあります。ATMから出てくるのはCUPですが、ちょっとした買い物をすると、お釣りとして手元にはCUCもやってきます。右のポケットをもう長いこと財布にしている僕には、その中で混ざり合い、なかなかややこしいことに。基本的に色で区別は出来るようになっています。3CUCのコインと札はどちらもこの街に溢れるチェ・ゲバラの肖像が使われており、これをお土産にする旅行者もいるようです。コインは一緒にいた日本人の方のご厚意で。札はピザ屋で居合わせたおじさんに頼み込んで、どちらも一枚ずつ手にすることができました。ローカルな店と、旅行者向けの飲食店の価格差が大きく、普通の店で食べると決して安くない金額を払うことになります。地元の人が集う小さな店などでは、それなりの大きさのあるピザが10CUC(約40円)で食べることができました。後者を食べているときの方が、なんだか安心できて、バックパッカーの心意気を癒してくれます。ちなみに1CUCは1ドルと同等の価値を持っています。


 ネットを使わないぶん、情報が貴重になるキューバでは、日本人が集まる場所を久しぶりに選びました。これだけ一緒に過ごしたのはエジプト以来のことです。同世代から、10、20歳上の方々の価値観に触れて、同じ生活を続けていたら、そのまま社会に出ていれば知ることもなかったであろうあり方をたくさん教えてもらいました。思い浮かぶ一生のバリエーションは、この旅で驚くほど幅を広げていきます。社会を前に、力の入っていた肩を、すこし和らげてもらう。このタイミングしかないと思って実行した今回の旅でしたが、これから先でも不可能ではないなと。それを望むかは全く別問題。今は全くイメージが湧きません。


 社会主義の中、その腐った実態も垣間見ながら。どんな職についても、基本の給料は変わりません。そうしたら、自分のスキルを磨いていくというモチベーションも持ちづらいだろうな。親の仕事を引き継げることもあり、警察や公務員などは特にだらけている印象を受けました。トリニダーからの帰り道も、タクシーが止められ、運転手は賄賂を払わされていました。その後は少し運転が荒くなった。今の社会からの変化を望む声が大きくなっていくのも当然ですが、民主化が進めばもちろん楽になる人ばかりではありません。貧しいながらも、家を持たないという人を期間中見かけませんでした。これも凄いことだとは思います。科学の発達で仕事が生活の中心でなくなるかもしれない、遠くない将来に。その先に待つものが、今のキューバの生活から考えさせられることもあると思います。


 トリニダーではカリブ海にも浮かび、水着も仕事納め。特定の場所というのではなく、国全体として、印象に強く残りました。明らかに他国と毛色が違う。それでも治安も良く、居心地はとてもいいものでした。これから先、遠いところにいて拾うこの国のニュースを、もしかしたらこれから大きな変化の中に入っていくことになる一国の行く先を注目して見ていきたい。大方の予想通りに進むのか、他に道があるのか。次に行くことがあれば、そこで僕はマクドナルドのハンバーガーを方張ることになるのか、10CUCピザのままなのか。血が流されることはないように。

London Calling

 こちらロンドンより。単純な性格、朝からiPodthe clashをかけながら意気揚々と出かけます。ここで聴かなくては、どこで聴くんだというような気持ちです。まず何より、イギリスは物価が高い。コーラも街中で買うと200円は下らないし、ホットドッグ一つで500円はします。この国に来たからには、やっぱりフィッシュアンドチップス。僕は屋台が並んで手頃に買えるファーストフードであると思っていたのですが、これはもうレストランがメインで食べるのに1000円はかかる。別段美味しいというわけでもないらしいから、結局食べずじまい。今日もスーパーで安い食材を調達することに精を出しています。さずがに品揃は多くて、決めるのに悩む。同じところを何周もしてしまう。この時間が結構好きです。前々から予約してあったホステルは、この物価ハイ都市にありながら一泊2000円を切る破格の値段。というのも中央に人がすれ違えるかどうかという狭いスペースの両サイドにびっしりと、それも首を曲げなければ上に頭をぶつけてしまうような3段ベッドが並ぶ15人部屋。この半年、誰よりも多くの人たちと同じ部屋で寝てきたのではないかという僕の経験から言わせてもらうと、仲良くなれるのは6人部屋がいいところで、あまりに収容量の多いところはコミュニケーションも生まれにくい気がします。人の数だけ出入りも増えるから、深夜までドアの開閉音が絶えない。しかし値段には変えられない。それに朝食も付いていて、それだけでいい1日が始まります。


 正直どこまでが旅行者で、どこからが現地の人なのか、もう見分けがつかないこともしばしばです。そんな中で、この国の肥満率はもうちょっと心配になります。シュッとした英国紳士が想像のイメージは到着後間も無く打ち砕かれ、なかなか見ることがないレベルに肥えた方を頻繁に見かけます。どんな食生活があなたをそうさせたの?これだけ物価が高いと、しっかりとした収入がない限り、栄養の整った食事を摂ることは難しいのでしょうか。確かに僕も今の食生活を続ければ、遠からずぽっこりお腹になりそうではある。少し度が過ぎて、触りたいという気持ちも起きないほどです。一方でジェントルマンの気風は随所に感じるところがあります。親切な振る舞いはいたるところに溢れていて、お礼を言うと、表情を崩さず当たり前だと言うような顔をする男たち。かっこいい、これこそイギリス、けどそのお腹がね。


 僕の専攻はこの国の文学、文化が主たるところなので、思い入れは強くあります。それでなくても好きな音楽、小説はこの地で生まれたものが多い。言わずもがな、よく舞台として使われるロンドン。夕食を食べた後に散歩として、ベイカーストリートを歩き、アビーロードへ。そんなことをして楽しんでいます。やっぱりメインはビートルズで、ルーフトップアクションが行われた建物、ジョンとヨーコが出会った個展が開かれていた辺りをうろうろ。交通量のヘビーな街なので、最新の輝く高級車にあまり昔にタイムスリップしたような気持ちにはなりませんが、ここで確かに行われたことがある。そこに僕は立っている。いろんな人物が少しずつ輪郭を強め、自分と彼らの距離が少しずつ縮まる。大きな公園がいくつもあるロンドンは、そこで昼寝をしたり。何よりもありがたいのは博物館が基本的に無料であること。これは太っ腹です。大英博物館、英国自然史博物館にいってきました。期待値からするとああこんなものかというのが正直です。コレクションは膨大ですが、質でいうとルーヴルやバチカンの方が魅力的だったかな。ギリシャで行ったパルテノン神殿、装飾がほとんどなくなっていたのがここに展示されていて、大英帝国が世界から半ば強奪してきた泥棒博物館とも言われる所以も感じ取りました。もちろん保護して側面があったとは思います。タワーブリッジ、ロンドンタワー、ウェストミンスター宮殿、ビッグベン、バッキンガム宮殿。様々な創作物の中で触れてきたこれらは、ベンチに腰を下ろしながら外から楽しみました。内部に入るには入場料から躊躇われたり、それこそ創作物が埋めてくれます。ロンドンへの移動の間に、姑息に夏目漱石の「倫敦塔」を改めて読んだり。あんなに歴史の暗部を前提にしてそれらを観光している人は、表情からは見当たりませんでしたが、スマホもない当時に、道行く人に何度も尋ねながら目的地を目指したという記述はその通りだろうなと。現代で良かった、臆病者も母国を飛び出せる時代。


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 4泊してから今度はリバプールへ。道が混んでいたことから予定より2時間近く遅れて8時間ほどかかりました。その道中、車窓から見る田園風景は、道路、それを行く車、電柱などはありながらも、ジェーン・オースティンの生きた時代を垣間見るような心地。夕方につき、間1日、次の日の朝には再びロンドンへ戻ったので、自由に使えた時間は長くはありませんでした。それでも港町の風情を感じたり、ビートルズトーリーや、ペニーレインを散策。彼らが演奏したバーは今も変わらずそこにあり、毎晩音楽に包まれています。中心を離れると、映画などで観たような変わらぬ街並みが広がっていて、騒がしくないのも手伝って、穏やかな時間が流れる。


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 そして再びのロンドンではハイドパークから歩いて5分ほどのところにあるホステル。やることも思いつかなかったので、飛行機に乗るまでの2日間はそこで贅沢な時間の使い方をしました。途中虫などに意識を乱されながら気がついたら半日くらいたっている。めまぐるしく舞台を変えたヨーロッパ周遊は終わりを迎えました。日数と訪れた国と都市の数を改めて並べてみると、あったことが嘘のように、本当に多くのものを見た。そしてメキシコへ。何度か味わせてもらって来た大陸の移動、違う文化圏への突入はいつも興奮と不安の狭間に立ちます。


 ロンドンに到着して数日後、マンチェスターでのテロがありました。朝起きて友達から届いたメッセージでそのことを知る。イギリスにはその脅威がまだ遠いことのイメージを抱いていた1人として僕には衝撃があったし、隣街リバプールに行く際は、特別な緊張感。大きな銃を抱えて巡回する警察の姿をよく見かけました。そして去ってから1週間ほどして、ロンドンでのテロが起きました。凄惨で目を覆いたくなるような現実に、その場所につい最近までいた者として、日本にいて見るニュース以上に、自分とも関連を思いました。旅程が少しずれていたら、あるいは巻き込まれていたかもしれません。犠牲になった方々の冥福を祈りながら、自分が生きていることを思います。危険性は知りながら、自らの身に降りかかることを予測することは難しく、「自分は大丈夫だろう」と思ってしまうのは僕だけではないと思います。ましてや観光客が溢れ、賑やか、華やかなあの街で。ニュースが自分のことでない幸せを、不謹慎だとは思いながら抱かざるを得ません。本当に馬鹿げたことです。こんなことが起こらなくなる未来を。明るい未来を。


進めなまけもの

 救急車や消防車のサイレンは苦手ですが、ああする他ないというのはわかります。運転免許を持った今はより強く。それでいてこのご時世、あれほど都会の中で原始的なものはないのではないか。内装においては、きっと現代の科学の結晶が詰まっているであろうに関わらず。兎にも角にも、大きい音を轟かせ、周りに緊急を伝える。それに応じて周りは道を開ける。僕の発想力では、これに取って代わるようなものは思いつかない。きっとこれからも長く続いていくことだと思います。そうなればますます、緊急自動車の存在感は面白さを増すはずです。役割自体が面白さとは対極にあるものなので、少し抜けた人間たちが、穏やかな昼下がり、時代を超えてきっと今の僕と同じことを考える。


近づく帰国日が、流れる時の早さに推進力を加えます。ブレッドを後にした僕は順に


オーストリア(ウィーン)

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チェコ(プラハ)

   ↓

ドイツ(ベルリン、ブレーメン)

   ↓

オランダ(アムステルダム)

   ↓

ベルギー(アントウェルペンブリュッセル)

   ↓

フランス(パリ、リヨン)

   ↓

スペイン(バルセロナ)


と来て、明日にはマドリード、明後日にはポルトガルリスボンへと向かいます。


 日々思ったことは書き留めてあるのですが、単調さ、毎日場所を変える生活の中長い文章にできずにいます。目標の100投稿を前に、足踏み、歯がゆさもありますが、これらは1度置かせてもらって時間ができた時に改めて書かせていただきたいと思います。帰国後になるかもしれません。よって順序にも狂いが出て来てしまいますがお許しください。日曜日には飛行機でロンドン。1週間の滞在後、メキシコ→キューバ→南米。ここらに差し掛かれば、自然とまた書きたいことが溢れて来るのではないかと予想しています。


 その中でも素敵な経験をさせてもらう日常は続いています。治安も安定した地域ということもあって、気を緩ませながらその喜びと、少しの物足りなさを感じる日々です。クリムトの「接吻」、「フランダースの犬」でネロとパトラッシュが最後に前にしたルーベンスの絵画。ベルリンではホロコーストに関する展示。残されたベルリンの壁、絵の数々。つい昨日はサグラダファミリアを。そして日々、数えられないルームメイト。道行く人。世界中から集まって偶然出会えた人たちとの交流も続けています。枚挙に暇のないほどのないものを自分の経験に入れながら、記憶に残して。あのダヴィンチ「モナリザ」も僕の目の前にあったんです。膨大な感情に揺さぶられながら、揺れながら、毎日取り留めのないこと、一貫して自分の中で大事だと思うこと、いろんなことで頭はいっぱい。行き詰まって動かなくなるとふとしたものに頭の中を空っぽにさせてもらう。答えの出せないこともまだたくさんあります。残りの時間も、帰ってからも。割り切れないことは、明るさを添えて受け入れられるか。自分の調子がいい時にはできるこの心境を、どれだけ持続できるようになるか、なのかな。


 テロの危険のある今日この頃。髪も髭も伸ばし放題。大きなバックにフードを被った僕は怪しまれることも少なくなく、地下鉄に乗る際は止められてチェックが入ったりすることもありました。そんなこともあり、ある日ふと思って3ヶ月ぶりに髭を剃りました。野球をしていた頃の散髪で出る毛よりも長いものが洗面台に落ちていく。汚く伸びた無精髭は、なんだか自分の年齢を上げ、大人になったような気にさせてくれていたのですが、それを失った自分の顔を見て我ながらびっくりしました。自分のルックスはこんなに幼かったこと。むしろ以前よりも童顔であるように見えます。せっかく美しいものばかり観させてもらう毎日、その恩恵が身体に現れてほしい。違和感のある表現ですが、少しばかり綺麗になれたらなんて思うこともありました。もしかしたらそれが本当に起きているのかもしれません。読んだ方は帰国後の僕を見て「よくそんなこと言えたな」と突っ込んでもらっても構いません。一種フリでもありますので。


 隠すことなく疲労も相当溜まっているところがあって、たまにしんどいと思って電話をかけさせてもらったりもします。相手には迷わず、すぐに応答をもらいます。就活中にも関わらず申し訳ないけれど、気軽に連絡できる相手なんてたくさんはいません。話しているうちに、もう一度、その街に輝きを取り戻させてもらうこともあります。人の存在を強く求める。穏やかな日は、それに希望を見出せます。「なんだ、1人で大丈夫じゃないか」と思うことに怖さを感じます。僕はそれを必要としている。他人との関係をまた創っていきたいと思う。上手くできるかはわからないけれど。これまで近くにいてくれた人も、この月日に全くそのままということはありません。はじめて考えたこと、思い出した過去、遠いところで得た経験。それは僕も同じ。その中で再会に何を思うかなんて、何が起きるかなんて、想像はしてみるけれど当てにはできません。ただ出発から5ヶ月以上が経ち、もうすぐで半年。4ヶ月と何日という日から、5ヶ月になるには1日しか変わりませんが、急に重みが加わります。なんだか、なんだかんだ長くなった。自分の一つの基準で、これはもう長期だなと。未だに五体満足、無事でいられることへの感謝。アフリカにいた頃がどんどん遠ざかって、自然とではなく、努めた時にだけ思い出すことが増えています。一度そうすると当時の感情というのはまだ克明に残っていて安心する。


ドイツで、第2外国語として取ってたけど"ダンケ"しか言えない事実が自分の大学生活をよく表してると思ったり。先進国と呼ばれる西欧の国にいては、日本と同じく2次大戦を起点に新しく、21世紀には少しくたびれているように見えたり。フランスパンにハマって、さすがは本場。宿への帰り道、夕食にと一本。味見に一口、温かくて、思いの外おいしい。宿に着くまでに半分以上食べてしまって。これはさすがに行儀が悪いのかと思いきや、すれ違ったヒジャブを被ったおばさんの口がもぐもぐ。よく見ると2本持ったフランスパン、片方の上部がなくなっている。そんな微笑ましさに穏やかな気持ちになったり。移民問題が叫ばれるこの頃。大都市、いくら綺麗な場所でもゴミ箱を漁る人。路上に暮らす子供連れの家族や、犬を連れた人。いつまでも頭を下げたままコップを前に差し出し続ける人。隠すことのできない光景に、その前を通るだけ闇に入り込まれたり。あるいは目を背けたり。


 ひとつ最も残っている瞬間。ベタではありますが、深夜バスを待つために過ごした。ルーヴル、コンコルド広場。9時を過ぎてやってきた夕陽。広場にある凱旋門のちょうど間に見えた満月。少し経ってからの眩いくらいのまんまると一緒に見られた美術館は、再び自分を奮い起こして、送ってきた中であった得難い経験、場面と一緒に僕を満たしてくれました。こんなものが観られる人生です。幸せです。少しロマンチックが過ぎて、隣にいたお姉さんに求婚したいほどのテンションでした。2人でいれば、告白する、されるにこれだけ相応しい場面はない。誰でもイェスと言ってしまうでしょう。それでノーと言われれば、それこそ最高の語り草です。千の言葉でその場面を美しく描いてから「振られたんだよね」爆笑間違いありません。笑えれば。


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 そんなこんなでやっています。次の更新はいつになるか。今はバルセロナの港で海を目の前に、後々に回すことにも限界がきたので一旦線を引かせてもらいます。きっと書きます、何かが僕に書かせます。その時まで、グッドバイ。

いつもながら、癒しを求めて

 スロヴェニア。名前を聞いて、その場所がわかるでしょうか。リュブリャナ。この国の首都。僕は先生が、この音を口にするのを聞いたことがない、はずです。初耳だ、と思いました。イタリアの東。ビッグネームのチカラを借りれば、あの辺か、とわかってもらえるでしょう。僕もしっかり把握できていなかった小さな国。なんと人口な200万人ちょっと。横浜市大阪市名古屋市。これらの1都市の住人を下回る国。予想していたよりも早く、予想していた通りにやってきた都会疲れ。ハードなスケジュールの後遺症。人のいない野原を笑顔でスキップしたい衝動。ゆっくり動くものに囲まれて、それらの色を捉えることだけをしていたい願望。僕は救いを、この国に求めました。イタリアのミラノからバスで揺られ、まずは首都、先述のリュブリャナへ。


 「これがキャピタルなのか」というような穏やかな風景、雰囲気。バックパックを背に宿へ向かう間に、名所はほとんど見られてしまう。今の自分に、これほどもってこいな環境はありません。鳥のさえずる整備された川辺を歩き、弾んだ気持ちは僕を久しぶりの自炊へいざなった。とは言っても簡単なものがいい。体はお米を欲している。スロヴェニア語は一切読めませんが、パッケージからどう見ても炊き込みご飯だろうというような物を選んでカゴに入れる。まさにこういうものを欲していた。到着後、部屋ごとにキッチンのついたオープン間もないホステルで、早速調理に取り掛かる。お米の入った箱の中身を鍋に移す。溢れ出す、輝いて見えるような一粒一粒全てを見送って、気がついた。ただの米であること。パッケージは嘘八百、具材など何も入っていない。この商品は数種類並んでいて、表面の絵が違っていたことから、どれにしようか悩んだ末に、ただひたすらにお米。悲しい1人ツッコミ。翌朝には出発したため、一国の首都でありながら、これが残した1番の思い出です。同部屋だったカザフスタン人に、日本人だと伝えると「おおー、同じアジア人じゃん」と言われ、その圧倒的にヨーロッパなルックスにしっくりこず、アジアというのは広いものだと思わされる。なんてこともありました。


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 目的地がありました。ブレッド。有名な湖のある街。バスに揺られること1時間ほどで到着。早くも来て正解だったと思う。そしてこんなところにいて、宿で最初に話し、親しくなったのは日本人の女性でした。聞くと、同じように都会から逃避してきたみたい。ビッグシティへの愚痴に花を咲かせる。寒いのは難点ながら、早速湖の外周を回る。ぽっかり浮かぶ小さな島に、教会が建っている。この画はおとぎ話の世界、人の頭の中だけのものではなかったんだ。そして、古い映画の背景のように、堂々と動くことのない、雪をかぶったユリアンアルプスを背にして。絵画にしても贅沢な構図が目の前に。湖面はゆっくり揺れて、心もゆっくり漂う。人波から生還した週末に触れる自然は、いつも変わらず、誰かといれば今にも泳ぎたいほどの喜びと興奮を与えてくれます。1人でいる今は、自分には目視できないながらも、ひたすらに穏やかな笑顔をしているはず。湖のほとりにあるベンチに座って、理解はできない水の動きを見たりして、ぼんやりと。生まれてからそれなりの建物に囲まれていた。それなのにやはりこういう自然に囲まれたところにいると落ち着く、何か帰ってきたというような気持ちになります。それがどこから湧いてくるものなのか、どうもよくわかりません。


 旧ユーゴスラビアの一国、EUに加盟したのは2004年。他のユーゴ圏が自国通貨を使い続けているのに対し、スロヴェニアはユーロを導入しました。それによって物価は上昇、給料は停滞気味。旅行者の僕も、都会を離れた=物価安という恩恵はそれほど被らない。それでも店は十分にあって、必要なものには困らない。そしてどれも清潔に保たれている。一概に田舎と言っても、ヨーロッパの田舎というのは、僕にとって初めてのもの。それでいて木材を使用した電柱など、絶妙なバランスで僕を大いに安らかでいさせてくれる。食事はスーパーで買うパンと1日1回の外食、ケバブ。少ない人、静かな環境、豊かな自然。すっかり気に入り、4泊5日。これほどゆっくりできたのは体調的な原因もあったバラナシ以来です。


  2日目は歩いて4、5km、川へ。ここは近くでは有名な観光地になっていて、街を訪れた人は必ずいくところ。5ユーロの入場料。高千穂を連想するような、両側を石むき出しの壁に囲まれて、間を流れる川。水面から少し高いところに作られた通路を歩いていきます。チケットを買うにもほとんど並ばない。違うのは、こちらは流れが激しいところ、オフシーズンなのもあってかそれほど人もいないところ。春らしいが泳ぐにはまだ随分肌寒い。透明度が高く、柔らかなブルーに映る水の色を形容するのが難しい。イチゴにかけたシロップが、下に垂れていったように、覗くアルプスの雪は頭頂部には少なく、少し降りたところに集中している。どういう条件下でそれが起こるのか、知識はないのですが、雲ひとつない青空に、この日は見たことないくらいたくさんの飛行機雲が空を駆けていました。


 僕が到着した時から同部屋には、日本人女性。彼女は僕より2日早く到着し、1日早く去って行きました。間に日本への愛を片言に語ってくれる台湾人のおばさんが2泊。そして滞在中、もう1人。オランダ人のルーさんがずっと一緒でした。僕よりも一回り上の年齢に関わらず、これ以上ないほどフレンドリー、少年のような笑い方をするすてきな人でした。3日目「今日の予定は?」と問われ「何もないよ」と答えたところ、「それは最高だな。ハイキング、一緒に行くかい?」と誘ってもらう。せっかくの機会と快諾。彼の型の古く、車体の低いベンツの助手席に乗せてもらいドライブ。日本ではハンドルがあるはずのところに座っている違和感。久しぶりのことで、乗っているだけでも楽しい。EU加盟国間では、特別な手続きもなく来るまで国境を越えることができるらしい。最近では"Brexit"のニュースなど、瓦解の懸念も叫ばれる集合体ですが、その取り組みとしての先進性は実際にいて強く感じています。30分ほどで目的地。「ハイキング」というと、どういったものを想像しますか?僕としては、高尾山程度の高さ、ある程度整備された道。2、3時間で終わりを迎える。それがハイキング。この日、結局宿に帰ったのは出発から8時間ほどのち。休憩を挟みながら、往復7時間ほどの、完全に登山でした。道も険しく、木や石に等間隔で印されたマークを頼りに、何度か見失い引き返してはまた進む。ぬかるんでいるだけならまだしも、ところどころ喜んではいられない程の雪が積もっている。断崖絶壁、落ちたら終わるというような場所もある。まさか、あのフラットな会話からこんな急勾配を進むことになるとは思ってもいなかった。何度も転けそうになりながら、足を何かにぶつけながら。たどり着いた風景もまた、予想だにしていないものでした。一つの山の頂上にいて、見渡す限り360度のうち8割を占めるアルプスの山々は遥か彼方まで連なっている。返ってくるやまびこ。時折上空を通過する飛行機以外の人口音は一切謝絶された場所。日々溢れて止まない雑念はどこかへ、頭の中はその綺麗さだけで埋め尽くされる。旅の中でもハイライトの一つ。この先も忘れないであろう光景でした。この場でも、帰ってからもすてきな体験を与えてくれたルーさんに何度もお礼を言わせてもらいました。それは登山中にさせてもらった様々な会話に対しても。就職、結婚、日本との共通点も多いヨーロッパの現状、移民。実際にそこで暮らす人の話は、何よりもリアルに飲み込むことができる。晩はブレッド最終日の日本人女性も交えてビールに食事。それも含めて、なんといい1日であったことか。


 ブレッド4日目は少し散歩した程度。翌日から再開する、しばらく休憩もない激動への調整日。ただ休むことのできる幸せ。筋肉痛で動けない側面もありながら、今後の予定を詰め切る。そして覚悟を決める。ヨーロッパはあと1ヶ月、9カ国。大きな楽しみもありながら戦々恐々、頑張っていこう。ずっといてみれば退屈かもしれませんが、この時の僕の求めていたものにこれほど合致する場所もありませんでした。滞在したユースホステルも居心地抜群で、体力のチャージも、心も満タン。よく言ったものです。

規則正しい生活と感受性

 ヴェネチアの朝は遅い。数少ない開店しているカフェでコーヒーとクロワッサン、1日のはじまり。寝起きは脳が働くゴールデンタイム。お釣りが10ユーロ少なかったことにしっかり気がつく。肌寒い気温に対して、日向ぼっこの対抗策。広場のベンチに座って、他人の目覚め、アラームが鳴り響く音に耳をすませる。自分の1日の方が長いという得した気分になる。石畳が敷き詰められ、車の走らないこの街では、目を閉じても人の動きがわかる。人の多いところは同じ音しかしないと思う。9時近くになって、その音は少しずつ賑やかに。ヒールが進む音がよく響く。僕の前では黒いスヌードを巻いたような鳩が遊ぶ。綺麗なのか、汚れているのか。あまり特徴のない風景に視線を置いていたけれど、振り返ったり、上を向いたり。そこには自分を満足させてくれるものがあるかもしれない。


 出発直前に地図を見て、「水の都」本当に海の上にあるのだなという再確認。バスも橋を渡った入り口と言えるようなところまでしか入らず、街には車がありません。移動は水上タクシー、ゴンドラなどが一般的。このタクシーがもうハリウッド映画の主人公が乗りこなすような格好いいものばかりです。到着すると雨がポツリと降り始め、間も無く激しい雷雨に変わりました。最初は大丈夫だろうと進んでいた僕も、勢いを増す相手にお手上げ、雨宿りして傘を取り出す。4kmばかりの道のりのはずが、ここは迷路です。細い通りが入り組み、いくつかの島を掛かる橋によってなっているこの街は、行き止まり、一歩間違えれば遠回りと簡単にはいきません。休みながら、何度も引き返すようなこともありながら。イタリア語で道を尋ねられる。僕がそれを解すると思いますか?ただ、いい気分です。悪いことばかりではありません。これだけの観光地も雨のおかげで人のいない風景を満喫することができました。ずぶ濡れになりながら。翌日、晴れると簡単には前に進めないほどの人がいる。21時ごろにようやく到着。本土にある宿なら多少安いところもあったのですが、どうしても島に泊まりたくて、普段より奮発。他にどうしようもなくドミトリーながら一泊3000円ほどの宿でした。なので期待もする。この価格ならと。あっけなく裏切られ、ただ立地がいいというだけ。綺麗とは言えない、ありきたりのドミトリー。ここには2泊、いられるだけで嬉しく笑えてしまうような街シリーズの続きです。


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  翌日朝起きて、完璧な朝食への流れ。その時の心境をはじめに置きました。ここも歩いていける範囲に名所が固まっているから、移動を歩きだけで済ませられるのが嬉しい。ただまっすぐばかりは進めないのが、少しもどかしいところです。長いこと時間と距離の問題で、1日ひとつの名所をこなせば終わりな日々を過ごしていました。そんな生活はガラッとかわり、1日のうち、ひとつを終えれば次へ。そしてまた次へ。24時間には収まらないだけのものが徒歩可能距離にあり、多く入場料が必要。交通費の代わりに、これがかさみます。重要と思えるポイントにはとりあえず行ってみて、そこからひとつ、ふたつは中まで見学していくというのが今のスタイル。さすがはイタリアは、ここにもやはり美術館が充実していますが、今は満腹。しばらくは遠慮したい。まずは寺院のあるサン・マルコ広場へ。人の数に驚かされます。モザイク画の施された寺院は、シンボルとして強い存在感を放つ。美術館やレストラン、ショップが並び、限られた土地の中にヨーロッパ、イタリアらしさが凝縮されています。マスカレード、仮面舞踏会でも知られたヴェネチアでは、露店にもマスクが飾られていたり。ショーウィンドウの奥に並ぶガラス細工たちと、他にはない"らしさ"、"個性"を与えられています。悪ふざけで、被って驚かされた日には、トラウマになりそうです。やめましょう。


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 近頃は見た目なんか二の次で、スーパーの袋に食パンをいれ、それをバッグに掛けて移動しています。1日のうち一食はこれをお腹に入れる。安価なプルーンのジャムと一緒に。この日も人通りのある広場、名も知らぬ人間の銅像、土台に腰を掛けて昼食。22歳というのは、こんなことができるギリギリの年ではないかと思います。三十路になってからは、あまりのプアーさは心のうちに葛藤を起こしてしまいそう。そんな変なプライドがあります。誰が見ているわけではありませんが、今の僕には節約しているという事実は気持ちを軽くしてくれる効果もある。それに、極端なところまではせず、しっかり三食は食べさせてもらっています。景色を楽しめる街。運河を見下ろす橋の上から流れる風景なんかは、もう絵画の中に入り込んだようです。次なる目的地はサンタ・マリア・デル・サルーテ教会。ボートに乗ればすぐ、歩いていくと距離がある。白を基調とした建物に、大きなドーム。最近観てきたものとは違い、表面は文様などは施されていません。綺麗に維持されたいくつもの像に飾られています。ペストの流行が去り、マリアへの感謝を込めて1630年に建設。その外観だけでも十分に楽しめますが、内部は格別です。壁には絵画が飾られ、奥にはパイプオルガンが設置されていました。前にするのは、小学生の時に学校行事でいったコンサートが最後です。演奏される教会音楽。控えめに隅に座った僕の地面は、低い音が響くたび、ゆっくり揺れました。自分が無くなって、視界だけがそこにあるように。祈りたくなるような気持ちが湧き上がるのは、教会としては大成功でしょう。3曲ほどで後に、歩き出す足が軽くなっている。明らかに胸が空いている。音楽の力は偉大です。その発展には宗教の存在も少なからずある。絵画の発達にも少なからず。そう思うとその存在が社会の中で果たしてきた役割に感謝したくなります。一度頭を空にしてくれるような瞬間の後には、普段は考えないようなことがふと浮かぶ。例えどこにいても、いつも通りのことです。あらゆることを短い間でも頭の片隅にしまうことができれば、目の前にあるものをただ「ああ、綺麗だ」と思える。イタリアでは、この教会が1番強く残っています。名前は長くてすぐ忘れるだろうけど、そこにいたことはきっと忘れない。


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 全てを見尽くすことはできません。選ぶのは自分です。帰国後にテレビで行った国の特集をしていて、訪れなかった素敵なところが映し出されたら、どう思うかなんて。分かりっこない。それでも「しょうがなかった」と想えるように行動しているつもりです。度の過ぎない諦念と、足るを知ること。これがけっこう大事だって、前から思ってはいるのですが、何か上手いこと、そのトレーニングでもしているような体を今の状況にこじつけます。この思考は己の定まっていないことの結晶のように映るのですが、歳をとったら変わるのかな。パッと割り切ることができる、せめてそんな風を装えるようになればいいなと。夕陽、海、ヨーロッパらしい街を同じ視界に入れることができる贅沢な場所。海のあるところはしばらくお別れです。


 こうしてイタリア3都市目を翌日のバスで後にします。次なるミラノにはたった一泊。睡眠時間も含めて、24時間ほどの滞在。フィレンツェと同じく、ドゥオーモと呼ばれる建物がありました。こちらもかなり壮大な建造物。そして近くにはディズニーランドの入り口から進んだところにあるワールドバザール。そのモデルになったという通りに行って来ました。やっぱりなんでもモデルが存在するんだなと。オシャレの発信地でもあり、好みの服を着こなす人に羨望と、帰国後へのヒントをもらいながら歩きます。短いながらも、できる限り歩き回って、代表的な建物は観たのですが、どうも4都市目、感動の減少が避けがたい。来たからにはそれを観なければならないというのが強すぎて、半ば作業のようになってしまったことも正直に告白します。アジアではあれだけ受けた勧誘も、周りが綺麗な身なりをしたヨーロッパでは、僕はほとんどスルーされます。楽だけど、悔しさもある。髭も剃らずに2ヶ月近く、上下デニムの僕。旅をしている雰囲気はピークに達しているはずです。そんな中で久しぶりに声をかけられたのが嬉しくて、たまにはとレストラン。ミラノに来たからにはと、リゾットミラネーゼをいただきました。イタリア最後の夜は、形を変えて食で満足を得られました。食べ物の最後の一口ってはかないですよね。その値段が高ければ高いほど。さっきまではっきりあったものが、もうなくなってしまった。


 こうして僕のタイトなイタリア旅行は終了しました。本当に1週間しか経っていないのかというような、行っても行っても歴史、規模共に大きなものに出くわす。ミラノをおまけのように書いたしまったことから、僕の感受性が追いつかない怒涛の日々であったことがわかってもらえたらと思います。イタリアは想像していた以上に、その斜め上を行くだけのものがあって充実と疲労。ヨーロッパの真髄を見せられた格好になりました。しかし心底楽しむには、バランスが肝心。都会の連続が、自分に向いていないことを早くも察知した僕は、スイスのチューリッヒに行く予定をスロヴェニアに切り替えました。次は首都でものんびりした雰囲気を醸し出すこの国、自然に囲まれて過ごした日々について。