Do you have a weapon?

イスラエルからの帰路は平穏に。出国場に入る前、IDチェックのためにバスに乗ってきた金髪美女のお姉さんに言われた一言。「いや、持ってないです」ただ非日常、人生で初めてもらった質問に、それも綺麗な人からという状況が笑えて。「はい、ここにマグナムが」でも相手は軍人なので、結局ボケる勇気も湧かずに通過。ヨルダン側からのバスが1時間ほど待ってやっときた以外はストレスもありませんでした。心配していた、押されると中東他国への入場が難しくなるというイスラエルスタンプも、出入国とも別紙にもらうことができました。緊張のキングフセイン橋、往復の完了。そして5日ぶりのヨルダンに帰国。前に宿泊していた場所から少し離れたところにある別の宿に。受付を済まし、1つ上の階のドミトリーの扉を開いて「あ、こんにちは」日本人、同い年で同名の方と出会い、ここからベトナムへのフライトまでの3日間、アンマン暮らし再開。イスラエルに行くまでの滞在は体調不良により、ほとんど観光もできなかった。少しレストランの知識あるばかり。この新しくできた友人のおかげで、アンマンでの日々は一気にスピードを上げて。いつもは原付ぐらいの速さで送られる生活が、引っ張られるように特急に乗って進む。


9日の昼ごろアンマン到着。10日は1日フリー。11日の夜には空港という中で、初日は夕方から近くにあるローマ劇場、アンマン城。2日目は朝からケーキを食べ、人気のシュオルマの店に行き、そこから有名なモスク、昨日閉まっていたアンマン城へのリベンジ。最終日は朝からバスに乗って死海へ。1人ではありえなかった日々を、充実感と共に過ごしました。ヨルダンでやるべきことは、ほとんど済ませた自負があります。特に存在はハッキリと知りながら、まさか自分が死海に浮かぶなんて考えてもいなかった僕は、このもう1人のゆうたへの感謝が尽きないのでした。


ローマは威厳を示すためなのか、今まで見てきたその大国の痕跡はいつも辺鄙なところにあります。ペトラにしても、このアンマンのシアターや高台にある神殿跡も。そんなことのために、多くの奴隷が酷使されたかと思うと気の毒でなりません。ジャバル・エル・カラと呼ばれる神殿から見る景色はとてもいいもので、近所にあったら入場料3JOD払ってでもしょっちゅう来てしまいそう。没個性の建物が並び、自分のいる街がとても小さなものに感じますが、ここから見るとさすがに首都は広い。登ったり下ったりの地形に、無数の家々がぎっしり敷き詰められています。そして個性を放つ、いくつかのモスクが頭をのぞかせる。


まさか自分が死海に浮かぶことになるなんて。1人でいき、浮いていることに喜ぶのは寂しすぎるので、名所の一つでありながら行こうと思うことはありませんでした。それに寒そうだし。それも2人となっては心境も変わる。ヨルダン最終日は、朝からホステルを出て歩いてバス停へ。途中朝ごはんをほうばりながら。こちらのバスは時刻というよりは、定員に達したら出発。ラーマというところで降り、スイス人、インド人と割り勘でタクシーに乗る。片道1.8JOD(約300円)で行くことができました。ヨルダンはコンパクトで移動しやすいのも長所の一つです。海パンなんて持っていないのでパンツ一丁になって入水。塩分濃度が高すぎて生き物が住めない死海、思った以上に体は簡単に浮かびます。これが結構楽しくて、22歳2人軽くはしゃぎました。ただ体の力を抜けば簡単に並みになったような気分を味わえる。泳げない、でも人生で1度くらい泳いでみたいという方は今すぐこの場所へ。10分もせずに満足できます。2JODで小屋から伸ばされたホースを伝ったジョウロ程度の勢いの水で行水。死海の水は晴れ間の中、心地よいくらいでしたが、これが寒かった。おっちょこちょいは替えを忘れ、帰りはフルチンでアンマンに戻る。楽しもうという気持ち次第で、いくらでも機会はやってくる。


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これほど現地の食事を堪能することもなかったと思います。肉を何かで巻くのが基本の基本。シュオルマは計7日ほどの滞在で10回は食べたと思います。基本的にはどれもテイクアウト。そうすると少し安くなって、ホテルで食べることがほとんどでした。うまさ以上に安さから。そしてフレッシュジュースにはまりました。これも後半は毎日飲んで、きっと知ったら恐ろしい砂糖が潜んでいるのでしょうが、栄養もあると信じて。歩けばいくらでも見つかる、ヨルダンの定番です。種類も豊富で飽きません。スイカ、メロン、カキなんかもあります。柿は英語でもカキなんですね、驚きました。このクォリティ、日本にあっても必ず人気を集めると思います。きっと価格は倍以上するんでしょうが。


この間滞在したのは、マンスールホテル。前記のクリフホテルで日本人にイラク行きのチケットを手配した方が彼を偲び、オープンした通称コーダホテル。南京虫が出るとの噂もあってか、僕たち以外はほとんど客がいないようでした。もう心配になるくらい。朝ごはんもなく、綺麗なところではありませんが、価格からしてそんなことは期待していないから。一部屋にコンセントが1個しかなかったのはちょっと不便でしたが。シャワーのお湯でたら、他には何もいらない。虫に襲われることもなく滞在を終えました。


日本人の方といると、なかなかブログを書けない。思ったことを、しっかり伝えられる相手がいる期間はそれだけですっきりしてしまいます。きっと普段は人に伝えられない想いのはけ口をこのブログが担ってくれているのだと思います。書くことも好きだけど、やっぱり直接伝えられるというのはいいものですね。


そして京都出身の連れのおかで、まさかのヨルダンで関西弁をもらうという。たぶんしばらく抜けないと思います。これから飛行機に乗って、ベトナムへ。実は毎年行っているこの国は、これで3回目になります。歩いたことある道を歩く、こんなことが今はすごく楽しみです。エジプトからのアラブ世界と、イスラエルで過ごした日々。心配をよそに危険な目にあうこともなく、アフリカと比べれば目に見えて発展している。独自の文化を持ち、身近にイスラームを感じる毎日でした。それでも何かがガラッと変わるわけではありません。人間の暮らしは違いよりも共通点の方がたくさんある。周辺には現在入国の叶わない国もあります。それらの国々が抱える問題が解決されていき、安心してこの地域が持つ魅力を楽しめる日がくることを願います。僕が訪れた国々は、場所を選べば心配いりません。観光資源にも溢れています。アフガニスタン、シリア、イラクなどなど。いつかその地を踏むことができればいいなあと。この地を、この時代に歩いたこと。これからの情勢は、それにどんな意味を持たせてくれるでしょうか。


マッサラーマ、アラブ世界

マッサラーマ、中東


まだ足りない心持ち。

あなたの夜空は何色ですか?

「東京の夜空は黒くない」カイロで出会った佐賀から上京したという女性が言っていたのを思い出しました。言われた時に少しはっとして、改めて東京の夜空を思ってみた。消えないあかりに照らされて、本当の色はわからない。それが僕たちの暮らす街、東京。ずっとそこで育った人には、低いところはいつでも白んでいる夜空が当たり前の光景。幸か不幸か、アフリカではそれを原色に近い色で見ることが日常でした。本当に綺麗な空は星が強く輝き、高いところほど白んでいる。気温、大気汚染、様々なものに左右されて、その色は数えきれるものではないのかもしれません。同じ空の下とは言えど、やっぱり違う空の下。ここで見えるのは、見慣れた色、黒くない空。近い感覚で並ぶ街灯、信号、立ち並ぶ近代的な建物の群れ。街灯や街路樹はその国の状況をよく教えてくれる。旅の中で1番栄えている街。エルサレムの新市街を歩いて、日が暮れた空を眺めた時に思ったこと。


自然。自然体。等身大。ケニアを離れて後、僕は人の作り出したものばかりを前にしています。朝からバスに乗ってパレスチナへ。ヨルダン川西岸地区。世界史ではおなじみの名前です。そこに位置する街の一つ、ベツレヘムに行ってきました。宿からすぐのところに出ている市バスに乗ったら、1時間も経たずに到着。途中にパスポートを確認されるようなボーダーはありませんでした。日本は国家として承認していませんが、世界の130以上の国がそれを認めているらしい。中東戦争で領土の変遷を経た両国。その原因を作った当事者と言っていいイギリスに、今さら呆れを覚えたりしながら。終点、普通の道路に降ろされるなり待ち構えているタクシー。ただ見たいものを周るには、これを使うほかないようです。さっそく価格交渉に入るわけですが、正解はわからない。ラテン教会に行き、バンクシーの絵を周るプラン。モスクと比べて、教会というのは画や像に溢れていて、よっぽど腕のある画家によって描かれたもの以外は神聖さを損ねているような。建物以外に何もなく、ひとえに心で祈りを込めるモスクの方が個人的には好意を感じます。壁という壁にごちゃごちゃと絵で埋め尽くされた教会を慎ましい気持ちよりも、その派手さを楽しむつもりで行きました。最初は自分以外誰もいなかったのをいいことに隅々まで。左右には青と赤のステンドグラスがあってそれなりに綺麗なところでした。途中からは中国人の団体御一行がいらっしゃったので、それに紛れるようなことをして。起源は知りませんが、ここのところ数千年の歴史を持つものばかりと対峙していたので、比べて気楽に見られたのがよかった。あまりにスケールの大きいものは、感受性を激しく揺さぶられ、感動はすれど著しく体力を消耗させられます。焼肉と寿司ばかりが続くのも考えものです。たまには、いや普段は富士そばくらいがちょうどいい。これは教会に失礼か。素敵なところでした。


それからイギリスの芸術家バンクシーの作品を見てまわりました。彼のことは授業で知っていたので、なんとも偶然。この街にとっては大切な観光資源として定着しているようです。こちらがお願いする前に、運転手が提案してくるぐらい。思っていた以上に彼の作品群は世界的に人気を得ているようでした。ゲリラ的に、時には無許可で残され落書きとも言えるものが人を呼ぶというのは皮肉にもとれます。4箇所周ったなかで印象に残ったのは「花束を投げる人」。顔を隠した男が爆弾を投げるところを、代わりに花束を持たせている絵です。この秀でたブラックユーモアのセンス、緊迫感のある場面を丸く包み込める能力が、彼をこれだけ有名にしたのでしょう。ただ深刻なもの以上に、そこに笑いを交えて伝えることができればメッセージはより先鋭に響くことをよく教えてくれます。イスラエルが一方的に建築した高い壁には彼の絵をはじめ、200mぐらいに渡って様々な人により隙間なくアートが残されています。しょうもない落書きのようなものがほとんどですが、中には思わずシャッターを押したくなるようなものもありました。そんな壁の存在がありながらも、現在この地域は1人で歩いても緊迫感などは感じない穏やかな時間が流れているように見えました。パレスチナ側のドライバーはどんな気持ちでこの壁を案内しているのでしょうか。お金になる壁ぐらいにしか思っていない節はありますが。


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執拗な他の場所への勧誘を断って、降り立った場所に戻る。そこから歩いてキリストの生まれたという教会に。20分ほどの道中、中心部への町並みは旧市街と同じように石造りの細い道が続きました。パレスチナの地区に記念すべき場所をとられ、悔しい思いをしている人間がいるのも容易に想像できます。入ってみると聖墳墓教会と同じく改修工事をしていて、なんだかキリスト教には縁がないようです。感動はしませんでした。根っから信じられることではなく、信者でもないので。それなら行かなければいいではないかと思われるかもしれませんが、見ることで満足なんです。その地点に明確な像を持ってたことが、僕にはとても嬉しい。教徒にとっての重みは理解しているつもりです。


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この地区の様子を目に留めながら、バス停に向かいパレスチナを後にしました。本当に味見したくらいです。帰り道は途中でバスが止まり、旅行者以外は降りて身分確認が行われていました。イスラエルからは出ることは自由でも、入ることには厳しく、そう言ったところでしょうか。おそらくそこが国境ということになっていたのだと思います。風景が変わるようなことは全くありません。強いていうならイスラエル側の方が建物がぎっしりとあるくらい。売っているもの、営まれている生活も一見何も変わらない。通貨もイスラエルのものを使う。こんなものかと少し拍子抜けしました。関係が悪くないことは何よりのことですが、明確な差があることを期待している自分がいた。ユダヤ人の国と言いながらムスリムもたくさんいるイスラエルヘブライ語アラビア語公用語としています。看板も親切にこの2つに英語も加え、3カ国語で表記があることがほとんどです。先日訪れた聖地の存在もあるでしょうが、とてもグローバルに開けている印象を受け、イメージとの誤差をよく埋めることのできる滞在でした。急ぎ足ではありますが、再びヨルダンに戻ります。


ここのところ人間の手による遺跡をたくさん見てきました。それらは時に、人間の存在を、そして自分の存在をも大きくしてくれるような気持ちを抱かせることもあります。これは自惚れであり、人類への誇りのようなもの。あまり先が続きません。その背景、歴史を思うと、恐ろしいような醜さも姿を現します。改めて気持ちを整えて、空など見ていると落ち着ける場所は他のところにある。自然。人工物はそれと並べるととても小さいものです。そして人間もそこから生み出されたことを思う時、人間の生み出したものもまた、そこに帰結するのではないでしょうか。そんな気持ちで今日は街を人の流れを見下ろしていたら、なんだかとても穏やかな気持ちになりました。それはアリの巣を上から眺めるのとさして変わらない。普段は上から目線で注ぐ落ち葉も、人が長く悩んでばかりいるのを憐れんでいるように思えて。対等に切り離そうとすることをやめて、大きな自然の中、その一部として自分も一緒に包み込まれていることを感じる。大きな安心感がそこにあります。自分の存在は矮小でいて輝く。そしてその矮小さを肯定的に捉えられる時、僕は一番気持ちがいい。


アフリカで自分が見た自然の中には、道路や線路が必ずありました。それでも壮大に思えるのですが、より大きく感じられる場所。行くのは困難でも、地球上には、その外にもたくさんあるんだと思います。行ってみたいけど、それ以上に恐れも膨らみます。そして難しい。宗教との距離が近かったこの数日間、神様のことを考えはじめると、視点を人間だけにとどめることは大きな間違いな気がした水曜日。


たくさんのものを自分の眼で、同時に自由に考えられる時間がある。こうしていられることが、改めてありがたく思われます。感謝です。

壁に囲まれた特別な空間で

畳。恋しくなりました。代わりになるようなものも思いつかないので、これは帰ったら大いに満喫するしかありません。いざそこに座ったらきっと行為に主眼が置かれて、床の材質なんてすぐに忘れそうです。それでもこんな状況にいると、畳の匂いを何時間も嗅いでいたいような錯覚に陥ります。そんなことは絶対にすることがないのに。よく考えると日本にいてもその上で過ごす時間はすごく限られたものだったので、結局母国が全体的に恋しいんだと思います。エルサレム旧市街の中、全てが石とコンクリートの中で生活していると、木造の建物やその温もりを感じたくなる。確かにこれなら冷たい外気はほとんど入ってきませんが、触ると冷たい壁というのは日本人の心が家に求める大切な要素が欠陥している、海外でファストフードに転落した寿司と呼びたくない寿司を前にしているような気分です。コンクリートに溢れた社会の中でも、家に木の存在を求めるジャパニーズは、古くから心の中で築かれ、刻めれてきた愛着があるのでしょう。訪れてきた地域柄、あれほど青々と広がる山脈は目にすることがない。石を求めようが、まずその上に緑があるから、わりと合理的に木造の文化は生まれたのかもしれません。材質上、ここで見るもののように長く姿を留めないことは残念ですが、それを風流ととる精神は再考すると2017年現在も脈々と生き続けています。少なくとも僕の中には。


地理を把握していなかった昨日から、朝散策のために調べて気がつきました。玄関を出て左に10秒行くと、そこは岩のドームの広場でした。信徒しかこの入り口からは入場できませんが、ここのオーナーはムスリムなので、イスラーム教第3の聖地にこれだけ近いのところに家を構えているのはすごいことではないでしょうか。それにしては熱心な様子は見受けられませんが。いつでも簡単に入れる嘆きの壁聖墳墓教会と比べ、異教徒と無宗教者は1日に2回、入場できる時間が限られているので、これを中心に予定を立てました。


まずは嘆きの壁へ。ここへも徒歩3分で到着。なんて優れたロケーション。ユダヤ人の王ヘロデがこの地を治めていた時の城。現在残されているのはその西側にあった城壁のみ。英語では「西の壁」と書かれていることが一般的です。荷物検査はあるものの、入場料はかかりません。開けた広場に入ると左側に壁が立っています。これはまさになんの変哲も無い壁です。真ん中で区切られ、左は男性、右は女性となっていました。とても厳粛な雰囲気を想像していましたが、観光客が大勢その前で写真を撮ったり、区切りを挟んで男女がたわむれていたり、聖地と言えどもこんな感じなのかと少しがっかりしました。それでも白シャツに帽子から靴まで黒に揃え、豊かな髭を蓄えたイメージどうりのユダヤ教徒が啓典を読みながら、壁を触り祈りを捧げています。その横でポーズを決める観光客3世代の家族。聖地をよくもこうオープンにできるなと、寛容さに感心します。置いてある白く小さい帽子のようなものを頭に乗せれば誰でも自由に触ることができる。今の髪では、被っても感覚がないので落としていないか頻繁に確認しながら。形はわかりませんが、両手を壁につけてみる。その冷たさからか、その間頭の中がすっとする感覚がありました。あるいは何か力が宿っているのか。これまで想像もつかない数の人間が触れ、祈りを捧げてたことを思えば、特別な力のようなものを帯びても不思議ではないと思います。少なくともそのことを知る僕の頭、知識は少し特殊な反応をさせました。それが正しいのかわかりませんが、すっきりした感覚が残る。それで終わりです。


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キリスト教地区に向かうと岩のドーム開放時間に間に合わない可能性があったので、一旦宿で休憩して、12時半の開場時間の30分前からゲートに並びました。すでに30人ほど並んでいて、あとからあとから人がやってきました。これも嘆きの広場のすぐ近くにあります。午後はこの1時間の1回だけなのでたくさんの人で列ができます。横を何かの伝統装束をまとった人々が楽器に合わせて歌いながら何度も通過して行くのを見ていたら時間になってゲートが開き、ここでも手荷物検査。中身を開けらる徹底ぶり。直前にもらった嘆きの壁のパンフレットを無言で没収されました。別に欲しくてもらったものではなかったのでありがたいくらいでしたが、なんだか排他的で小心に映ってしまう。ムスリム以外、ドームの内部には入れず、岩自体は見ることができません。それでも金の屋根を持ち、細かい装飾、白い石の床、青と白を基調とした建物は空の青と相まってとても綺麗です。文様フェチの僕は、複雑さの中に規則性のあるイスラーム文様、建物自体に均整が取れていて、他のモスクも同様に好きです。いくらでも見ていられる。アラビア語は壁に並ぶとすでに文様の役割も果たすので、意味はわかりませんが芸術性に優れた言語であると思います。汚れなどは目立たず、今のタイルはスレイマン1世により500年前に貼られたものにしては、驚くほどきれいに保たれています。カップルが腕を組むと注意されるあたりはさすがイスラーム教。僕も片膝をついていいアングルを探していると怒られました。今度は立ってそれをじっくり眺めていると「祈るな」と再び怒られる。祈ってない、祈ってない。僕は神にすがるような顔をしていたのでしょうか。


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そこから1度旧市街を出て、ライオン門から入り直し、イエスが十字架を背負って歩いたと言われる苦難の道を辿って教会を目指しました。これがただまっすぐにというわけではないので、途中で間違えて引き返したりしながら。道に並ぶ店も、泊まっているイスラームのエリアとは全く異なるから面白い。その界は明確にわかりません。ライオン門までの道でオリーブ山を眺めたり、自分が歩いている道、聖書の中にいるような気持ちでした。新約聖書、舞台設定はかなり現実的だったんですね。そして聖墳墓教会に到着。外観は古さばかりが伝わる、派手なものではありません。内部は肝心なところが工事中で残念でしたが、地下から2階まで古いものから、多少新しいものまで壁画や像などイエスを崇めたものがいくつもありました。今の世界が形作られる、その契機をもたらした1人の人間が一度は眠り、復活した場所。クリスチャンの人々は一様に真剣に、とても大切なものを前にしている表情が印象的でした。そもそも死後300年経って建てられ、破壊される目にもあっているこの場所は、1つでももし本当のことであればそれだけですごいと思います。昔のことはわからないからクリスチャンではない僕には、おとぎ話の中にいるような気分でした。


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世界中の人が来ることを望む場所。3つの宗教にとってそれぞれ大きな意味を持つものが、こんなに近い距離、1つの壁の中で。こんな空間は2つとない、興味深い場所です。啓典の民として、同じ神様を信仰する彼ら。先行きの不透明なこのご時世にお互い上手に共存できることを示してくれてる街でもあるかもしれません。その重みから、周り終わったのは15時ごろでしたが頭がいっぱいになっていました。1度は博物館に行こうと思いましたが、16時閉館だったので後日に延期。そんな旧市街散策、この3つの場所を横一列に並べて見ることができる人は、世界にはそんなに多くないのかもしれません。宿に帰って明日からの宿泊先と日程を決める。今度は旧市街の壁を出て、新市街などを探索していきたいと思います。


物価の高いエルサレムにあって、朝食は宿が出してくれるからありがたいものの、他の食事に困ります。それでも探せばそれなりに安いものもあって、昼はファラフェルサンド約180円、夜はカップ麺150円、風呂上がりにクッキーとスプライトで180円。大切なのは高い国で多少の出費をしても気にならないくらいに、物価の安い国でそれを理由に欲張らないことかもしれません。とりあえずベトナムに行ったら埋め合わせるように食べたいと思います。ホーチミンではラーメンブームらしく、美味しそうな店はバッチリ地図に地点登録してあります。今はしばしの辛抱する期間。空腹と闘う夜がある。

この頭痛は、きっと歴史のせいだ

イスラエルエルサレムにやってきました。たまのアラームを今日はしっかりセットして、7時発のバスに遅れないようにタクシーへ。当日で10JODのチケットを購入、近くでパンとコーヒーを買って乗車。ヨルダンのコーヒーは生姜が効いていて、温まるのか、冷えるのかよくわかりません。それに挽いた豆が下に沈殿しているので、最後の方は飲むのが難しくなる。これは今までいった国に共通して、速度を守らせるために頻繁に道路にボコが作られています。ここには特に頻繁に設けられていて、紙コップのコーヒーは持っているのも大変でした。日本にもありますが、そんなに多くはないように思います。運転モラルもきっと日本はトップクラス。ヨルダンの運転は本当にひどいもので、ウィンカーも使わないのでもうないのと一緒、せっかくの綺麗に引かれた車線も守られない。それでいてサイドミラーをすら見ないようなこともあって、何度もヒヤヒヤさせられます。「左側にいくけど、ぶつかってくるなよ。目くらい着いてんだろ。」とでも言わんばかりにドライバーは道路を蛇行で進み、事故直前といった状況は茶飯事です。こういうことって変わらないのかな。


地図を見ていただければヨルダンイスラエルも大きな国ではなく、縦長で横に並んでいる両国。ボーダーのキングフセイン着くまでも1時間とかかりませんでした。わかりにくさはあったものの、無事にヨルダンの出国審査を済ませ、再びバスに乗って向かうわ「世界一めんどくさい」と言われるイスラエルの入国審査。建物自体はさすがに綺麗なところでしたが、テーマパークの入り口のように長い列ができている。セクションはトータル4つ、軽い確認と荷物を預ける作業。同じように簡単な確認を済ませ、空港のようなゲートをくぐる。この最初の3つで引っかかるようなことは、よっぽどの事情がない限りないと思います。そして最後に立ちはだかる難関、厳格な入国審査。4列ほどに別れて並び、自分のところは笑顔の素敵で優しそうなおばさん。これは意図的に選びました。他はどうも聞き分けの悪そうな顔をしていたので。見ていると何分も質問を繰り返され、なかなか通してもらえない人々。中には待っていろと言われて引き返す人の姿もありました。いざ自分の番になって、緊張しながらも出来る限り印象のいいように接客時のような笑顔を。準備もしっかりしてあって、質問にも難なく答える「これはいける」と思った矢先、言われたのは「問題ないけど、ちょっと待ってて」スムーズな入国は失敗しました。


時間は他の人よりもかなり短く、疑われるようなこともなかったのに、どうして。それでもちょっとという言葉を信じて待つ他ない、結局2時間ほどかかりました。実は僕の2人前の方も日本人で英語が通じず待機を喰らっていました。待った果てににスタッフと話して感じたのは、どうやらその人の同行者と思われ一緒に待たせるとなったみたいです。入念な追加質問も僕だけがされ、大丈夫とわかるともう1人の日本人の方は何を聞かれることもなく追加。待ち時間は日本語も話せたので、そう苦もなく、親切に無料Wi-Fiも飛んでいました。数人、別室に連れていかれているのも目撃していたので、比べればだいぶマシ。バスから同じで仲良くなったブロンドの綺麗なお姉さんも連れていかれて、再会を果たすことができませんでした。お互い越えた喜びのハグなんて、まあないか。朝早く出ていたので、これだけ待っても終わった頃はまだ昼でした。すでに夕方の疲労感。


イスラエルに入国。アンマンから少し移動しただけですが、この国はただそこにいるという事実だけで、特別な気持ちを覚えました。僕の中で、世界でも特殊で膨大な事象を抱えている国だというイメージを持っていたからだと思います。「イスラエルに来たんだな」、そんな簡単な事実から、人生で最も抽象的な感動を味わう。10人の定員に達し次第発車という乗合タクシー、1300円ほどでエルサレムへ。街並みとともに、売られているものもアラブ世界より数段質の高さが感じ取られます。それと併行して、物価、笑えません。昨日までは100円もかからなかった2lの水も300円。マルボロは1000円します。人種と宗教が混在し、他に類をみない独自の空間、世界遺産、旧市街。壁に覆われたそう広くはない敷地には、嘆きの壁聖墳墓教会、岩のドームといった今の世界を創り上げてきたものがひしめき合っています。この歴史を語れば錚々たる歴史上の人物たちが、次から次へと登場してくる。ダマスカス門から入り迷路のような街の中、隙間なく並べられた石畳。初めて生で見る敬虔なユダヤ教徒とその装束。一歩足を踏み入れると、外の世界とは全く雰囲気を変え、その一部となったように。呼吸が浅くなるような、神聖さを感じずにはいられません。


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今日はその壁の中にあるホステルに泊まっています。ザンジバルのストーンタウン同様、遺産の中で行われる寝食。世界中のたくさんの人が崇める場所のすぐそばにいるんです。そんなホステルは2段ベッドが6台の12人部屋。男女共用の空間で、僕のベッドの前には水色のパンティが落ちている。非日常こそが旅の醍醐味です。出発当初はざらにあったこんな光景もなんだか久しぶりです。当時の慣れもどこかにいってしまったみたいで、少し落ち着かない。これだけ広い部屋に泊まってのは、ザンビアのビクトリアの滝以来だと記憶してます。そこから年末にかけてはバックパッカーが減るのか、1人でドミトリーを使うようなこともありました。ケニアでのホームステイから、また速度を増したエジプト、ヨルダンと多くて5人。アラブ圏では性別ごとに分かれているのが基本だったので、こんなところにも文化が現れるみたいです。


1日で回りきれるか、足が棒になるまで歩いてこようと思います。とりあえずどこかで地図を調達しなけりゃ、絶対に迷子になるから。世界遺産で迷子って、まあそれだけでも十分だけど。

オンザルーフ 〜日向ぼっこ〜

たとえ離れたところにいても、激しい雨に打たれていることを知れば、どうにか僕の傘を届けたいと思えるそんな人。力いっぱいに投げたその傘は、手にとる頃にはきっとボロボロで。嵐の中で使うには小さすぎるかも知れませんが、よかったら使ってください。冷えて体調を崩さなければいいなと願いながら、そうなったら今度は薬でも送ります。ただの親切ではありません。かつて君がしてくれたこと。お礼なんてもらわないくらいがちょうどいいので。まだ繋がっていることがわかったから、それだけでうれしいんです。


聴いている音楽で、趣を変える風景。高いところを群れて飛ぶ鳥たちは、それに合わせて幸福も悲哀も帯びる。道行く人とて同じこと。うれしい時は楽しそう。かなしい時は暗んでいる。そんな移ろいやすいものだから、あんまり気にかけることもない。気にかけたって悪いことじゃない。


道にまよった時に、たずねる勇気も大切だけど。少しずつまわりに人はいなくなって、助けをこえないこともある。泣きたくなったら泣いてもいいから、あきたら1つ選んでください。楽そうなもの、苦しそうなもの、短そうなもの、長そうなもの、下り坂、上り坂。たとえどれをいくにしても、自分で選んだことが大切で。力まなくたっていい、ひき返すこともできるから。それでも前にすすんだ時間は長いほうがいい。ほら見えてきたでしょ、君の周りにはまたこんなにたくさんの人がいる。


色は無限にあるんだから、どんな色になりたいか。悩みながらさがして、まちがったと思ったら白い絵の具をとればいい。寒色、暖色、なんどもためして。ほら、君によくにあう色がみつかった。自分の姿は捉えづらいかもしれないけれど、僕の目にはとても素敵に映ってる。


信じなくたっていいけれど、僕はもうウソはつきたくない。それに、誰にだってこう一生懸命になるわけじゃない。もっとうまく教えられたらいいって思うんだ。もっともっと。でもまだ僕にもわからないことばっかりだよ。ここからは一緒に考えよう。そして君は僕にも教えてくれるんだ。気づいてないかもしれないね。いい景色を君とみられたらいい。みられなくても、ありがとう。選ぶことの難しさは僕にもわかる。


君がいなくなったら、僕も自分の色をみつめなおす。変えようか、変えないか。こんなにたいへんなことをしていたんだね。そしてまた、わかれ道だ。ただ意識さえお互いもち続けられれば、離れていることはあまり関係ないみたい。

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僕は当時4年生。世界情勢なんて理解できなかったその頃に、あったことは漠然と、亡くなった方の名前や経緯をはっきり覚えていてはいませんでした。2004年、イラク日本人青年殺害事件。アンマンからバグダードへ向かいアルカイーダに捕らえられ、処刑された24歳男性。彼がヨルダンで滞在していたのは、僕が滞在しているクリフホテルでした。10年以上前の事件に今更発言することは行き場のないことなのですが、今はそんなところに立っています。自分もいつしか近い歳になって同じ場所、彼も見た街並みを眺めて。頭の中で起こった変化を真似てみることはできるけど、僕はその国に平和が訪れて、その地を穏やかに踏む日がくることを望み、待ちます。

 

体調も落ち着いたので、イスラエルに行こうと思います。入国審査が大変と有名で、緊張感もありながら、旅中出会った人たちは難なく通過できたようなので、そんなに心配しなくてもいいのかな。アンマンにはまた戻ってくる予定です。12日にアンマン発の飛行機を予約してあるので。この街は宿にいるばかりでほとんど歩けていないのですが、戻ってからも時間があるので、その時にまた見られたらと思っています。


イスラエルと言うと、またいいイメージばかりを持たれないかも知れませんが、現在はしっかりしていれば心配するようなことは全然ないので。街中に銃を持った人がたくさんいると聞きましたが、銃口の前でふざけられるほど肝は座っていません。安心してください。古く、そして複雑な歴史を持つ地域で、見たものを届けられたらと思います。


他の誰も知らないものを失った人は何も失っていない

エジプトで知り合った人がFacebookに書いていたアラビア語はたぶんこんな感じの意味で。いい言葉だと思ったのでタイトルに。下手をこきました。ペトラからアンマンに向かうバスにカメラや充電器の入ったバッグを置いてきた2月1日。何より痛いのは、たくさんの人との交流が詰まった一冊のノート。マギーの連絡先もそこに書いてある。思えばこれまでよくやってきました。親しい人は僕のひどい忘れ癖をよくご存知だと思います。iPhoneの電池が切れて、充電しようと思った到着から10時間、やっと気がつきました。いつかはやるだろうと思っていましたが、実際起きると自分に呆れます。褒められると直後に失敗する。そして特に楽しい気分の時は、僕の頭のネジは5、6本緩んでしまう。結果的に、不幸中の幸い、手元に戻った今となっては特に言うこともありません。本当についていました。親切な運転手がそれを保管していてくれた。昨日はそれを受け取るために1日使って、今日は宿で休息。取り戻せることは諦めていたのですが、ヨルダン人の優しさに温かい気持ちになって、反対に寒い気温に体調を崩す。そんなアンマン暮らし。


誕生日の翌日は早くもペトラを後にしアンマンへ。8時半発のバスにしっかり間に合った穏やかな気持ちで首都を目指しました。途中窓から見る景色がまさかの銀世界。雪を見ることなんて予想していなかったので、恐る恐る「ヨルダンて雪降るの」。周りの人は当たり前だと言わんばかりに頷く。雪の中ではやっていけないよと思いながら眠りについて、気がつくと雪とは無縁に思える景色が広がっていました。道路に沿って多少店がある程度で、あとは荒野と山。草木もほとんど見ることがありません。アカバからペトラへの夜道、明かりをたくさん見たのもあって、ヨルダンには建物がたくさんあるのかと思っていましたが、そうでもないようです。昼過ぎにはそれを降りて、タクシーで宿に。そういえばこの時にはバッグを持っていなかった。気温を調べてみると、最高気温6度の世界。もう外出することを諦めて、ロビーでゆっくり休息。そして先述の通り、スマホの充電が切れた夕方に初めて自分のしでかした失態に気がつく。とりあえず充電器はないかとフロントにいく。経緯を話すと「見つけてやるよ」え、本当に。それから受付のおじさんはすぐさま各所に電話をかけること10分。「ゆうた、見つけたぜ」。あまりの早さに半信半疑ながら、重ね重ねお礼を言う。翌日にバス停まで連れて行ってくれる約束をして、この日はぐっすり眠れました。


翌日の12時に車は出発。先に韓国人の2人を空港に送り届けた後に、バッグを探す旅の始まり。これが思いの外時間がかかって、帰った頃には日が暮れかけていました。途中おじさんの新車を見に行ったり、買い物に付き合ったり、挙句僕が旅行者であることをいいことに免税店で酒とタバコを購入。最終的にバッグも戻ってきたので文句は言えませんが、こんな1日を過ごすことは予想していなかった。近くの店で、念願のカップヌードルを見つけて購入。日本のものではありませんでしたが、おいしかった。しばらくはこれを3食でも食べられる。


ペトラあたりからか、また体調を崩してしまい。この日も車に乗っているのもつらいような状態でした。鼻水、頭痛にお腹の調子も悪い。昔のことのようですが、2週間前までケニアにいて蚊に刺されることもあったので、続くようだったら念のために病院へ行こうと思っています。寒い地域に来て、免疫も少し落ちているから、体に入っていたものが暴れ出しているのかもしれません。そうでなければと願いながら、今日からイスラエルに行く予定だったのを変更して、アンマンにもう2泊することにしました。動かなければ弱るばかりなので、昼間は室内より暖かい外へ出かけてマクドナルドを探す旅へ。無性にハンバーガーが食べたい。道を忘れたら戻れなくなるので、マーキングしながら進みたいような気分でした。行けど行けど閉まっている店だらけ。それが宗教的な理由からなのかどうかわかりませんが、ゴーストタウン、首都でありながら過疎化の進んだ街のようでした。


同じアラブ圏でも、エジプトよりは他所者には優しいところです。車のナンバーも、エジプトではアラビア語で読めなかったのが、こちらではローマ数字が使われている。昨日のドライブではマックやケンタッキー、バーガーキングなどもよく見かけました。今日はたどり着けなかったけど。旅行者はあまり見当たらないものの、外国人だからといって声をかけられるようなこともほとんどありません。坂の多いこの街は、神奈川県で育った僕には郷愁を起こさせます。エジプトでの安さに慣れてしまい、見るもの全てが高く見えますが、さらに物価の高いイスラエルが待っています。体調が戻れば、近くにある遺跡なども回りたいところですが、今は休息。


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こんな状態で言うのも何ですが、楽しんでいます。出発した時には、どんな気持ちになるだろうと思っていましたが、心の中に後悔するような気持ちは一切ありません。本当に決めてよかった。就活をしている友人に連絡すると色々考えることもありますが、自分で選んだ道だから。何かやりたいことがあるときはぜひ実現させてほしい。休学というのは少し大きい気もしますが、本当にやりたいことをできたら、そんなこと気になりません。僕にとっては知らないところに行くということに楽しさがあって。たくさんのものを自分の目で見たいと思って。これは日本にいても心がけ次第でできることですが、ここでは日本にあるものでも、違う形をとっていたりするのでより面白く感じます。見れば見るほど発見の連続で、すこしその目も鋭さを失ってきている感覚もありますが、もう一回調子を整えて、とにかくいろんなものを見て触れる。今しかできないことだから、ひとつでも多くのものを心に留めて。今の自分にとってはそれが答えであると思っています。その先には何が待っているのかな。


寒さは人をセンチメンタルにさせて。外出したい気持ちを萎えさせ、内にこもらせる。それでもまだ寒い。人肌が恋しくなって、スケべな妄想にうつつを抜かす。これだけ世界中どこにでもいける立場にありながら、わざわざ凍える場所にいくのはどうも馬鹿らしく思えてきました。先のことはわかりませんが、進路を大きく変更しようと思っています。当初のプランでは、ヨーロッパも南アメリカも寒い時期と重なるからそれを逆転させようかなんて。季節のことは全く考えていませんでした。大事です。見たかったものも、凍えながら見たら心から楽しめないかもしれないから。


幸いここはWi-Fiがしっかりしているので、音楽を聴いて英気を養っています。聴きたい音楽の変化が、心境を写す鏡の役割を果たす。今日は90年代のロックばかりです。そしてクレヨンしんちゃん



二十二歳の肖像

歳を一つ重ねまして。「今日から〜する」などと力んだことは考えなくなりました。1日で変わることなんて決してないから。少し歳をとった。それでもせっかくだから何かしらのことはしたいと思いまして、昨日のハードスケジュールを経てペトラに来たわけです。朝起きてみますと、8時半ごろだったでしょうか。昨夜ロビーにたくさんいた人々の姿はなく1人で朝食を食べる。遺跡は6時から空いているそうなので、きっと早起きして出かけていったのでしょう。ご苦労様。そんなことをする自分も一瞬頭をよぎりましたが、やっぱり寝ない事には始まらない。そして寝ても覚めても寒い。昨日はなかなか寝られませんでした。そんなこんなで9時半ごろにホステルを出る。10分と言われていたけどこれが長く感じて、これから待ち受ける35kmに及ぶペトラに明るい気持ちばかりにはなれない。高い。知っていたことですが、エントランスで50ヨルダンディナール(8000円)を払う。いよいよどこかで節約しなければならない。インドで1ヶ月1万円生活なんてどうだろう。


遺跡見ないうちに、中国人の数に圧倒される。観光客の8割は占めていたと思います。本当にどこにでもいる。中東ということを気にかけないあたりは感心も覚えます。ただ数の力、道に広がるのはやめていただけたらありがたい。そんな合間を縫って歩いていく。しばらく「さむ」「すげ」を2つの言葉をひたすらに呟いていました。馬の勧誘、「けっこうです」。さぞかし心地いいのでしょうね、けど歩くのが好きなのです。入場料以外は意地でも使わない。


両側を高い岩に挟まれた道に入る。ここから既に日常から遠く離れた場所にいる。完全に昔見たインディ・ジョーンズの世界です。見えてきた最初の神殿。それが通路の先に見え始めた時、走って行きたいような気持ちに駆られました。旅に出てよかった、子供のようにはしゃげる。それも1人で。自分の目で見ることを夢見た場所の一つは、思った以上にデカイ。発掘されたためか、周りの岩は赤黒くなっているけど、そこに埋められたような神殿は砂と同じ色をしている。思った以上に細かい装飾が施されていました。ピラミッドに続いて、紀元前に造られた。今とは全く違うことに使われた人間の力。現在の建物は重機によって1年ほどで建てられてしまうのがほとんどではないでしょうか。人力で時には1世紀以上の時間を費やされたそれら。昔の人は偉大な忍耐力を持っていたようです。歴史の中で1度は埋もれたペトラ。栄えていた当時、どれだけ豪勢な街並みが広がっていたのか。複数の遺跡があって終わりと思いますよね?見渡す限りいたるところに岩に掘られた遺跡があります。形が無くなってしまっていても、明らかに人の手の入った無数の穴。100で済む数ではありません。未だに発掘作業が続けられています。


パンフレットや地図も持たずに歩いていたので、何がどこにあるかは全くわからない。人の流れていく方に歩を進める。そこからは予期せずほぼ登山をしているようでした。石段を1時間以上登り続ける。気がつくとかなり高いところにいる。岩に入った文様を見ているだけでも飽きません。道行く人と会話を交わして進んでいく。いつからか、英語でも社交的な自分を発見。最後は中国人のカップルと連れ添って。ようやく目的地へ。辿り着いたのはエド・ディルという修道院として使われていたという場所。登る苦労も、お釣りがくるほど報われた気持ちになりました。その大きさと、形がしっかり残されていることに。もう少し登ると、今まで通ってきた風景をバックに堂々と聳え立つエド・ディルを一望できます。曇っていた空から晴れ間が覗いて、節目の日にこれを見られた喜びに浸りました。なんて贅沢な誕生日。


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「教育」がいかに大切か。ケニアで教える経験をしたからなのか、自分の中で大きなテーマになりつつあります。平日の昼から、ロバに乗ったり、お土産を売ったり。彼らは学校に通えているのか。ある場所でブレスレットを売りつけに来たのは、まだ4歳という男の子でした。発掘作業を続けるのはいいけど、今でも十分に人は呼べる。大事業よりも、子供たちに教育を授けたほうが返ってくるものは明らかに大きいのに。これはどこの国でも言えると思います。一定の機会が均等に与えられれば、競争の中で共に能力を伸ばしていける。今以上にたくさんの可能性が生まれるはず。その上で他の道を選ぶならそれでいい。お金を持った人間が動かす社会。言うのは簡単ですが、望みは薄くあり続ける。石段を下って、まだまだあるスポットの一つに向かおうとしましたが、途中で出会った子供とじゃれ合ううちに「疲れたから帰るか」となりました。これを全部見るには1週間近く必要になりそうです。そしてペトラに行きたいと思っている方は少しでも早くいのが良いかと思います。体力勝負になって、僕はこの歳でヘトヘトです。もしくはお金を払ってロバに乗るか。


"今歩いているこの道が いつか懐かしくなればいい

今歩いているこの道は いつか懐かしくなるだろう

その時は是非君の隣で その時も是非君の隣で

とても嬉しいお願いします 僕は嬉しいどうかよろしく"

斉藤和義「幸福な朝食 退屈な夕食」より


感動の小さな帰り道は音楽を聴きながら。最初に流れてきたのはこれ。伊坂幸太郎さんがこの曲を聴いて仕事を辞めたと知って、当時使っていた色だけで選んだLGの黄色い携帯電話。YouTubeで流しながら帰った高校からの帰り道はきっとここに続いていた。僕は部活をやめて、たくさんのものに触れた。出会ったもの全てが、僕をここに運んでくれました。若輩ながら、やっぱり人生は本当に面白い。


いったぶん、帰らなければならないのは道理ですが。足も限界近くまで疲労して、これが途方もなく長い。途中頻繁に休憩をとりながら。沈むまで幾ばくもない太陽を浴びながら。僕が休むたびに追い越すことになった、足を引きずるようにゆっくり進む中国人らしい女性。重そうなバックを持つよと申し出る。持たせることはせずに、ただマシンガントークで離してくれなくなりました。そのゆっくりなペースで自分も歩く。後ろ姿で期待してなかったものの、このマギーがすごく可愛かった。30日が誕生日だという彼女とお互いを祝う。結局出口まで一緒に到着。中国人かわいい。仮に整形だとしても、旅中は見たものが全てです。そこからホステルまでは永遠登り坂でしんどかったものの、美しい夕陽に背中を押されて。無機物も全てが笑っているようでした。そんな気持ちいい帰路。


昨晩、この環境下にしては十分な温度に達することのなかったシャワーが今日は温かい。22歳ついているかもしれません。


"失敗しない 後悔しない 人生がいいな

少し考えてみただけさ 有り得ないって解ってる"

BUMP OF CHIKEN「ホリデイ」より


この歌は数年、思い出すこともなかったのに。シャワーを浴びている時に浮かんできました。夕食はフランス人と卓を共にし、貰ったトルコの強いお酒に潰れかける。今日はとてもいい日だった。


久しぶりに書いていて楽しい文章。旅を始めた頃から思っていたことですが、これからもっと強く、優しく。抱負を掲げておやすみなさい。