「微笑みの国」から

このところ食べているものの中に虫を発見することがよくあります。特にスープ系の料理には、それこそ付き物のように。いつまでかの自分なら、発見した後は嫌になって残したかもしれない。今の僕は気にせず完食できるんです。それを喜びはじめたら、ただの変人なんでしょうけど、よっぽど枠をはみ出さない程度に気になるものが少なくなるのは成長でもあるんじゃないかな。大切なものは、なんだろう。たくさんの星を旅した星の王子さまと、自分を重ねたりしています。でも「大切なものは、目に見えないんだ」って。毎日たくさんのものを自分の目で見ているけど、ただ見ただけじゃだめなのかな。見たからこそ、そこにはない大切なものに気がつくのではないかな。そしてバラのことを考えたりします。ありきたりだけど、特別なんです。もともと持っていたのかすらあやしい自分ですが、広く捉えさせてもらうと、やはり大事なものが待っている。僕が帰るのに距離は問題になりません。気持ちです。王子さまよりはよっぽど簡単だろうけど、自分にとってはまだ難しい。それまで、どうか枯れないでいてください。


午後6時に出発したバスは順調に走っていきました。隣の席はJICAの支援で日本にいたことがあると言うおじさん。ラオスではかなりのエリートだと思います。最初は肩や足が当たることに、嫌悪感を抱いていました。なんとも小さいですが、他人と触れるのが苦手なんです。日本語で話しかけられてその気持ちはかなり和らぎました。単純というか、調子がいいというか。何度か目覚めながらも翌朝7時に国境に近いバスステーションに到着。2時間ほど待って次のバスに乗り込む。


タイへの入国。これは今までで最も簡単でした。荷物をチェックされるでもなく、長時間待たされるようなこともない。国境では苦労ばかりで、いい思い出はなかったので、順調にいくということがとても嬉しかった。出国、入国と難なくにスタンプをもらいました。そして3台目のミニバスに乗る。アメリカ人かというような、かなりヘビーでノリのいい運転手さん。かなり飛ばして、頻繁に前の車を追い越していく。怖さから、僕だけシートベルトをしていました。ケニア以来、久しぶりの右ハンドル、左側通行。運転がしたくなる。


途中の休憩所には日本のお菓子がたくさんありました。コアラのマーチなんかは日本語で書いてある。ずっと欲していた「おいしい」と書かれたペットボトルの緑茶。飲んでびっくり甘い緑茶。中国ではと聞いていましたが、タイ、お前もか。日本人は絶対に「おいしい」なんて言わないからな。


車線が同じなのもあってか、田舎道の風景はさながら母国にいるみたいでした。山の麓に点在する民家なんか、神奈川も西の方に行けばよく見かける。このまま真っ直ぐに進んだら、日本に着くんじゃないかなという気持ちになりました。たくさんある畑に備え付けられたスプリンクラーはスタンドがあって、上部が回転して水が撒かれている。これが大きなたんぽぽの綿毛みたいで、綺麗でした。区画の整った田圃が並んで、街が近づくと頻繁にセブンイレブンがあるんです。おにぎりが売っていたら嬉しいな。14時ごろにチェンマイに到着。かれこれ今回も20時間近くかかりました。途中は座っているだけですが、休めているかと言われたらそうではありません。猛暑の中、宿まで歩きました。滞在の評価も高く、なおかつ1泊300円ですよ。天国か。


部屋も快適で心地がいいので横になって休む。チェンマイには、イェルサレムと同様、旧市街と呼ばれる区画があって。あれほどの城壁があるわけではないにしろ、壁で覆われています。そこから歩いてすぐのところに泊まって、夕方ごろ食事を求めて散策。屋台が歩道に並んで、それまで3食はお菓子で我慢していたので、はしごして空腹を満たす。2軒目はSUKIYAKIという料理を50バーツで。日本のそのものではありませんが、おいしかった。"幸せは雲の上に 幸せは空の上に" あとはもう帰って休むだけの日。


翌日も消極的な日にしようと思って、半分はベッドにいました。暑くならないうちに朝から旧市街を散歩。何も調べることなく、行き当たりバッタリで。タイもワット、ワット、ワット。お寺がこれでもかというほどあります。たまたま通りから外れたところに、他よりも古そうなものが1つあったので引き寄せられるように入ってみました。工事中ではありましたが、自然と調和のとれた落ち着けるところ。自然との親和力を持つ、これは仏教の魅力ではないかと思います。建物の中に入ると、お坊さんが3人家族に説教をしているところでした。笑顔で話すこの人がとても感じがいい人で、鶴瓶さんもこんな方ではないのかなという、人の懐に入っていけるような話し方、笑顔の持ち主でした。普段はしないことですが、どうしてもこの人を残したくて写真を撮らせてもらう。別れ際に「さようなら」と言ってくれました。


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微笑みの国。笑うことの大切さを教わるこの旅で、どんなものかと楽しみにしていました。ただ発展する中で、薄れていくこの国の特性。街中でそれを感じる機会は、残念ながら多くありません。その精神の尊さを今に残してくれている人。名も知らぬお寺の境内に1人、この旅で得たものは間違ってなかったと教えてくれる場所。


そのあとはカフェに行って、サンドイッチとスムージー。最近どうも甘いものが欲しくなってなりません。長く人と行動を共にしていたことで、胃袋も大きさを取り戻したみたいです。食後のコーヒーをすすりながら、落ち着いて考えを整理する時間。少し高くつきましたが、おいしかったからよしとします。宿に戻って夕方まで、またダラダラして、日暮れの時に近くのお寺を見て周る。疲れているのか、冴えているのか、変なところに目が行く日でした。赤いものばかりの風景にシャッターを押す。アップで右乳首越しの大仏の顔を撮る。ゾウの置物を見て、あいつらはエロ目をしているなと思う。セブンイレブンで野菜ジュースとあんぱん、カップヌードルを買って帰る。できるうちにしておかなければ、これはきっと東南アジアだからこそできること。そしてまたベッドに入りました。休まった感覚は十二分にあるので、明日はまた動いてみようかな。チェンマイは街並みが整い、緑が植えられ、歴史ある建造物が並ぶ中に不便さはほとんどないに等しい。そんなところです。


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上の出来事。これは今日のことなんです。最近は更新が後々になっていました。せっかくの旅行記は、得た感情に鮮度があるうちに。賞味期限は3日くらいあって、なんとか辿って書くこともできる、食べられないことはないけれど、やっぱりできたてが1番美味しいよね。そんな気持ちなんです。またこれから先どうなって行くかはわかりませんが、気持ちを新たに。今日で出発から3ヶ月がたちました。新しい月のはじまりに、お互い頑張っていきましょう。

あの日と同じメコン川

備えあれば憂いなしとはよく言ったものですが、あまりの物質的な備えは起こるかもしれない事態を暗示しているようで、気持ちの上に重力を強めます。例えば、船の座席にむき出しのまま備えられた救命胴衣。


人は川や海を前にして、船を彫ることを覚えた。詳しいことはわかりませんが、人間が生み出した最初の乗り物ではないでしょうか。それでいて今では多くの人にとって、1番縁遠い乗り物かもしれません。僕はテーマパーク別にしたら、数えられるほどしか乗ったことがない。そんな船が今でも生活に欠かせないこの街、ルアンパバーン


2日目は朝からパクウーの洞窟にいきました。船でしかいけない断崖絶壁に建てられた寺院。朝早くからトゥクトゥクが宿まで迎えに来てくれる。そして川辺にあるボート乗り場まで。そこでチケットをもらい、出発を待つ。朝晩はいくらか冷え込む、この時期の東南アジア。寝起きの僕には気持ちがいい。そして乗船。大河メコンはアジアの複数の国々にまたがって、人々の暮らしに恵みを。そして交通のためにも役立っています。去年までの2回のベトナムではメコン川のクルージングツアーに参加しました。初めはその大きさや、水上で生活する人々の姿に驚かされたのを覚えています。


1度のトイレ休憩を挟んで舟は進んで行く。水上のガソリンスタンドやレストラン。両岸には牛や水牛の姿が見受けられます。小舟に乗って釣りをする人。洗濯をする現地の人々。とにかく穏やかなんです。思った以上に長い道中、寝てしまう人も多い。油断すると水を浴びたりもする。理由はわかりませんが、途中もう一艘の船から乗客が全員移ってくる。故障でもしたのでしょうか。6人でゆったり使っていた船内は、ほとんど満帆になる。それに加えて移ってくだ人々は人種は様々なれど、体躯はヘビー級。水にかなり沈み込むようになりました。結局1時間半ほどかかって到着。40分後に再び船にという意外とタイトな制限付き。


入場料20,000キップを支払って入場。着くなりすぐそこに1つ目の洞窟があります。階段を少し登って内側に入ると、そこには無数の仏像が並んでいる。一方にではなく四方、囲むようにして、大小様々な大きさの神様の目を浴びて。ただビエンチャンではより多くの数を一度に目にする機会があったため、それ自体に大きな感動はありませんでした。ただ何でこんな場所、断崖絶壁に建てられているのかという不思議。さらに上に続いていく階段があり、もちろん登ったのですが、10分程度の道中、20人ほどいるお菓子を手に売っている子供達の姿が痛ましくて。自分が置かれた状況理解してでの顔なのか、大人に教えられた、見よう見まねで作る表情なのか。子供は本当に好きなんですが、自分の意思で立っているはずがなく、その裏にあるものへの怒りに近いものを覚えます。最初は単に親たち、しかし考えれば考えるほど、その背後にいるものは大きさを増し、得体の知れない黒い影が現れます。そんな気持ちでついた頂上には、懐中電灯がなければ歩けないほど暗い洞窟の中に、やはり仏像が並べられていました。思ったほどの眺望もなく、決められた40分の滞在は、階段を降りて終了。何でこんなところに?という面白さは、もう何遍も味わってきたので印象は薄く。ただ目的地以上にメコン川で揺られたことの方が大事に思うツアーでした。


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概してラオスの仏像は目が細く、離れているのが特徴的です。細いのは一般的だとは思うのですが、眉間が広いのは何かしら尊いイメージを与えます。ケニアの学校にシャリーンという女の子がいて、ちょうどこんな顔をしていた。10歳程度ながら、どこか落ち着いた印象を与える顔。彼女のことを思い出しました。ラオスに連れてきたら、人々に拝まれるようなことが起こるかもしれません。ああ、恋しい。


昼食を摂ってから宿に戻りました。さすがにここで詰めてきた予定も終わり。大事なポイントはかなり押さえたと思います。翌日に弟は日本に帰ることになっていたので、荷物を準備。お互い昨晩はシャワーを浴びていなかったので、昼過ぎに順に済ませる。それなりに疲労も溜まり、ベッドで休憩。そしてカフェに行きマッタリ。僕自身、次の行き先も決めていなかったので悩む。挙句、タイのチェンマイに決めました。夕暮れ時になって、2日連続、この日は川に近いところから夕陽を見ることに。


前日とは打って変わって、人は僕たちを含めて数組しかいない。相変わらず夕陽のよく映える空。色味を刻一刻と強い暖色に包み込んでいく太陽。人の動きによる感情も心に入り込んできたのとは違い、ほとんどその美しさで満たされる。視界の両端には木々があって限られた構図の中に、タイミングよく船が入り込んでくる。陽を受けて形ばかりが黒く浮き上がっている。考え事も吹き飛んで、理由もなく涙が零れそうになる。いつまでも、いつまでも見ていたいと思う。黄昏のこんな時間が僕は何より好きです。


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その近くにあったレストランに入って、2人で最後の晩餐。焼き魚をこれでもかと言うほど綺麗に平らげる。兄弟の間にあるのは、切っても切れない血の絆。決して趣味が一緒だったり、同じものを同じように見るわけではない。友人はもう気の合う仲間ばかりになった今、ただ1人の弟との関係は面倒臭くもありながら、有難いものだと思う。高校生なのに思いつきで会いにくるあたりは、共通しているところも強く感じます。いや、むしろ大物かもしれない。宿に帰って、この日は早いうちに眠りにつきました。


翌朝は12時前に空港に向かう弟と宿で過ごす。オーナーの娘さん、5歳ほどの女の子に気に入られ、遊ばれる彼。最初は清潔感とはかけ離れたこの場所がきつそうだったのも「住めば都だね」と言い残して去っていきました。慣れとは恐ろしく、頼もしい。再会は3ヶ月、4ヶ月、5ヶ月、どうなりますやら。どうか元気で。


人のことばかりではなく自分自身も。6時に迎えがくるということでゆっくりカフェで暇を潰しました。体の力を抜いてリラックス。思えば最初の2ヶ月とは180度変わったかのように、この1ヶ月はきっと日本語を1番話しました。そういう縁に恵まれた期間。そしてせっかく溜まったはずの国籍を超えるための経験値も、リセットに近いところまで行ってしまっている。それでも0でなければ、もしくは上がるスピードが速くなっているのであればいいです。そのカフェの壁に中学に進める12歳から18歳の子供は46パーセント。識字率は30パーセントと僕を現実に引きもどされるポスターがかけられていました。先日この街に団体で学校を作りに来ているの日本人に会いました。年下がほとんどで、立派なことだと思う。それが継続される道筋がしっかり見ているのかは気になるところですが、頑張ってほしいです。これから状況が改善されることを祈って、最終日も夕陽を、トゥクトゥクから見ながら別れを告げる。


社会の荒波に揉まれた日本人にとって、すでにここは桃源郷のように思えます。それだけの雰囲気を感じる、穏やかな時間を過ごすことができました。最近のハードなスケジュールで疲れたので、次の街ではとにかくゆっくりしたいです。東南アジアに来てからは、ハリケーンのように速く動きすぎた。充実はするんですが、保たないです。


次は「微笑みの国」タイからお送りします。

ルアンパバーンはいいところ

ルアンパバーン1日目。朝から周っても周りきれないお寺へ。お寺の名前は省かせてもらいます。大事なところかもしれませんが、来ればわかります、いくらでもあるし歩いていける。ビエンチャンと特に様式が変わるわけではありません。ただこの地域はラオ族ではなく、モン族が多く暮らす地域。モン族の方々は仏教ではなく、土着の精霊信仰を持っているそうです。自然を崇める。何となく日本との共通点も見つけられて、愛着を持つ。東南アジアに来る前、踏んだ中東の大地。様々な宗教の母胎となったその土地では、荒涼、人に牙を剥くのが自然。熱帯地域で生息する動植物に違いこそあれ、日本と同様雄大な川とやさしい緑が広がるラオスでは、時に圧倒的な力に呑み込まれながらも受けた恩恵の方が遥かに大きいのではないでしょうか。人は自然に感謝しながらそこで暮らす。太陽は乾かすものではなく、暖めてくれるもの。人が求めるものは時代とともに大きく、複雑で微細に。根源的にはもっと明確なものにあったのではないか。そう思うと、三大宗教の1つ仏教の源、インドが俄然楽しみになる。そんな場所に引き寄せられている気さえしてきます。


11時に宿に戻る。ここからバンに乗り込み、クアンシーの滝へ。上記のことも相まって、ルアンパバーンには寺院もさることながら自然によって作られた名所も複数あります。片道1時間、公園への入場料も含めて10,000kip(約1400円)。12時半に到着後、15時までの自由時間を与えられます。上部に大きな滝が、下ると泳げるスペースがあります。アフリカにはバックパックを背負った白人がたくさんいました。それは距離が近いからだと思っていました。今アジアにきて、やはり白人がたくさんいる。旅をすることが当たり前のように根付いているみたいです。弟が水着を持ってくるというファインプレーを見せたので、宿から装着して。暑い気温に、想像以上に冷たい水温。慣れてしまえば驚くほど気持ちいい。時々水深がかなり深くなっていて、ろくに泳げない僕は半ば溺れるようになりながら。「泳ぐ」という言葉には、「楽しい」っていう意味も含まれていて。水に浸かりながらもつまらなかったというエピソードは、思ってみれば自分の中には存在しません。他の観光客の皆さんには申し訳ありませんでしたが、全身を洗う意味も込めて。上がった後は、久しぶりに頭がスッキリしたようでした。思い出しました、泳いだ後は眠くなる。宿に帰ってしばし休憩。それでもラオス、自分としてはかなり綿密な計画を持っているんです。


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4時半に再び出発。歩いて5分ほどのところにあるプーシーの丘へ。ここはメコン川越しに夕日の見える観光スポットになっています。なるほど、頂上に着くと日没を30分前に控えて、すでにたくさんの人が集まっていました。ギリギリで座れる場所を確保することができた。既に十分綺麗ではありましたが、フィナーレを迎えるまでは少し暇です。多くの人は自撮りに精を出す。中国から方々が僅かな隙間に入り込んできて、改めて積極性に感心する。余裕のあった自分のスペースは、体育座りがやっとなほどに縮まりました。そんなことはどこ吹く風、隣にきたおばさん2人組も自撮りに夢中。22でも自撮りをすることがむず痒く感じる僕には羨ましく思えます。そしていよいよ太陽は山との距離が短くなっていく。山際になるとよくわかります。太陽は思った以上に速いスピードで進んでいることが。晴天の空のちょうどいいところに雲があって、幻想的な光のアートを演出してくれる。光はあらゆる方向に広がる。人のことなどお構いなく立ち上がり、僕の夕陽を塞いだおばさん、最初は面白いと思って彼女の脇から眺めていました。勿体無くなって自分も立ち上がる。オレンジ色の光に照らされて、同じようにそれを見つめるたくさんの人々。メコン川の水面も暖かい色に染められて、はっきりと1本の筋を映し出す。いろんなことを思い出させるのが夕陽。人の心の汚れは日中の太陽ではなかなか落とせない。それをいとも容易く洗ってくれるのが夕陽。沈んでしまうと人は揃って下山していく。それでも山の後ろで輝き続ける太陽は、以前と空を幻想的な色に染めている。赤みを増した空。僕はこっちの方が好きかもしれない。満足した頃には、あれだけいた人々がほとんどいなくなっている。「よし、行くか」


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丘からの下っていくと、片脚に包帯を巻いた男性がゆっくり、一生懸命に急な階段を降りている。日本人でした。脚を折りながら、ここを登ることを選んだ根性に敬服する。一緒に下まで行って再会を約束する。ビエンチャンにもあったようなナイトマーケットがここにもありました。昼間はただの道路であるところに、日が暮れはじめるとどこからともなく現地の人たちが集まって、気がつくとテントが続く光景に変わっている。これはラオスならどの街でもあることなんでしょうか。歩いていると「こんにちはー」と声をかけられた。その声の方向に目をやると、日本人のお兄さんがジュース屋で働いている。話を聞くと、大学生で休みの度ルアンパバーンを訪れ、これが7回目だというお兄さん。同様に声を掛けられた日本人が店の奥にたくさん集まっている。脚に包帯を巻いた、先ほどの男性の姿も。思った以上に早い再会。せっかくだからと輪に入れてもらう。この時には僕たちを含めて日本人8人。この後入れ替わり立ち替わりしながら、結局11時ごろまでここに居座りました。最初からウィスキー入りのジュースを飲んでやられた僕と、何度もビールを買い足しにいく青年たち。全員が日本語で話せることに喜びを感じているようで、場は冷めることなく時間ばかりが経つ。体育会系なルックスを持った男ばかりで、もやしは僕ばかり。ずっと部活に没頭してきた奴らの会話はわかりやすく、気持ちがいい。最後には夏、東京でラオス会を開く約束をして別れました。自己紹介をすることもなく、名前すらわからない。ただただ楽しい夜だった。


ルアンパバーン1日目終了。アルコールによる頭痛でなかなか寝付けませんでしたが、かなり充実した1日。弟も楽しんでくれているようで安心。ここはしっかりと予定を立てても数日間は確実にいられる街です。近隣のタイ、ベトナムカンボジアなどが日本では有名なように思いますが、この穏やかな雰囲気、穏やかな人々。嫌になる人はまずいないと思います。そしてベトナムよりも可愛い子が多い。それも合わせて、ラオスをお勧めします。

流れ、流され、10カ国

出発してからの日々。僕はとても長く、今までのどの期間よりも長いように感じています。それは友人に連絡を取るとよく伝えることの一つ。

ある人は言いった。いいことだ。それだけ濃い時間を過ごしているということだね。

またある人は、それは良くないんじゃないかな。きっと日本を恋しく思っているんだよ。

聞くと、どちらもそうだなと思う。でも2つは対局にあります。楽しみながらも寂しい気持ちもある。そんなはっきりしない心境のまま、それでもやることは続けることだけ。はっきりと定まって見えることなんて、ちょっとしかないんです。

弟と合流するために足早にフエを去って、1つの大台、記念すべき10カ国目はラオスです。穏やかな首都ビエンチャン。アフリカでも中心部はごちゃごちゃという擬音が使える。ここはそんな言葉と無縁の街です。車の量が多いでもない、高い建物が並ぶわけでもない。人が集まっているという印象もありません。そんなことがとても新鮮に感じます。一泊1000円以下でダブルルーム。弟と2人で1つのベッド。なんかちょっと恥ずかしいですが、いつかは2人で旅行にと思っていたのが早くも叶いました。とても清潔、朝食にバリエーションのあるアリホームステイ。歩くとすぐに川があり、対岸はタイです。コップンカー。しっかりと1日の計画を立て、場所をチェックしてから出発。東南アジアらしさが色濃く残る国。つまり仏教の寺院が5分歩けば1つは現れる。ここもやはり暑いんです。昼間は35度以上が当たり前、受験で真っ白になった弟の肌がみるみる焼かれていく。

まずはワット・シーサケット。元の様式が現存する最古のお寺は、お堂を囲むように大量の仏像が並べられています。以前は目などに宝石がはめ込まれていたそうですが、戦火の中消失。多くが朽ちて、完全な姿を残しているものは多くありません。顔もほとんど同じなので、四方を囲んでいるとはいえ、半分くらいでいいかとなる。第一印象は素晴らしい、三十三間堂と同じような数により圧倒されます。その後もお寺をいくつか周ったものの、名前もややこしく、そんなに大きな違いもないので、全てを正確に覚えることはできません。ベトナムにあるお寺のように電飾が強い存在感を放つことはなく、基本的には朱色をベースに金などで彩られています。自分としてはそれを見ると東南アジアに持っていたイメージと結びつけることができます。どのお寺も参拝するにあたり靴を脱いで中に入りしゃがむのですが、ここが強い日差しの中で影で一息つく役割を果たしてくれました。12時になってレストランに入って食事。ふんだんに使われた香草に苦戦するブラザー。そこからすぐにフランス統治下にあった影響から、凱旋門がまっすぐな通りに設けられています。ただ建築様式は西洋風ではなく、しっかりとラオス建築で建てられていました。均等な街灯や、噴水の広場などがありながら東洋風に創られた門は、なかなか面白い光景でした。

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また歩くことしばらく、我ながら完璧なルートでタート・ルアンへ。名前でピンとくる人はよっぽど地理歴史に強い方でしょうが、写真を見れば見覚えのある方も少ないないのでは。金ピカの大きな塔で、釈迦の遺物が収められていると言われています。塀が工事中で多少見栄えが良くなかったのが残念。「なんでお寺は金を使うんだろうね」と僕が宗教施設に抱いていた同じ気持ちを弟が述べるのを聞いて、血の力を感じました。「それ、俺も思ってた」この後休憩にとカフェに入って頼んだスムージーが美味しくて、ラオス滞在中は同じ味を求めて頻繁にカフェに行きました。

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トゥクトゥクで宿に帰って、各々日が暮れるのを待つ。道路を挟んだ向かい側に高校とその寮のようなものがありました。バルコニーから放課後、子供たちが一生懸命に筋トレなどをしているのを見て懐かしさに浸る。あの時に着けたはずの筋肉よ、何処。それを照らし出す夕陽。もう一度部活に入りたいとは思わないけれど、雰囲気に対する憧れはあります。体を動かして日が暮れる。帰ったら食事が待っているという楽しみだけで過ごす毎日。程遠い生活、体力、種類の違う精神力。


昼間はただの道路だった場所に、夕暮れとともにナイトマーケットが現れます。宿から1分ほど歩けばつくところから始まり、途中人酔いから踏破を断念するほどの距離で続いている。観光客がターゲットではなく、地元の人々が中心になって、日用品などが同じような赤い色のテントの下に並べられている。これが毎日開かれるらしので、これもまた種類の違う体力を感じさせられます。改めてアフリカでの景色と比べてみると、ラオスも裕福な国ではないにしても清潔感がよっぽど強い。売られているものの質も高く見えます。何店も販売する格安、パチモンの時計やサングラスは一体どこで生産されているのだろう。そして当たり前のようにそれを買う人々。本物か偽物かなんて、そんなことは全く問題ではないように。そんな態度に好意を持ってしまいます。そんなことに囚われない、生き方ができたらいいのにな。

そして晩御飯に「フレンチが美味しいらしい」という弟の進言に、レストランを探し始めたけれど、肝心のフランス料理がどんなものか2人ともわかっていない。結局ハンバーガーを頬張る僕。1日目はこれで終わり。これで主要なところは見尽くした感を得て、翌日早朝からルアンパバーンへバスで移動することに決定。ホーチミンを出たあたりから、頻繁に長時間移動を重ね、こんなことはもう人生で2度とないだろうというような気がします。24時間電車。中1日。18時間バス。中1日。12時間バス。これも綺麗なバスではありませんでしたが、座り心地はよかった。そんなことも関係ないくらいひたすらに山を上り下りする道。地図では近く見えたけれど、これだけ時間がかかる理由がよくわかる。通路側だった僕は、頭を左右に振り回され、睡眠をとることもままならない。字を読みたくても酔ってしまう。後で知り合った人が2、3日前にもバスが崖から落ちたと当たり前のように言うのを聞いて、納得の後からやってくる恐怖。生きていてよかった。国土の多くが山なラオス。見た景色は穏やかな緑が広がっていて。日本も経済が豊かでなかったらこんな道ばかり、車での移動はかなりの時間が必要であっただろうと思いました。

ルアンパバーンには暗くなってから着きました。弟に普段とかけ離れた生活を見せてもしょうがない、少し感じるところがあればと一泊500円のドミトリーを予約しました。着いてシャワーを浴びに行き、すぐに出てきた彼。「50匹以上虫がいる」感覚が麻痺した僕でも少しためらうくらいの場所で、衝撃が大きすぎたようです。弱気になっていくのを見て、3泊とってしまったけど大丈夫だろうか心配になる。

そんな試練もありながら、ルアンパバーンはものすごく素敵な場所でした。ビエンチャンを凌駕する穏やかさ。その詳細、あっという間に過ぎた滞在はこの次に。

3畳半じゃ狭すぎる

ベトナム最後の王朝が都を構えてたフエ。広い幅、豊富な水量を湛えたperfume riverのほとりにある王宮跡。対岸にある宿に泊まっていた僕は起床後、宿泊費に含まれた朝食を食べる。パンケーキとはいうものの、何でも米で作るベトナム人。これもたぶんお米でできたもので、餅のような感触、焼き続ければ煎餅になれそうなパンケーキ。米麺、ライスペーパー、恐るべき徹底ぶり。フランスに植民されていた名残で、フランスパンも豊富。食事はほとんどこの2パターンで成り立ちます。スライスされたバナナにチョコソース、それに甘いベトナムコーヒー。気分は最高ですが、近頃の乱れた食生活、糖尿病が気がかりでなりません。どうにか帰国まで無事に保ってほしい。


ホーチミンから北上したものの、ここもやはり暑い。昼間になると汗っかきの僕はハンカチが手放せなくなる。それでも大きな川のある風景は、そんな中でも少し涼しい気持ちにさせてくれます。王宮の周りもお堀があって、その手前も緑のある共用スペースになっている。旅の疲労と暑さから、頻繁に来る疲れをそんなところに座って休みながら。お堀に架かった小さな橋を渡り門をくぐるとその全貌が姿を見せます。立派な入り口に迎えられ、建物的には最初の5分がピークです。戦火などで焼けてしまい中央は、少しの栄華の跡と草原が広がっています。その周りには、明らかに近年建てられた綺麗な朱色に塗られた廊下がありました。そこにあるベンチで休むのは心地が良かった。思った以上の敷地の面積の中で、順序よく回ることも難しく、いくつかの古い建物、石に掘られた像などを目に留めて後にしました。ただただ居心地は良く、のんびり椅子に座ることのできる公園のような感覚。歩いてた時間よりベンチに座っていた時間の方が長かったと思います。水の豊富なところに都はできる。中には川から水が引かれ、鯉の泳ぐ池に、古風な建造物、茂る草花。一部の派手な装飾を除けば、その風景は日本人にも安心をもたらしてくれる、馴染みやすいところでした。


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そこから調べた中で一番惹かれたお寺を目指しました。4kmの道のりをダラダラ歩いていく。街全体がよく整備されているフエは暑さ以外は歩くのに適しています。これまでの国と比べると、落ちているゴミの数はかなり少ない。そういうところまで手が回る余裕は、人々の生活を一つ約束してくれるものであると思います。もしくはその一歩。途中バイクの勧誘だけはしつこく受けたのですが、相手にしなければ去っていく。よっぽど悪質な相手でない限り。気がつけば1時間ほどの道のりを踏破。その付近には売店や駐車場、たくさんの観光客がいたのでそれなりの場所ではあるようでした。日本のものとは様相が違うものの、7段になった塔が建っていました。漢字が掘られ、色調に、窓の文様、中華感が強く出ています。境内に足を運ぶと、たくさんの修行着のようなものをまとった女性がたくさんいました。こういう格好はなんだかスタイルの悪い方がよく似合う。ホーチミンで見たような金ピカで電飾が目立つものよりは、日本人でも安心できる雰囲気で、内部は厳かに参拝が行われていました。その横で観光客に大きな声で説明をするガイド。やはり場を壊すのではと思うのですが、宗教とはどこでも寛容な場合が多い。お金がってことなんでしょうか。それでも、お寺にいると教会、モスクとは違った落ち着きを得られるので、真に仏教徒ではないにしても少なからず自分の内に流れているように思いました。帰りは歩く気にはならなかったので、バイクに乗ることに。大事な価格交渉、12,000ドンと言われたのを6,000まで値切る。7,000でノーといい、6,000でイェスと言う。このたった50円の差に全く意味はないのですが、最近はできる限り安くしようと交渉から入る。何かに取り憑かれたかのように。


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晩御飯は近場のレストランで麺料理。ベトナムは食にはなんの文句もありません。安く、どれも美味しい。翌日からはバスでラオスへ、と言うことでベトナム最後の晩餐が少し名残惜しい。7時に宿に迎えが来ると言うことで、前夜から荷物をまとめ備えました。


翌朝バスは遅れに遅れる。せっかくの6時起きも無に帰する。なんだかんだ旅中はまだ寝坊もしてない。「帰巣本能があるから、出先で寝ても体力は50%しか回復しない」不吉なことを友人から言われ、そう言えば頭がぼうっとするのが取れないこの頃。寝てはいても緊張モードは続いているのかな。結局10時ごろにようやくバスに乗ることができました。寝台バスは初めてで、かなり快適なものを想像していました。実際は最後に乗ったこともあり、2段3列になってベッドが並んでいる一番後ろの下段。3畳半ほどのスペースで5人が横に並び、足も伸ばせないと言う悪状況。唯一の喜びは隣にお姉さんがいることくらい。ラオスには日本人はビザなしで入れるようになり、他の外国人を他所に簡単に入国。順調な旅を信じて疑わなかった僕に突きつけられた、5時間のバス待ち。入国審査場の先にある露店でひたすらに暇をつぶす。待ち疲れでヘトヘト、ようやくバスが来てこれで寝られる、お姉さんの隣で、という淡い期待も今回は何も僕を救わない。8時ごろになると、混血グラマーなお姉さんは下車し、そのスペースにラオス人のおっさんがズカズカ入ってくる。何を興奮したのか、他の客が寝静まっても、隣で2人の男が大声で話し続ける。最初はわざとらしい咳払いで不満を伝える。失敗。続いて英語で想いを伝える。失敗。最終的に人差し指を口に当てる仕草をする。成功。万国共通、ジェスチャーの偉大さを学びました。そんな18時間を経て朝の4時にラオスの首都ビエンチャンに到着。


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トゥクトゥクでホテルまで。そしてようやく部屋に入って、久しぶりに弟と再会。そうです、休み期間に入った弟がラオスまで遊びに来てくれました。1人でここまでちゃんと来たことに少し感動。気の利く彼が、キットカットじゃがりこを買って来てくれていて、再会の喜びもそこそこに日本のお菓子を堪能。ここから5日間彼とラオスを周りました。


次は兄の威厳を保つべく、しっかりとプランを立て、かなり充実したラオスでの日々について書きます。




長時間の電車がクセになる

6日間のホーチミン滞在を終え、向かうわベトナム最後の王朝が都を構えた街フエ。バスという選択肢もあったものの、選んだのは今再びの電車行。トータル24時間、寝台車もありましたがこの国ならある程度のクォリティーを望めるのではないかと普通席にする。4時間ほどの睡眠、眠い目をこすりながら13時10分発の電車に宿から30分ほど歩いて、駅に着いたのが12時40分。駅の雰囲気から、それがもう期待できるものではないことを察しました。2000円ほど払ってプラットホームへ。全体的に清潔感とは程遠い。車内に入ると、予想に反してほとんど空きがないほど人がいる。バックパックを背負った旅行者もちらほら。席も快適とは程遠い、狭く、硬いものでした。でもなぜだかワクワクします。景色を見ながら、音楽や本があれば50時間までは許容範囲。それに、宿代も浮き、なんだかゆっくり考え事ができるのが僕にとっての電車です。Wi-Fiなどもなく、ネットが使えないのも心地いい。座って間も無く、肘掛を我が物顔で這うGを発見しても、発狂するでもなく笑みがこぼれるくらい。なんだか肝が座ってきたみたい。


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隣に座ったのは5歳くらいの男の子。全ての人間が同じ言語を話すと思っているのか、僕をベトナム人と思ったのか、頻繁に話しかけてくれました。無垢な積極性。あいにくひとつの意味も掴めない。それでも話を続けてくれる。近くにいた母親はそんな息子に優しく「味の素って挨拶するのよ」噂では聞いていましたが、都市伝説だと思っていました。笑顔で「AJINOMOTO」と返すのが正解なのでしょうか。きっと起源には、よっぽどのホラ吹きでもいたのでしょう。汚しのプロ集団である子供達。その1人として、彼も30分ほどの乗車でその能力を遺憾なく発揮してくれました。スイカやアイスをこぼして、さようなら。


アフリカとの決定的な違い。それは時刻表に忠実に電車は走っていくことです。それに座席もしっかり管理されている。ベトナム人が乗降車して、外国人以外は頻繁に入れ替わる。大都会ホーチミンを離れて、少しずつ建物が低くなっていく。線路は変哲のない街中を縫って進んでいきます。うとうとしてきた、しばらく眠ってしまうと車窓からは田んぼが流れる景色に変わっている。日本との違いは、それが不規則な形をしていること。四角形ではないこともしばしばです。畦道もところどころ歩いたら崩れてしまいそう。青々と茂った稲が、電車の中まで匂いを運んでくれる。落ち着きをもらう。そんな田園風景の中にはそれを囲むように、アロエのような植物も広く栽培されています。そして所々、大きな墓が姿をあらわす。確かベトナムでは土葬が行われているはずです。1つ1つが日本のものより倍以上の大きさがあって、細かい装飾に、カラフルに塗装がされている。やはりベトナム人の派手好きは伝統的に刻まれてきたもののようです。見受けられる山も緑が映え、少し懐かしい気持ちに浸ります。日が暮れてしまうと、もう数少ない灯りが捉えられるほどで、どんな風景が広がっているのか分からないのが残念です。


途中、明らかに1席では収まらないくらいの大きく丸い体を持った白人のおじさんが乗ってきました。2度着替え、どれもベトナムのビールのロゴが入ったtシャツを着ていたのが、ぶれない人柄を表していました。どこからともなくウクレレを取り出し、演奏開始。大きい体に、小さいウクレレをよくもまあ器用に操るものだと感心しながら。ちょうどイヤホンを長時間装着して、痛くなりはじめていた耳の保養に。楽器が1つでもできたら、旅先でより楽しい思い出ができただろうなということは頻繁にあります。ホステルにはよくギターなどが置かれている。根気のいること、知っていましたか、ギターは持っているだけでは弾けるようにはなりませんよ。僕がいい例てす。周りのベトナム人が英語の歌詞に喜んでいて、音楽の力を改めて感じる。意味は分からなくても、リズムに乗ってしまえばいい。前に書いたように、本当に友人に東京タワーの文庫を持ってきてもらったので、読みはじめる。結局止まらなくなって寝る前には読了してしまう。もう少し大事に読み進めばいいものを。でもこれならば、何周でも読み続けられる気がします。同じように、近場からながら東京に吸い寄せられて、ぐるぐるぐるぐる、意味もわからない自由にしがみつきながら、流れていた毎日。自分にとって東京はどんな街だったかな。懐かしいキャンパスライフ。


日付が変わり、寝ようと思いながら、硬いイスと無数に駆け回る黒い影になかなか安心できる体勢を見つけられないでいました。結局楽になることはないことがわかる。もう腰が痛くてたまらないのだけど、前日の寝不足のおかげか、気づいたら日が昇っている。すぐにつかないことは、もう十分すぎるほどわかっています。経験から、こういう時に頻繁に時計を見るのは精神衛生上よろしくないことを学んだ。時間なんか分からなくて、日は沈み、また昇る。朝からなんだかいつまでたっても眠くて。夜にリクライニングした椅子が戻らなくなって、頭が自然と後ろになる。そのせいか何度も寝ては起きてを繰り返して、気づけば到着が間近に迫る。反対側の車窓からは海が流れていて、自分には無縁ですが、この国のリゾートの一端をのぞきました。そしてようやくフエに到着しました。


駅前でフォーを食べる。タクシーの勧誘かしつこくて、うんざりしました。英語も日本語も通じないと、こちらがいくら強い言葉を選んでも何の働きもしません。2kmは歩ける距離。ヨルダンで友人から教えてもらったアプリ「maps.me」があれば、オフラインでも自分の現在地がわかります。これはなんとも便利です。それをゲストハウスのある通りに合わせる。ホーチミンほど車やバイクも走っていないので、気持ちよく歩ける。空気も鼻から吸い込むのが苦にならない匂い。歩き始めたら、すぐに幅の広い川が目に入って。あひるボートや船も浮かんでいる。川岸は公園のようになり、たくさんの木や芝生が植えられています。都会的ではありませんが、綺麗で整理された街です。やっぱりベトナムは栄えている。そんな中に、時折歴史的な建物が目に入る。英語は話せなくても、道を尋ねれば一生懸命教えてくれて、やっぱり人間は大方親切です。宿に着いて、昼間からもう一眠り。夕方には、コンビニに行ってモナカとカップ麺、ビールという日本さながらの夕食。こんなのが幸せ。ただホーチミンにはたくさんあった日清のカップヌードルがここでは見つからない。買い込まなかったことへの後悔に苛まれる。しょうもない。


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昼間歩いていて、対岸に存在感を放っていた王宮。そこへ行った話はこの次に。


旅は続きます。

3年連続3回目

ベストナインみたいになりました。ベトナムホーチミン3回目。2年前、はじめて日本を離れていったのがこの国、この街でした。一昨年も、去年も、この2月に。日本の寒い時期に、この暖かさは現実味がなくて、それでいて嬉しかった。今年も同じように、寒かったヨルダンから。異国の地を踏んだ、その時の新しい感情、感動を思い出す。相変わらず派手がお好きな国民性。正月を祝う街は、まばゆいばかりの電飾でただの道路がテーマパークにいるようだ。その数は増えたかもしれない。タクシーに乗って、それが左ハンドル、右側通行であることを思い出した。というよりは憶えていませんでした。僕の記憶はとても曖昧で、やはりしっかりと記録を残しておくべきです。もしくは、他のものに完全に注意を引かれていて、このことは当時の僕には些細なことだったのかもしれません。窓から見慣れた風景が流れていくのは、安心を得られます。「帰ってきた」と言える場所。僕にとっては数えきれるほどしかない、その一つです。


そして変化に気がつきます。街にも自分にも。はじめていった時は対比に日本しか持ち合わせがなかった。おびただしいバイクの数は貧しさの象徴であると思った。清潔感のなさも同様に、20年間母国から出なかった僕にはイレギュラーなこと。人々が営む生活を見ていると、いかに自分が恵まれているかを思い知らされるような気分に浸って。話は飛躍して、長生きしようと思いました。他の国も自分の目で見てみたい。直に触れないとわからないことばかりだったから。その半年後にいったネパールで、僕の思考は幅を増しました。最貧国と呼ばれるその国に行ったことで、今まで2国間のみながら1番低いところにあったベトナムはネパールと日本との中間に移動した。「ここに比べたら、ベトナムは断然栄えている」そして3度目の今回はアフリカ、中東9カ国を周った直後の視点から。この国が今までに増して栄えて見えます。このことはデータとして起こされた経済水準からしても当然のことですが、明確に理解できるようになってきた感覚があります。前述のイルミネーションも、国によって異なる装飾が文化として培われているのも承知で、これだけの電力を供給できる国は一体どれくらいあるだろうかと。少なくとも今回の旅で訪れた国々の中で、自信を持って可能だろうと思えるのはイスラエルくらいです。あとは南アフリカなら大丈夫かな。


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僕の中の変化と同様、この国も確実に姿を変えている。日本ではもう見られないスピードで、この街は今も新しくなっていく。2年前とは歴然と、1年前とは漠然とながら、その光が強くなることは留まるところを知らないみたいに。多少自分の感覚が麻痺しているところもあるかもしれませんが、イルミネーションの数、未完ながら範囲の広がっている日本が協力している地下鉄の工事。こう言った目に見える成長を母国で見るには、生まれるのが遅すぎた僕にとっては、一国が伸びていく姿を見守ることは新鮮です。きっと自分の親や祖父母が体験してきたものと類似点はたくさんある。しかしそんな状況も、先を思って希望ばかりを持てないのも日本人であるがため。ましてや以前現地の方との会話の中で、都心の超高層ビルやマンションなどに住まうことができるのは、一握りのベトナム人と大多数の富裕な海外からの人々。そしてベトナムの中心の中心に限ったことばかりを話しているのみで、15分でも離れれば、そこにはほとんど変化が見受けられないはずです。


過去2回とは趣の異なった今回の滞在では、異国を見て肥やしにしたいと思って歩いた今までとは真逆に、この街で旅中一番母国と近くにいる証を探して歩きました。前回よりも中心に近いところにいたのもあり、そこには驚くほど日本という国があります。目にすることすら難しかった日本食は、望んだ以上、飽きすら催すほどに溢れていました。待ちに待ったラーメンを続けてお腹の中に収めてしまうと、心境は豹変し、せっかくの海外でそれらに触れることに嫌気がさしてくるのでした。またしばらく経つとそれらへの想いは膨らんでいくのでしょうが、東南アジアいる間は困ることもなさそうです。少し奥まった通りで、「カラオケスナック」という看板が5店も並んで軒を連ねているのを見たときは、もう自分がどこにいるかも見失ってしまいそうで。


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自分が2年前にこの地に降り立って得た経験、昨年再びのホーチミンで考えたこと。過去の自分と同じ境遇にいる友人たちのそばにいて、風景以上に彼らの内を見つめた5日間。違ったところもあるにせよ、当時の自分を引き合いに、頼もしく映った彼らの姿。修学旅行で行く原爆ドームひめゆりの塔は、感じるところもあるにせよ、大勢のクラスメイトに囲まれて暗い表情ばかりが続くわけではありません。16人、今回はそんな様相もありながら、個々に何かを掴もうとしてくれているのは明らかでした。ドクさんとも対面した彼らの経験は純粋に羨ましい。孤児院を訪れたときの行動や表情。感受性を剥き出しに、年齢など関係なく、それを高く持つことの大切さを教えてもらいました。これまで通ってきた施設で、今までよりはるかに多くのボランティアが活動し、設備もいくらか改善が見えて嬉しかった。何はともあれ、また来られて良かったと思うことができました。


あっという間に過ぎた日々。最終日は午前4時に彼らを見送って宿までの帰路。安心感とブルーな気持ちに揺れながら、バイクに乗った2人組のゲイにつきまとわれ、触られ、感傷に必要以上の感情を加えられました。2017年最初の予定。本旨とは離れたところで友人たちに静養できる環境をもらって、純粋に楽しい時間でした。感情とは別に、行動はいたって無私なものでしたが、そうできることが嬉しかった。そして会った数だけ寂しくなって。次に誰かと会う約束はまだありません。いつになるのか。接する大多数の人々が日本語を操るホーチミンでの生活。活力とともに、それにはしばらく触れなくていいような。コミュニケーションに苦労する日々に覚える奇妙な心の躍動。簡単なことが簡単に運ばない楽しさ。表情の機微や声のトーン、選ぶ言葉から相手のことがわかりすぎるのはここに居て嬉しいばかりではないことだと思う。わからないくらいの方がいい時もたくさんあるように思います。


日本に帰りたいと思う気持ちは薄れて、しかし明確にいきたい場所があるわけではない。改めて出発時の多くのものを自分の目で見たいということだけが、今はまた大きくあります。3度目とは言えど、ホーチミンを出たことのなかった今までから、他の街にもいってよりはっきりとしたベトナムを探していきたいと思います。