メトロに乗って、ラクダに乗って

前日は9時ごろベッドに入って、9時に起きました。遅い時間の飛行機でほとんど寝られていなかったから。エジプトのホステルは安い上に朝食付きが多いから、それだけで満足感が強い。パンとイチゴジャム、チーズにヨーグルト、バナナ。バナナはきっと世界のどこでも朝ごはんとして食べる人がいるのではないか。これにコーヒーがついて、満腹感の得られた朝食も久しい。やっぱり朝からしっかり食べると活力が湧きます。ということで、エジプトと言えば、そうピラミッドに行ってきました。ベタだけど、とりあえずはここに行かなければ始まらない気がして。ホテルの人に行き方を聞いて、昼前にいざ出発。


地下鉄に乗りました。これもなんだか懐かしい響き。宿から3分で駅に到着。入場する際は手荷物を飛行機と同じように機械に通して、金属探知機をくぐる。安全のためなら喜んで協力します。そんなにしっかり見ている感じはないけど。思えば日本の電車はかなり無防備な気もします。それだけ安全な国ということなんでしょうが、いざという時は恐いなと思いました。同じように金属探知機が設置されるようなことがないことを願います。そして驚きなのがその価格、なんとどこにいくにも1ポンド(6円)。物価が安いとは言え、これは衝撃的でした。電車ならチップも払う相手がいないし、これだけでいけてしまう。清潔とまでは言わないまでも、なんの文句もない充分な設備。ギザ駅までは15分ほど。メトロに乗ると少し日本にいるような気持ちで、価格も相まってこれははまりそうです。


そして駅からはバスに乗らなければいけない。これも2ポンドだと聞いてたので、意地でもタクシーには乗らないぞと決意。ただ駅から出ると道は分かれている。タクシーのしつこい勧誘を断って、その男がバスロータリーだと行った方向に歩いていると後ろからおじさんが肩を叩いてきた。「そっちにバスはない」。地図もネットもないから、言われた方向に行く他ありませんが、エジプトではこのスタンス苦労する予感がします。この男性が自分も同じ方向のバスに乗るからと、正しい方向に連れて行ってくれました。ただあまり簡単に人を信じても危険なので恐る恐る。英語が流暢だからきっと教養のある人だろうと少し安心して。アクバルおじさん。結局彼がバス代も払ってくれて、お礼を言うと「俺の息子と同じだから」という温かいお言葉。もう完全に信用して、バスに揺られて終点へ。途中いろんなことを教えてくれました。アクバルはこっから1km先の病院へ行くと言って、ピラミッドの入り口の近くにある旅行会社まで連れて行ってくれた。その時覚悟しました。「これは金がかかるぞ」結局彼がその店の回し者だったのか、善意からこの場所を勧めてくれたのかはわかりません。それでも彼がいなかったらたどり着くのに余計に1時間ほどかかったはずだし、彼はときおり本当に体が悪そうな仕草をしていたから。善意によるものと、そこにお願いすることしました。高所恐怖症で、前日友達に絶対乗らないと宣言したラクダに気がついたら乗らなければならないことになっている。僕の知る限りゾウ、キリンに次ぐ大きさを誇るラクダは、立ち上がるとマンションの2階近い高さがある。足が短いからなのか、安定もしなくて少しでもラクダに嫌われたらすぐに振り落とされそうだ。そしてコースは大中小とあって、中でいいかなと思っていると横からアクバルが「大がいいぞ」ならそうするか。価格は5000円ほど、安くはないけど2度来ることもないだろうからこうなったらとことん満喫しようと思う。


僕の想像してた風景は、バスなどで数時間移動した砂漠の中にピラミッドへ辿り着くのかと思っていました。実際は地下鉄の駅からバスに20分ほど揺られると到着。その地点だけは砂漠のようだけど、一歩外へ出ると周りはコンクリートに固められレストランやホテルなどがたくさん建ち並んでいます。ハスルという馬に乗ったイケメンガイドと2人。ラクダに乗っているのは僕ぐらいのもので、他は馬に乗っている。ハスルは遅々として進まないラクダに苛立って、僕に鞭を渡し叩くように言う。これは僕としてはすごく心が痛んだのだけど、確かに歩を早めてくれる。こうなると今度は落ちそうになるから僕としてはゆっくりゆっくり進みたい。このガイドはなかなかにパンクで、「見つかると俺が逮捕される」といいながら登ってはいけないという小さなピラミッドに登らせてくれたり。本当にいい加減ですが、撮影禁止の場所も少しお金を渡すと許可されたりと、もうなんの秩序もない。あとは頻繁に僕のカメラマンをお願いせずとも務めてくれたのだけど、こっちの要望ではなくガイドがピラミッドを摘んでいるように見える写真を撮りたがる。ありがちな写真がSDカードに。すごく楽しそうな構図に、顔だけぎこちない笑顔。そしてガイドに要求されるチップ。事務所に帰ってからも続くお土産のススメ。初めて買ってしまいました。「千夜一夜」という名前の香水。無事に持って帰られる気がしない。結局いくら払ったのか、正直わかりませんが。これは飾りなく面白かった。自然遺産の雄大さもさることながら、人間の力もここでは強く輝いています。


実際にこの目で見たピラミッド。バスの窓からてっぺんを覗いた時の高揚感。世界遺産をひとつ挙げろと言われたら、これが思い浮かぶ人も少なくないはずです。そんな場所に来られた充実感が溢れる。大ピラミッドが3つ、小ピラミッドが6つ。計9個がここにはあります。それを一望できる地点から見た風景。思ったよりも小さかったスフィンクス。5000年前に人力によって造られた事実は理解できても、想像だにできないその規模。ダムが作られるまで、そこを流れていたナイル川の痕跡。大きいのは正義だと思いました。これは何にでも当てはまる、はず。この国が持っている歴史の壮大さが羨ましくもなる。文明のゆりかごには、便利なものに囲まれた今の時代では生み出せない、人間の力強さが宿っているように感じました。そこに君臨した王、使役された名もなき無数の人々。亡くなった方も数知れないこととは思いますが、努力の結晶は時代と地域を遠く離れた僕の目にも映りました。本当におつかれさまです。2度と乗ることのないであろうラクダの背に跨った、僕の生も少し強さを授かったような気持ち。


f:id:GB_Huckleberry:20170125235629j:plain


お金のことになると目の色を変えるエジプト人ですが、それは歴史の中でつくられてきた習慣のようなもので。親切です。けっして悪い人たちではない。訪れる際は、最小限の金額しか払いたくない場合は話しかけられるのに耳を貸さないことです。僕には後悔はありません。それだけのことを体験できました。どこかで余分に節約すればいいじゃないか。大丈夫かな。


短かった夏がいけば

ひさしぶりの機内から見る風景。そこには砂漠が広がっていました。今までとはまったく違った眺めに、あらためて地球のおもしろさを想う。カイロ国際空港が近づいてくると、そこにはいくつもの煙突が並んでいて。そこから吐き出される何本もの煙はさながら雲のように。本物の雲を下り、アフリカの朝日から生まれた新しい青空。青と白のミルフィーユ。街の間に砂があるというよりは、砂の間に街がある。しばらくは、視力のいい目を凝らしても動くものが何も認められない世界が。なんとなく「星の王子さま」のことを考えたりしました。雪国と同様に、ここで暮らす人たちはガッツがあるんだろうなと思ってしまう。僕には無理だな。 

飛行機のドアを出て、4時間ぶりの外の空気を吸う。びっくりしました、寒い。日本以来の北半球だから当たり前ですが、エジプトは冬です。ピラミッドと寒さを結びつけたことがなかったから、少し不思議な気分です。日本と比べたら大したことはないけど。こうして僕の短かった夏が終わりました。ケニアにいた3週間だけの、海も花火もデートもない2017年最初の夏。そしていきなり冬へ。おかげで季節感覚は取り戻せそうですが、小さなバックパックは寒さに弱い。服を買わなければならないかもしれない。 空路での入国はわりとラクチンで。調べていたよりもビザ代が高くて焦りましたが、入国審査場の手前にATMがあったから大丈夫。25ドルでシールを買って、自分でパスポートに貼ったら入国できる。6カ国目、エジプトのはじまり。スワヒリ語からアラビア語の世界へ。エジプトの国民性、噂ではがめついらしいけど、うまくやっていけるだろうか。なんて思っていたらロビーでいきなりタクシー引きの強引な勧誘にさらされて、自信は持てないな。身なりのいい、しっかりしてそうな人を選んでタクシーをお願いする。完全に勘頼みです。"They somehow know what you truly want to become."忘れられないジョブズさんの言ったこのフレーズ通りであってほしい。ちょっとずれるけど。直感よ、どうかよろしく。そして初の左ハンドル、右側通行の国に入りました。それもあってか日本車はだいぶ減ってしまった。乗ったのは日産で、それでも3割くらいはそうだけど。これがなかなか慣れなくて、世界がひっくり返ってしまったみたいです。すこし酔いました。バイクのライダーが一様にヘルメットを被っていないことに不安になりながら。カイロの中心までの道は恐ろしいくらい混んでる。隙間を縫って進んでいく運転にこっちはひやひや。客は急いでないけど、運転手がはやく降ろしたかったんだと思います。英語も通じなくてほとんど会話はなかったけど、タバコをくれました。辛抱しろということでしょうか。看板もアラビア語で書かれていて、読むことができない。読めたのはKFCとマックくらい。それでもどこへ言っても高い建物が続いている。建物の様式は他の国とはまったく違う。石っぽいものばかりです。西洋風なものもほとんど見かけない。高い尖塔を持ったモスクをいくつも過ぎる。緊張もするけど、違う文化に入っていくことに武者震いします。これはまた冒険だな。

結局1時間ほどでホテルに到着。無口だった運転手は最後に「チップはくれないの〜」とくねくねした声を出した。あ、はいはい。今までの国では、好意で払うことがあっても、そんなに頻繁にはありませんでした。計算が立ちやすかった。この距離で250ポンド(約1200円)だっから文句はない。出発の時にもチップは渡したんだけどね。 物価のさらにやすいエジプトでは、このホテルも1人部屋で1300円ほどです。4人のドミトリーは700円以下。非常に助かります。誰の目も気にせずに、とりあえずベッドでごろごろ。それが済むとお待ちかねシャワータイム。お湯ですよ、お湯。おそらく新年初の温かいシャワー。施設での生活、一番温かかったのは涙だったはずだ。水温調節が難しく、ものすごく熱いお湯に痛いくらいなんだけど笑顔が止まらない。「おまえーちょっとあちーよ、ばかー」。こんな思考を禁じ得ない。体を擦ると、これでもかってくらい垢が出てくる。垢太郎の話を思い出す。桃太郎とほとんど変わらないストーリー展開。それでも冒頭、おじいさんおばあさんが垢をこねて人を創り出す、なんとも汚いファンタジー。三太郎のcmのオファー来ないかな。あれまだ続いているのかな。人はいともたやすくよごれることを知りました。少し怒られてもいいくらい、心ゆくまで浴びて。こんなリフレッシュは近頃なかった。でもきっと三日後ぐらいには、そのありがたみも忘れてしまうと思う。そして次は湯船に浸かるのを夢想する。無い物ねだりも甚だしいけれど、そんなもんだよね。そして自信を持って言えること、今の僕は綺麗です。 

空港で食べた以来の食事に向かう。先述の通り看板は読めなくて、何がなんなのかよくわからないからマックへ。南アフリカ以来だ。メニュー英語あるのかなと恐る恐る入ると、さすがマックです。バッチリだ。マックチキンとチキンマックがあったり。もちろんポークはないのですが、メニューもほとんど変わらない。ビックマックを頼みました。開けてみると、間にバンズがなくてちょっと大きいハンバーガーでした。もしかしたら、俺の食べないうちに仕様が変わったのか。それともミスか。故意のいたずらか。ポテトとオレンジジュース。合わせて250円ほど。安い。ものすごく好きなわけでもないけど、馴染みのある味に安心できる。ハッピーセットのおもちゃがマリオでほっこり。隣に座るきれいなお姉さんににっこり。肌の色も今までとは変わり、日本人より少し暗い肌に、黒い髪。この地域の人が一番好きかもしれません。ブロンドでブルーアイズ。魅力的ではあるけど、違いが際立って違う生き物みたいに思ってしまう。多くの方はムスリムだから、一定の年齢になるとヒジャブで顔を隠してしまう。これはなんとももったいないと思うけど、その下に隠れている顔を想像するのも面白いかもしれない。目だけが出るようにしている女性もいて、ムスリムだったナイラが「あんなことは教義にない」と少し怒ったように言ったいたのを思い出す。ひとつの宗教も一概には言えず、むしろ微細に分かれている。こんなことは世界史で習って知ってるけど、せっかく同じものを信奉するなら仲良くしてくれればいいのにと無責任に思って。 

街には本当に多くの車と人。忙しく煩い街です。でもこの排気ガスにまみれた臭いが、ちょっと懐かしい。全く不快ではなくて、むしろ好きかもしれない。人間として生きる僕には、これが故郷。はじめていったベトナムでは、香料の臭いが空港にいてもするぐらいで。きっとどの国にも特有のものがあるんだろうと楽しみにしていたけど、あの地域が特別に強烈に発しているだけで、アフリカの臭いと言われても僕にはよくわかりません。下水道の整備が進んでなくて、汚水くさかったりはするけどね。

 誰にも見られないところに身をおいて。鍵を閉めてイヤホンで音量大きく音楽を聴く。弾けもしないのに、エアギターなんかして。でもこんな時間が生きていく上では必要ではないでしょうか。 明日からはこの全く新しい世界で闘っていこうと思います。

グッドバイ

ドナルド・トランプが大統領に就任した金曜日。これから彼が何かをしてくれるたびに思い出すでしょう、僕はケニアにいた。学校が最後だったこの日、最終日だというのに2日酔いで起きないエリックをおいて。飲み会一回ぶんくらいの値段で、ピザを買っていきました。約束したことはしっかり守りたいから。出発する前に大切らしく思われることを尋ねて「ケチにならないこと。寛容であること。人に手を差し伸べる中に幸せはあるんだよ。」と話してくれた教授の言葉を思い出しました。惜しげも無く人のために奔走してくれる、人として尊敬している1人です。両手にピザを持っている外国人は隙だらけで危ない気もしましたが、「1つくれよ」と頻繁に声をかけられても「子供たちにあげるんだ」というとみんな笑顔で去っていきました。思えば日本にいて外国人だからという理由で声をかけるなんてことはないから、何もないよりは喜ばしいことなのかもしれない。3週間も同じところにいたから、道には顔なじみになった人もちらほら。遠くから手を振ってくれたりします。


授業では日本の歌をうたおうと黒板に書いたのはブルーハーツの「青空」。結局僕が1人で歌っただけでした。選曲に異論は認めます。終わりが近くなって、自分が貰ってもいいのかというような愛のある言葉をたくさんもらいました。幼いだけ、技巧など凝らさずにストレートに。感謝の言葉はあまり修飾しないくらいの方が、かえって胸にぐんとくるのかもしれません。それだけで苦労したことも報われて、温かい感情ばかりが残ります。僕なりにこの期間、もらったものと同様にあげられたものも少しはあるかな。それは子供たちが教えてくれました。


金曜日の午後はレクの時間。当たり前のように輪の中に入って一緒に遊ぶ。踊ったり走ったり。午後の授業も終わるといつもマザーが帰りの会のようなものを開いて1日を締めます。この日はいつもと少し勝手が違って、僕のためにお別れ会を開いてくれました。何があるわけではない。ピザとクッキー、バケツで水に薄めたジュース。幼児クラスから5年まで、順に歌を披露してくれる。自分が受け持っていた2年生の番になり、すでに潤みはじめていた目、感情が溢れて止まらなくなりました。特に問題児で手を焼かされたネルソンが涙ながらに歌っているのを見たら、もう無理だ。歌い終わると順に言葉とハグをくれる。3週間でこんな気持ちになれるなんて思ってもみませんでした。こんな教育実習のようなことをするのでさえ全く予期していなかったことでだから。教師を筆頭に、7人の生徒と共に流す涙。これはもう青春じゃないか。みんなそれなりに過ごした日々を良くも思っていてくれたことが嬉しくて。鮮明に思い出される初日に、最後まで続けようと誓ったのを実現できた安堵感。大変な境遇にいる彼らのこれからへの心配もある。


教室の壁は一面のベニヤ板で、黄色に塗られている。電気の通ってないこの建物では、その色の大切さも際立つ。床は辛うじてコンクリートで固められているけど、どれだけ昔に建てられたものなのだろうか。5分の1ほどはすでに崩れ去り、地面が露わになっている。そのせいか、教室の中はかなり埃っぽい。手作りであろう、木だけでできたテーブルチェア。不安定で細い板に腰をかけ、机も同様に十分なスペースもなく、波打って平らですらない。綺麗な文字を書くのも一苦労だと思う。教科書は教師が1冊持っているだけで、生徒の手元にはない。それも教科によっては足りていないものもある。施設にも、学校にも時計はひとつもない。そして教師も人数が足りず、免許など関係なく教鞭をとる。そして毎月のように変わってしまう。


子供たちよ、こんな状況でもどうか勉強に勤しんでください。僕は先生なんかではない。しっかり教えられたことなんてほとんどないかもしれない。ただ奇跡的に出会えた友人として。それがきっと将来君たちの身を立ててくれるから。本当にどの口が言ってるのかっていうのはわかっているけれど。どうしても明るい未来を願わずにはいられない。君らは小さい頃から途轍ない苦労を重ねてきて、どうしたって報われなければならない。街を歩いていると、綺麗な制服を着て、スクールバスを使っているような子も大勢いる。きっと境遇にはいくらか恵まれているんだろう。この街ではろくに仕事を持っていない人も大勢みかける。もしかしたら、ここにいる子らは先の学校には進めず苦しい生活を送ることになるかもしれない。そんな想像も難くない。だからこそ、どうしてもそうなってほしくない。何ができるってことは、今の自分には全くないのだけど。もうそれこそ、祈るような思いで。


最終日の土曜日も昼前から夕方まで、とにかく子供たちと遊んで。最後にマザーのもとに挨拶に行きました。彼女もとても謝意を表してくれる。そこで思いがけずに聞かれたこと。「どの生徒をいちばんに思う?」少し悩んだけれど、やっぱり手がかかったけど長く時間を共にしたネルソンの名前を挙げました。すると全く知らなかった、彼がこの施設に来た経緯を話してくれました。母親、父親が亡くなり、祖母に引き取られた彼。近所の方にこの施設の存在を聞いた祖母は彼をここに預けた。今では誰もその彼女がどうしているかわからない。両親、片親が生きていて、週末だけは家族と過ごせたりする子供もいるなかで。彼にいるのは、一緒に暮らす友人たちとマザーたち数人の大人。最後も通りまで見送りに来てくれた中に、彼の姿もありました。もう何度も抱擁して、彼だけには伝えました「僕のことを忘れないでいてね」。珍しく真剣な面持ちで頷いてくれた。


前歯が生え変わっている途中、やんちゃな顔で笑うネルソン。何度もせがまれて持ち上げたり。喧嘩に巻き込まれやすい彼を、何度も捕まえて、抜け出そうとするのを放さないようにじゃれ合ったり。頼むから算数をもっと勉強してね。指を使わなくても計算できるように。英語も板書を早く写すことにこだわって、あとでノートに書いた文字を読ませても解読不能。読める字を書いてくれ。一度だけ、陽気な彼の気を落とさせてしまったことがあって。その時に見せた真面目な顔つきの奥には、僕の理解が及ばないほどの過去の出来事の陰があったのかもしれません。飛行機も予約してしまって、プログラムも終了。もうここを去る以外他ないのだけど。この旅費の残りがあれば彼を。


家に帰って、荷物の整理をしなければいけなかったのだけど。どうしても思考の整理がつかなくて、なかなか進まない。ワクワクもしていた気持ちは何処かへ行ってしまい、本当に続けていくべきだろうかはじめて考えてしまいました。これがどの程度僕の中に芽生えたものなのか、まだわからない。ピラミッドを前にした時、感動ばかりに包まれるのか。それとも。これを書いている空港のロビーで、大きな感情を文字にすることに苦労しながら。いっこうに着地地点の定まらない思考は、降りる場所を見つけられないでいる。


一つだけ確かなこと。このプログラムに参加して本当に良かった。前にも述べたように、最初は寝床と食事が確保されることがなにより大きい要素だったのに。同じプログラムに参加しても、それぞれたくさんの施設にも振り分けられていくなかで。3週間、ほとんどナイロビの見聞を広めることもせず。20日間で17回訪れた施設。あっという間に過ぎた日々の中で、たくさんの力強い命に囲まれて。うちに生まれた思考の一つ。海外でのボランティアというのは、その旅費を全額寄付した方がよっぽど相手の為になるのだから。全部自分のため、経験のためにやらしてもらうことに他ならない。相手のためというのは副次的なことで。常にそこに情熱を注げるわけではない僕には、この感情の変遷を体験することこそが大切なようです。消化することには、もう少し時間を使いたいと思います。そして忘れないこと。


予想通り、かなり小型の飛行機がやってきて。僕の悩みはそれへの恐怖のために和らげられる。


f:id:GB_Huckleberry:20170122184247j:plain

僕は日本人

子供達が制服の着方をとやかく指導されている傍で、自分の格好をみると申し訳なくなる。砂埃にまみれて、裾の破け始めたデニム。「お前、それ今週毎日着てない?」というシャツ。1ヶ月近く手をつけてない髭。遊ばれる日々に、薄くなる髪。誰よりも風態に問題があるのは私ではないでしょうか。それでも身長もあってか、生徒たちはエリックよりも年下だと思っていたようです。10代だと思ってた、なんて言われるとどう反応したらいいものか。喜び、悲しみ。極め付けは「大人しいから女の子みたい」英語力のせいだよと応じましたが、割と僕なりにはしゃいでいるつもりがそんな風にも写っていたのか。体力の問題もあって、疲れたら座ってぼーっとしています。これは日本でも同じです。英語のせいばかりでなく、やっぱり元来騒ぐようなタイプではないので。国が変わったってそんなものが急に変わるはずもありません。いい表現をしてもらうと「落ち着いてる」なんて言われたりしますが、ただ体力がなく、人と会話することがあまり得意じゃないだけです。日本での生活の中で、我ながら自分の思考や行動の中で「気持ち悪い」と苦笑してしまうことがあるのですが、道中は忙しさのせいか、環境のためか、自分がどうのということはほとんど頭の中にありません。ただ聴こえる音に耳をすませるだけ。置かれた状況に身をまかせるだけ。少し人に引かれるくらいが正常運転で、気持ちよく安心できる心持ちがします。


疲れによる見た目の加齢からか髪が伸びたのもあってか、ルックスがどんどんリリー・フランキーさんに近づいている気がします。敬愛する方の1人ですが、20そこらでこんな感じでいいのかは甚だ疑問です。特にもともと細い目は、必要以上に哀愁を湛えはじめているような。なんだかもう、大丈夫なんだろうか。「美女と野球」など、他愛もなく、ぐだらなく、少しほっこりするようなエッセイ集も好きで。毎回それでは旅行記の形を続けられないのでしませんが、あんな読後感を多少は味わってもらえたらと思っています。愛読書の一冊「東京タワー」をだいぶ前に自分で読んで録音した音源がスマホに残っていて、よっぽど暇だったんでしょうね、日本語が恋しくなると噛んでばかりいるそれを聴いています。あの渋い声に比べ、自分のものはとても味気ない。変声期の再来を望みます。それが30分ばかり。これからというところで終わっているので、続きが読みたくなってしょうがありません。ベトナムで会う友人に持って来てもらおうかと真剣に考えています。フニャっとしたイラストの入ったTシャツにブルーデニム、スニーカーかサンダルを履いて目的もなく井の頭線沿線でもブラブラしたい。面白い人を探して、見つけたらしばらく観察することで暇をつぶす。そんなことへの憧れが募ります。飽きたら人の少ない喫茶店にでも入って、コーヒーとタバコで当てもない妄想を膨らます。発展しすぎているか、荒涼としているかの2択しかないここでは、ちょうどよく落ち着けるような場所がない。懐かしいあの公園で、最近忘れていたことを思い出したい。こんなことも考えないと、帰国後変な悟り顔をしてしまうような気がして。それを何より恐れています。僕はアフリカにいても、大したことない。


「こんな個人的なことを知りたくて読んでるんじゃないぞ。」すみません。本題に入りたいと思うのですが、学校について思うことはほとんど書いてしまった。別れが近いので無駄に子供達を持ち上げて振り回すなどの、体力を使うスキンシップを取っています。何人もボランティアが入れ替わりでくると思うので、正直僕のことなんか1年と保たずに忘れてしまうでしょう。そんな定めに抗うかのように、少しでもその期間を延ばそうと必死です。授業で言うことを聞かない時は、ツンとした態度をとってみたり。日本の小学校だったら、すぐに退職に追い込まれるような体罰もなければ、隙があれば壁をよじ登ってしまうような生徒たちを抑えることはできません。他の先生方は木の棒を持っていて、叩いたりもするのですが僕には抵抗があって。座れといっても座らない子にデコピンをしたりしても、それが気持ちいいのか「もっとやって」と言われたり。あまり甘くしても苦労するのは次にこのクラスを持つ先生だろうから、少しは厳しさも見せなければ。特に疲れた日は、もう黒板に字を書くばかり。子供のわがままは完全に無視したり。先生失格でしょうが、僕なりに毎日四苦八苦してきました。それも20日で終わりです。授業が終わった後は、これでもかというほどデレデレしています。やっぱり旅行記感がでない。


これといって新しい場所に行くこともなく、この日も家と学校の往復ばかり。学校の裏にある通りは今週発見して以来気に入って、休み時間は散歩しています。急な下り坂で、他と同様脇にはゴミが散乱しているのですが、気を落ち着けてくれる何かがここにはあります。道行く人は相変わらず「中国人」もしくジェット・リージャッキー・チェンと声をかけてきて、何かの武術らしき動きを向けてきます。そういえば、日本人で世界的に名の知れた人というのは誰なんでしょうか。アメリカなら大リーガー、イチローなどは多く知られているでしょうが、野球の「や」の字もないアフリカでは厳しい。広くみられている映画に日本人が出演していることもほとんどありませんし、「渡辺謙」と呼ばれることも現実的ではないようです。漠然と「カラテ」「ニンジャ」「サムライ」などが通じる人には通じるくらい。それらにしても大分ねじ曲げられたイメージをお持ちのようではありますが。果たしてどう日本人であることを表現したものか。もっとキャッチーで、言われるこっちも悪い気のしないような何かを改めて日本が生み出してくれたら助かります。俳優の誰かが世界的に有名になって、その名前で呼ばれたらきっといい気分で歩けるでしょう。それもその人のキャラクターによるか。知られてないからこその歩き甲斐もあるのかもしれません。この日は中国人と呼ばれた、日本人だよと言うと、謝られた後に「ヤクザ」と言われました。もうなんでもいいか。少なくとも学校での日本人のイメージは僕が元になるだろうから、次また日本人が訪れることがあれば清潔感を上書きしてもらえたらと思います。車の影響からか、教養ある人でも日本人の多くがエンジニア、技術関係の勉強をしていると思われることがしばしばです。文系でごめんなさい。


結局真新しいことはなかったわけですが、休み時間に水を買いに行ったときのこと。宝くじ売り場を少し広くしたような店が道にはたくさん並んでいるのですが、その前で。椅子に腰をかけた滅多に見かけないくらい歳をとったおばあさんが、手にビンのコカコーラを持っていました。偏見かビンコーラを若者以外が飲んでいる姿を見たことないのでその絵の新鮮さと、黒人の老女プラスコカコーラという僕の中では今までなかった組み合わせ。さらに、一言も喋らない女性はゲップをノンストップで繰り返していたので、何かとても幸せな気分になりました。切り取れば、平和の象徴にもなりうる光景です。


f:id:GB_Huckleberry:20170122185504j:plain

再出発へのカウントダウン

もうあと少ししかないと思うとミスユーという気持ちも働きますが、正直安心感も小さいものではありません。教えることの大変さはかなりこたえます。たまにはそれくらい神経の使うことをした方が、後々いいような気もしますが。またしばらくさすらいたい。教師不足が深刻な状況を目の前に去るのは心苦しく、なんならもっと残ってもいいのではないかと思うこともあります。それでも極力省エネに営まれる生活好きの僕には、教師というエネルギー消費量の激しい毎日はもう満腹寸前のところまできています。


子供達を見ていると、日本とあまり変わりがなくておもしろい。「そういえば小学校ってこんな感じだったな」と懐かしい気持ちになることもよくあります。先生に友人を売る。細かいことをチクっては、自分が気に入られるようとする男の子。本気でやり返されないことをいいことに、男の子を憎たらしい顔でからかう女の子。相手にされないから、下手くそにちょっかいを出すことで自己表現をする男の子。いつまでも涙は溢れず、相手にされなくなったらすぐに止む嘘泣き。でもそれらはどうしたらいいかわからないことがたくさんある裏返し。悩むこともたくさんあるよね。悔しかったことや、数々の失敗がより鮮明に思い出せれる。「これが青春だ」で片付けられる今の方がよっぽど楽です。


施設の暮らしの中で、大人が側にいるわけではないから"しつけ"も十分にされていない。だからこちらの仕事はより難しくなるけれど、それを解決するのはそれ以上に難しい。専業主婦だった母がいつも側にいてくれた子供時代。母や祖母のそれを当時はただやかましく思っていたけど、今になってみると当時の教えに日々助けられてばかりいる。一例を挙げると、小学校時代遊びに出かけた後、家で口に入れたガムを外に吐いて帰ったことがあった。それに気がついた母は「戻って拾ってきなさい」と僕を一喝した。どうしようもなく、戻ってみたもののそれを発見することはできなかった。それからは、ガムを捨てる際にはこの出来事が思い出される。今でもそれは僕のストッパーとして機能する。小さなことだけど、自分はこんなことの積み重ねだ。恵まれた境遇にいたことをつくづく思わされる。まあとは言っても、恐ろしくだらしないところもたくさんあるのですが。


この日は各々の活動を終わらせた後、ナイラの発案で3人でディナーを食べに出かけました。「私たちは一緒にご飯を食べなきゃいけないわ」こういう人間が1人仲間内にいると、僕らは綺麗な思い出を残すことができます。元旦にこのブログを更新したモールにいきました。すでにそこから3週間近い時間が過ぎていることに驚きが隠せないのですが、やっぱりとても快適な場所でした。自分の食べたいものを食べるということがほとんどなかったので、メニューを前にいつも以上に優柔不断になる。というか、もう全て食べてしまいたい。無難にチキンカレーを、苺のシェークと一緒に。ナイフフォークしか出されず、最後お皿に残ったルーがもどかしいほどに掬えないのだけど。何度も何度もフォークで必死に口に運ぶ。人目がなければ、皿を舐めたかもしれません。熱い会話を繰り広げられること思いきや、思った以上に2人はスマホをいじる。どの内容もあまり掘り下げられることもなく、写真を撮ったからオッケーといった雰囲気。北アメリカ大陸は日本と同様、もしくはそれ以上にスマホに蝕まれているようでした。それでも元旦から共に過ごしたこの2人は、友達という言葉を使える数少ない人間です。エリックは金曜の夜に。そして僕が土曜の夜に。お互い母国から遠いこの地に吸い寄せられて、出会った。エリックの夜中まで続く長電話。ナイラの「日本はアフリカと比べて発展しているの?」という日本軽視。そりゃあ長くいればいるほど、目につくのはいいことばかりではないけれど。きっとそれはお互い様で。それにしては大した問題もなく、冗談を言い合いながら過ごした日々でした。彼らとなら、またどこかで再会してもいいと思う。帰国を間近に、寂しさもありながら喜びの方が大きいような彼らを見ると少し羨ましくなったりもして。こちとら、まだ半年以上もあるって言うじゃないですか。


f:id:GB_Huckleberry:20170122185123j:plain


気がつきました。日本食はどうにも頻繁にうんこを催おさせる。ここでの生活の質素な朝食では、特に朝からしたくなるようなことはない。日本の白米、味噌汁、そしてトイレに直行という一連流れとはかけ離れている。アフリカでのそれは、小便のために便器に腰を下ろすと「ああ、お前も待っていたのか」というように訪れる。この日、久しぶりに食べた好物のカレーは見た目も相まってか、スパイスのいたずらか、食べた直後に排便したくなった。恋しさを語り出したら止まらない二郎系のラーメンは、満腹感とトイレがセットのようなものである。思い出してみると、どうも美味しい日本食には常にうんこの陰がちらつく。だからこそ、どの国にも負けないトイレが日本にはあるのではないか。そう間違いなく日本のトイレは世界一です。ここに僕はまた一つ偉大な発見をしたのでした。


なぜだか、普段の生活の中で思い出すことのなかった不登校だった同級生たちの顔が、長い年月を経てアフリカの地で浮かぶことがあります。すでに苗字と名前の片方しか思い出せなかったりはしますが、顔ははっきりと。理由は全くわからず、ただ自分の意思とは別のところでそれが呼び起こされているような感覚です。だからどうということもなく、元気でいてくれたらと無責任に思っています。お互い、いい歳になりましたね。


まだ出会ったことのない人々。出発まで側にいた友人たち。それらの人にこれを読んでいただいていたら大変嬉しいです。しかし何年も会っていない古い友人たちが何かのきっかけでこれを見つけて、「あいつもそれなりに何かやってるんだな」と思ってくれることがあれば、それはより素敵だなと思ってしまいます。しばらく子供の相手をしていたからかもしれません。


頭の中で再出発の鐘が鳴りはじめている。

1月18日

2016年1月18日。皆さんは憶えているでしょうか。この日東京では雪が降り、朝起きたら一面の銀世界になっていたこと。普段は憧れもいだく雪ですが、いざそれに包まれると不便なことばかり。学校のテストのために家を出た頃には雨に変わっていたので、苦労しながら学校まで歩いていきました。寒かった。帰宅後、父親から連絡が入っていて、文体から何かよくないニュースであることは察しがついた。でもその知らせは、全く予期のできなかったこと。起こるはずのないと思っていたこと。


この日、僕の8歳年下の従兄弟がなくなりました。離れていたところに住んでいて、会えるのは年2回ほどだったけれど僕にとっては幼い頃から遊んできた弟も同然な存在。聞いた時には理解できるはずの言葉と意味に乖離があるようで、しばらく動くこともできない放心の中にいました。


優しくて活発。祖父母の家で再会しては、サッカー、野球、いろんなことをして遊びました。幼い頃から、人間性の優れているところを随所に見せ、同じ年頃だった自分と比べてはよく尊敬の念を抱かされました。歳を超えて、自分より優っているところがたくさんあった。どのような日常を過ごしていたのか、知らないこともたくさんありますが、多くの人に好かれる人間だったこと。確信を持って言います。


自分の兄弟を含め、7人いる従兄弟の中で僕は最年長です。愚かだったのか、みんなが僕より長く生きることを疑ったことはありませんでした。ともに成長して、人生の中でいろんなことを語り合えると思っていた。お互いの掴む幸せを祝い合えるものだと思っていた。描いていた未来が、成し得ることのできないビジョンになってしまいました。力強い言葉ではありません、そこに順番なんてないことを知りました。どんなに愛おしく思っている存在でも、他人である以上、その身に起きることは僕の力の遠く及ばないところにあります。自分にも訪れることだけが事実としてあり、いつそれが目の前に現れるかなんてわからない。自分の経験と照らした時、これから本当の楽しさが待っていて。いろいろな束縛から徐々に解き放たれる、その間近に立っていたのに。


繊細さは、誰しもが持っています。その中で人の感情の機微をより鋭く感じとることのできる、他に類をみない繊細さを先天的に持った人々がいます。僕はこれがやさしさだと思う。得難く、素晴らしいこの能力は、世が世なら地球の上にいて燦然と輝いたに相違ありません。彼もそんな人間の一人でした。しかし時代経るごとに複雑さを増すばかりの世の中は、彼らを苦しめるばかりなのかもしれません。人生の中で、この能力に秀でた素敵な人間に何度か出会ってきました。しかし21歳になった今、多くは僕の前からいなくなってしまった。いくら会いたいと願っても叶わない。生活の中で、ふと彼らのことを想うことがあります。居場所もわからない彼らのことを。そんな人々が穏やかに暮らせる楽園が、地上にでも、天上にでもあってくれたら。またどこかで会えたら。死後のことなんて何もわからない僕は、今生の楽園の存在を心の底から願います。


自分が足元に及ばないほど、家族の皆さんや友人の皆さんは大きな感情を刻んで。言葉では足りないところに、今もまだ。悔しく、残念ながら届けられるものは持ちあわせていません。きっと見つけることもできない。そのことを承知で僕もしばらく多くのことが手につかなくて、投げ出したくなって。あらゆることが不確定なことに思えて。その中でやらなくてはならないこともあった。この時期、宙を彷徨っていた心の、僕の側にいてくれた方々への感謝は忘れません。この時から、明らかな明日はなくなりました。やりたいことを、そのまま放っておく猶予は少しもないと感じて。その日に思ったことは、言い残すことのないように。僕が今ここにいること。こうして旅をしていること。全てをそれで説明するつもりはありませんが、やはりどこかにその存在がありました。この決断が自分の意志だけでなされたと思えるほどの強さが、内には見あたらないので。


喜び以上に、辛いこと、悲しいことは僕らを激しく包みます。いつになってもわからないことばかりに溢れた若さは、まっすぐ歩くことさえ難しい。定まらない自我に、それぞれ恐ろしくなるような残酷さを抱えている。そんな日々に、もう終わらせてしまいたくなることもある。


"全てが未確定。春、夏、秋、自分がどこにいるかもわからない。真面目に取り組んだことも、天気一つで馬鹿げたものに思える。心から楽しんだ日の翌日は、大抵悲しくなっていっそ死んでしまおうかと思う。何かを埋めてくれるかとぼんやりたくさんの人の波に呑まれてみるけど、なんだかより虚しくなった。本音なんか語らずに、道化けているのが一番楽だ。人を信頼したところで損をするばかりじゃないか。責任のある言葉なんて言えないよ、そしたらなんで他人に期待できるんだ。明日はあると思っていたけれど、結局今日の繰り返し。過去になった日々は"バカ"の二文字で振り返られる。それでも何か悪くない。信じずとも、疑わず。蝋燭の灯りでもあれば、道を歩くことができる。たまの晴れ間があれば、汚れた服を洗ってしまおう。積み重なる否定は、肯定をさえ大きくしてくれる。凡ゆることが下手くそなのには、もう慣れた。掴んだと思ったものが手をすり抜けていくことにも、もう慣れた。悩まされた矛盾だって、角度を変えればとても愛おしく見えてくる。そんな今日も生きたんだから、きっと明日も生きていく。"

「今日と明日」


こうして歩いている。何かの拍子に思い出しては、誰でもない自分だけの形で静かな祈りを捧げる。陳腐な表現の力を借りますが、僕の存在する限り彼もまた僕の中で生き続けていて。いくらでもこの眼を使って、見ることのできなかった風景を見てほしい。この音を、この匂いを、この想いを。そしてまた逢う日を夢見ている。会えなくなることを何より恐れながら、大切な人たちにもしばらく会えない道を選びました。それでも心はそばにある。少なくとも僕のものはすぐそばに。何があるかわからない、その中で。お願いがあります。生きて、生きてください。その積み重ねの先にまた逢えた時には、新しく出逢うことができた時には一時全てを忘れて、馬鹿なことばかり話しましょう。笑いましょう。人との別れ以外は、笑い話にできる。教えてくれたのは、哀しみなのかもしれません。変わっても、変わらなくても、そんなことはどうでもいいから。


2017年1月18日。僕は絶対に生きて、再び母国の地を踏むことを約束します。それからも、君の声を抱いて。


おくりもの

日曜日、どこかへ行きたくなったのでマタトゥに乗って。意図していた行き先とは違うところに連れていかれたので、しょうがなく降りて歩く。この日は久しぶりに靴を履いていました。施設はただ立っていても汚れるようなところなので、平日はいつもサンダルです。久しぶりに履くと、その心地の良さに驚いて。歩ける、歩きたいとなりました。十字路に差し掛かり、最初に選んだ道はいくら進んでも建物が見えてこないので元の場所へ引き返す。かなりいい性格をしています。次に進んだ道は、少し行くとありました超近代的なモール。これは日本にあっても、たくさんの集客が見込めるだろうというような施設でした。コールドストーンまである。周りの道路が工事中だったことから察して、かなり新しいことがわかります。自分が降りた場所も、この施設の名前も僕にはわかりません。無料のWi-Fiが飛んでいたので、ライン電話をする。主たる目的はこれでした。本当にありがとうございました。自分が無口ではないことを再確認。学校の子供達はみな鉛筆を使っています。消しゴムすら持っておらず、鉛筆の上についた小さいやつで一生懸命消している。文房具コーナーにいくと、我らがPILOT製品がたくさん並んでいました。ここにもボールペンはあれど、シャーペンとその芯がないことからケニアでは普及していないようです。自分のクラスの人数だけ消しゴムを購入しました。喜ぶ顔が眼に浮かぶ。こういうところに来ると必ずすること。非常に心を躍らせながら、インスタント食品のコーナーを目指す。ここならカップヌードルを置いているかもしれない。結局ここにもなくて落胆。昼ごはんはサブウェイで。その他にもたくさんの飲食店。2000円以上する料理を見たのはいつぶりだろうか。スタッフと書かれたビブスを着た男たちが、セグウェイに乗って走り回っている。客層を見ていると、驚くほど白人やアジア人がいて。半分は彼らに占められていたのではないかと思います。ナオミの言ってたように、この国の所得格差は日本の比ではないようです。敷地内には人口の池、ボートまで用意されている。どこにいるのか、油断するとわからなくなりそうでした。


家に帰った後、夕食を食べてから1人でパブに出かけました。純粋な欲求からか、日常生活のプライドからか、どうしてもビールが飲みたくなった。週に一度は許してほしいところです。「頼む一杯でいいから奢ってくれ」これは飲んでいると現地の方に頻繁に言われることです。今夜のお相手は30歳。少し悲しい気持ちになります。年下にねだるようなことが、この先自分にないといいのですが。ビン1杯で十分気持ちよくなれるので、かなりいい体質をしています。こんなことでも、曜日感覚を失いやすい旅に休日感を与えてくれます。「お前は毎日が休日だろ」その通りです。


また平日が始まり、学校へ。これが最終週。通い慣れた道が、すでに少し寂しい気持ちににさせられる。なんでも口に入れる愛すべき生徒たち。あげた消しゴムも、しばらく経つと彼らの口の中にありました。「やめなさい」ちょっと笑ってしまう。この日の昼食は先日届いたチーズをふんだんに使って、ジャガイモと混ぜたもの。2週間、昼ごはんはウガリに豆か野菜。これが必ずだったので、少し違和感があります。正直、手で食べるウガリの方が好きです。


休み時間、隣のクラスに連れていかれて何かと思ったら、男の子2人が手紙を渡してくれました。少し早くないかとも思いましたが、3年生でよく僕の手を繋いでくれるこの2人。自分のノートを2枚ちぎって、1枚を便箋に、1枚を封筒に。封筒には絵を描いてくれて装飾がしてあります。こんなにもらって嬉しかったものもそうありません。結局、ここでも僕が与えられる。1人でものすごく感動的な気持ちになってしまって、午後の授業は穏やかな気持ちで迎えました。


これをもらって喜んでいる姿を見ていた自クラスの生徒たち。みんな大切なノートをちぎって手紙を作ってくれる。どちらかと言うと封筒に絵を描くことに必死です。それもこっちが授業をしているのをそっちのけで没頭。叱るにも、叱れない僕。ノリも持っていない彼ら。この封筒をとめてある粘着力のある物体は果たしてなんなんだ。それでも彼らの気持ちを思えば、僕はそれを舐めてもいいような気分です。一生懸命勉強している英語で書かれた手紙の内容はどれも似たような、いやほぼ同じといって差し支えない。翻訳して一部抜粋させていただきますと


"僕はゆうたをとても愛しています。あなたに神のご加護がありますように。僕の名前は○○です。僕はあなたを愛しています。あなたに神のご加護がありますように。ゆうたに神のご加護がありますように。僕のことを忘れないでね。"


泣かせるじゃないかキッズ。結局8通ももらってしまいました。それにしても、特定の神を信仰していない僕にご加護は与えられるのでしょうか。神様、これだけの無垢な子供たちが僕のために祈ってくれているのだから、ぜひとも僕を無事に日本まで導いてください。どうかよろしく。これはいつまでたっても捨てられないだろう。どこかのタイミングで盗られることを覚悟していたバックパックも、死守しなければならないという気が芽生えてきた。


f:id:GB_Huckleberry:20170119003346j:plain


ここでの生活は家と学校との往復ばかりで成り立っていて、子どものそばにいることがなにより大事に思えるので他を探検するでもなく、少し離れるとわからないことばかりだ。学校の終わった後、その周りを案内してもらって新鮮さを味わいました。学校ばかりでは退屈だろうと言う方々の気遣いはとてもありがたいけれど、本音を言うとやっぱり子どもたちと少しでも一緒に居られることが僕にとっては何よりも嬉しい。終わりが近づいて、その想いは増すばかりです。


家路の途中で、今日もハンバーガーを食べて。心なしかへこんでいたお腹が、ぽっこりし始めてきたような。これはいけない筋トレだ。腹筋2回。よし終わり。ここを離れたら、またへこむばかり、なはず、です。麺への愛ばかり語ってきましたが、やっぱり1番は「日本人の心」お米です。お米を食べられるのもせいぜい週2回といったところです。それも日本の米とは似て非なるもの。そして今日はモンスターなんぞを飲みましたが、緑茶です。緑茶が飲みたい。コカコーラ製品は世界中どこにでも、しかしそこに日本では当たり前のように並ぶお茶の姿は見当たらないのです。コンビニでお〜いお茶とツナマヨのおにぎりをセットで買う。チープながら、無性にこれをしたくなることがあります。今はよくてコーラとチキン。


誇ってください、日本人のみなさん。あなた方はたいへんにスマートな体型をしていらっしゃる。世界基準になった今の僕の目には、必要以上にテレビに登場する大型の女性芸人たちが標準体型に見えることでしょう。世界中には、僕が2人入るパンツを履いた人々がどれだけいることか。1度世界に出るといい、あなたのちっぽけな悩みなんかたちどころに消えてしまうはずです。自信を持ってください。まあそんなことは、どうでもいいのだけど。