あなたへと続く道

 同じゲストハウスに宿泊しているお姉さんの腕にタトゥー発見。これ自体は珍しいことでもなく、むしろ当たり前のような光景。掘られているものは、遠くからだと、一見「人」という文字が隣り合わせに4つ並んでいるよう。わかる人ならわかる。アビーロードを横切る"あの4人"の姿です。今僕が滞在しているリシケシ。ビートルズのメンバーたちが50年近く前、マハリシのもと、瞑想に励んだ街。単純な僕も、それだけの理由で吸い寄せられて、より上流の、汚くはないガンガーを見下ろしながら生活をしています。


 ジャイサルメールでのキャメルサファリを終え、その日のうちに列車でデリーに移動しました。首都ニューデリーもすぐそこに。都会に戻ってきた僕の感情は想像してもらえると思います。煩い、臭い、疲れる。幸い砂漠から暑さだけは少し和らぎましたが、それでも40度近い。駅を出るなりに見慣れたはずの人の数に、改めて圧倒される。この国の中でも特に詐欺師が多いと言われる街。やっていける自信は全くありません。駅から出るなり、すぐ近くのところで30ルピーのボリューミーなカレーをいただき、そのまま翌日のバスを予約する。直接は電車がなく、経由せざるを得なかった。今すぐに抜け出したい。インド経験者の友人と意見が一致したこと、北インドの都会にいると自分の性格が荒んでいくのがよくわかります。そうさせる街も、そうなってしまう自分も気持ちいいものではありません。1泊予約してあったゲストハウスは"ママ"と呼ばれる、ここでは絶対的な力を握ったおばあさんが青年たちを働かせ、自分はほとんど1日中ベッドの上。腕なんかにも、考えられないほどの贅肉を蓄えています。着くなり軽い面接のようなものがはじまり、ドミトリーを予約していたのに空いていないと言われる。ほぼ同額でシングルになったので文句は言えませんが、完全に上からの一方的なものいいに「もうむちゃくちゃ」日本語でツッコんでしまう。


 翌日のバスは午後9時発ということもあり、荷物を置かせてもらい昼過ぎから街散策。と思って出かけたのですが、足元がなんだかフラフラ。肉、タンパク質が足りてないという安易な原因推測、マクドナルドに入って栄養補給。気温のおかげか、日中はそこまで人は多くない。多くなくてもクラクションは静まらない。歩きやすくはあったので、またもやシャー・ジャ・ハーンによって建てられた通称"赤い城"へ。時間がかかったわりに、近くに着くと全貌が見渡せるところがあり、腰を下ろす。地元の青年たちが近寄って来て、囲まれる。全く言語の通じない中、戯れているうちに「帰ろう」と思いました。結局中にも入らずに退散。ネットに載っている写真はどれも外から見られる部分のものだったので、内部はたいしたものがないと信じて。宿の近くでジョッキ一杯のミックスフルーツジュースを飲む。もう満足。まだ時間もあったのですが、のんびりと椅子に腰掛けて。先のことを考えながら、暇つぶし。考えると目前にヨーロッパが待っています。途上国ばかりの4ヶ月から、あと少しで違った世界の中に入る。金銭的な心配は付き物ですが、楽しみになってきました。どう辿るか、今まで以上に悩ましい。決めいるのはイタリアでミケランジェロピエタを必ず観る。それだけです。


 やっとの事で時間が来て、トゥクトゥク移動、駅そばへ。トゥクトゥク移動、バス停へ。このバスが端から時間を守らないことから始まり、本当に酷かった。流石にどこにでもあったシートベルトさえ付いていない。悪路を高速で、何度もガタガタ揺れて寝られるはずもない。エアコンの温度がかなり低く、凍えるほどなのに壊れて止まらない。これらの悪条件に疲労の溜まった体は悲鳴を上げていました。そして直行のはずが途中で降ろされて、待たされ、乗り換え。自分自体を落ち着かせるしかないのですが、朝6時頃到着した新しい景色に、早くも助けられる。川に大きな橋が2本かかり、両岸に造られたから小さな街。ヨガの聖地として有名なこの街は、インドとは思えないほど穏やかな空気が流れている。


 とは言え、寝不足。部屋は12時からしか使わせてもらえず、それまで上階のカフェで時間を潰す。幸い何冊か本が置いてあったので、辞書片手に程よく時間が過ぎました。シャワーを浴びて一眠り。2時半ごろに目覚めて、出かけました。目的地は初日から、他にないのもあってビートルズが過ごしたアシュラムへ。今は廃墟と化して、国立公園の中、50ルピーほどかかるという情報を持っていたのですが、いざ30分歩いて着くと600ルピーと書かれている。きっと最近変更されたのだと思います。国立公園に約1000円というのは、決しておかしくはないけれど、インディアンプライスからすると、本当にふざけている。されども、これをメインに来ている僕も、簡単に諦めることはできない。「高過ぎないかー」相手が何人だろうと、不満は日本語で口をつく。何を隠そう結局入りました。


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 入り口で引き返す外国人がほとんど、ほとんど人のいない中坂道を登っていくと、早速ジョンが瞑想に使ったという9番と描かれた建物がお出迎え。さっきまでの不満は何処かへ行って、不思議な高ぶりを覚えて入ってみる。かなり狭い中にトイレもあって、2階建。ジョージとジョンは特にインドの文化に傾倒し、長期滞在。ここでの成果から創られた曲はたくさんあると言われています。彼らが200近い人を連れ、ここにいたのは1968年の出来事。50年。後にマハリシも手放して人出の入らなくなったこの場所は、噂の通りの廃墟。彼らの背中を追いかけて、ここを訪れたビートルズファンなどによりたくさんの落書きがされています。この部屋も同様に。それでも彼が当時確かにここにいた。同時代の人間にアイドルを持たない僕には、ジャニーズ、AKBなどに熱を上げる人たちと、きっと少し似た想いで、生まれた時にはこの世にいなかったその人の存在を確かに感じる。先にもいくつかの建物があって、どこも入り放題。敷地に5人ほどしかいない中、一生懸命、上ったり下りたり。知り合ったインド人の青年と2人で進む。展示などはありません、ただそこに感じる。馬鹿かと思う方もいるかもしれませんが、嬉しかった。


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 沈みゆく陽を受けて、同じ道を歩いて帰る。聖地になるだけの雰囲気を感じて、平衡を取り戻した感情は優しく。帰ったら続く日本での生活、今だけのこの日々に。とにかく今を楽しまなければと、一番大事なところに帰らせてもらう。ただ先ほどの出費は少し引きずって、屋台でりんごを一つ、ガンガーのほとりに腰を下ろして晩ごはん。3泊することにしたので、また明日から。近くにはヨガや瞑想の教室がもういくつもあって、当日数時間の参加もできるらしい。そんなことをしてもいいだろうし、今の気持ちを保ちつつ、たまには頑張らなくてもいいでしょう。ただ感じるだけでもいいでしょう。インドで一生懸命ヨガをしている僕を、想像したら笑える人もいますよね。


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空を見上げれば

 ジョイプールのホテルで予約し、6時ごろと言われていた電車は実際には5時20分発だった。起きられないかもしれない不安は、眠りを妨げ、自ら起床の難易度を上げていく。我慢比べ。高校時代の友人、旅で出会った人、松本人志というまさに夢でしかありえない組み合わせ。素のままの指をバナーで指を炙り、何度まで耐えられるかという、恐ろしい我慢比べ。僕は現実の如く一瞬で手を離してしまうのだけど、対戦相手たちは各々違った表情で挑み続ける。止まることなく上昇していく温度と苦悶の表情に目を背けたくなった時、スピッツの「空も飛べるはず」でこの世界から解放された。4時40分。ここはドミトリー。思っていた以上に高音で鳴ったアラームに、眼が覚めるとほぼ同時、申し訳ない気持ちになる。2段ベッドの上段にいて、軋み方から下の人を起こしてしまったことがわかる。昨夜あなたのいびきに悩まされたこととで、どうにかパーにしてほしい。着替えて、部屋を出、寝間着をバックパックに詰める。スタッフも寝たままだったけれど、親切なのか、不用意か、ドアと門はしっかり開いていた。


 人通りが少ない時間は、いつも以上に野良犬に気を使う。遭遇し吠えられる嫌なイメージを抱きながら、幸い無事に大通りに出られた。インド5時の空は夜のもの。空は限りなく深い青に覆われている。駅までは歩いて15分。苦痛の伴った早起きした甲斐は、電車の2時間近い遅延のために薄れていく。普段はプラットフォームに入ってくる列車の番号が電子掲示板に表示される。それを唯一の頼みに乗車する。遅れた場合はそれが映らないことがもっぱら。東西へ向かう自分とは無縁のものたちを3本ほど見送った後、やってきた自分の目的地に向かうと思しきものに、半信半疑で大量に人が乗り込む中、走り出した電車に何とか体を半身だけねじ込むような形で乗車。指定席のはずが、夥しい数の人で溢れた車両、自分の席であるはずの場所も何食わぬ顔で先客が居座っている。幸い、あっけないほど素直に空け渡してくれる無血開城。ようやく横になることができた。寝起きでこんなことができるようになた今の僕は、きっと何にでもなれるだろう。これが本当に自分の乗るべきものなのか、そんなことにすら確証は持てなくて。ただそう信じて、きっと電車は砂漠へ向かう。


 ジャイサルメール。知っている人は知っている。そんな街は砂漠のオアシス都市です。プラットホームに降り立った感想は、暑い以外にはありませんでした。当然砂漠ですが、これはもう人生で最も暑いところにいる瞬間ではないかと思います。そんな環境を生かした環境業で回るこの街は、駅を出るとたくさんのホテルのスタッフたちが待ち伏せ、勧誘。無料で連れていってくれる。その中に僕が予約していたところもあり、スラップと知り合う。同じジープには声が出そうなほど可愛い韓国人が乗っていて、同じところと期待したものの、スラップと僕だけ先に降ろされる。そう上手くはいかない。彼に「あの子すごく可愛かったけど、違う宿なのか」と落胆を見せると「確かに可愛かった。もう1人はデブだったな」この正直者を僕は信じようと思った瞬間でした。


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 灼熱、その中である人は言いました「40度なら、まだ涼しいほうだ」それでも日中は何をする気も起きない。部屋にいても、エアコンなどは一切なく、汗が止まらない。寝ることもままならない。開き直って日光浴をしてみても続かない。ただ屋上からは見晴らしがとてもいい。そして洗濯物が瞬く間に乾くという利点もある。洗わずに放っておいたシャツたちを、砂漠特有の塩の効いた水道水で。フォリーでピンクに染まったものは、まだきれいになりません。恐るべしピンクの塗料。ここでの目的は1つ、キャメルサファリに参加すること。他の観光地とは違い、低価格で一晩砂漠で過ごすことができます。あの正直者にお願いすると、親切な説明の後「サハラ砂漠を想像するな」やっぱりこの人は正直だ。もう笑えるくらい。要するに、全く草木がなく四方砂だけということを望んではいけないみたい。タール砂漠。そんなに聞く名前でもないし、しょうがないよね。翌日の昼から、この日は日没後に少し散歩をしたくらいです。この街にも砦、フォートと呼ばれるものはあるけれど、さすがにこうもあったら見飽きます。


 昼過ぎから別のホテルへ連れていかれ、ここからジープは出発します。幸いにして、日本人の方も2人参加されていました。他にアメリカン美女2人、カナディアン美女1人。計6人で。思ったよりも近いところで降ろされて、そこからはラクダに乗って。乗ってやるかと思っていたこの巨大な生き物に2度までもまたがって。ここで合流した添乗員、はっきりとした見覚えが。え、スラップ。なんと弟さんでした。少し気持ち悪いくらいに似てる2人。兄弟揃って女好き、最高でした。隊列を作って進むことしばらく、砂の多いところにきて、休憩だと思ったら今日はここで寝るらしい。ラクダの縄を解くと早速ラッシー、さすがはインド人。手際よく、マキと鍋でカレーを作り始める。広大ではないものの、確かに僕らは砂漠にいて。雲に遮られた夕陽は残念だけれど、それがもたらす美しさもある。僕はこっちの方が好きだと思いました。巻き毛のようにカールした雲が赤に染まり、目を離せない黄昏時。そして徐々に星が輝きはじめる。食後は何時間も1人で砂漠に仰向けで寝て、ただ上を向いている。どの方角にも、人工の光が見えて、季節的にもこれまでで一番というような星の数ではなかった。でも誰にも話しかけられない、そして屋根などなく、それを眺めながら寝られるという経験は素敵でした。流れ星は、日本にいてとても貴重なものだと思ってきたけれど、特に珍しいものではないらしい。既に人生で二桁は見てきたと思うから、特別とは思えないけど、やっぱり綺麗ですね。何故だか頻繁に目を覚ましながら、目覚めれば朝陽が待っている。寒さのおかげでしっかり起きられました。朝食を済ませて、またラクダ。現実世界に戻っていく。もう乗ることは無いだろう。


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 サファリで一緒だった日本人の方に有名なラッシーの店に連れて行ってもらう。インド人もスイーツがお好き。壁にかかったメニューの文字は一切解読不可能だけど、それぞれアイス、ラッシーなどを蓄えた髭につけながら、美味しそうに食べている。ラジャスタン地方でしか食べられないというこのラッシーは、他のものとは違い黄色い色をして、スプーンですくう、濃厚なものでした。これならバケツ一杯でも食べ続けていたのだけど。コップに入っているから、食べるほど目に見えて減っていくのが、これ以上に当たり前のことはないけれど、悔しい。店を出て、お別れ。インドで、パキスタンとの国境付近まで行って、日本語を話すことができるのだから、自分のしていることは全然特別なことではないように感じます。どこにいっても、同じ国からやってきている人はいる。きっといないところなんて無いのでしょう。宿で荷物を背負って、さよならジャイサルメール


 電車の中で知り合ったインド人、クリシアンはそのイメージを良化させてくれました。インドについてたくさんのことを教えてくれて、日本への興味も示してくれる。失礼ながら、これだけしっかりとした意見を語ってくれる人に、初めて出会いました。特に言語について、22の公用語と、数え切れないほどのその他。同じ国民でありながら、話が通じ合わない面白さ。体感として、ピングリッシュなど言われますが、英語を使える人の数も決して多くありません。話題は多岐に渡りましたが、また少しインドを知ることができたように思います。なんて事のない、デリーまでの18時間。彼は地元の料理をと、夕食、朝食まで奢ってくれました。こういう体験の積み重ねが、きっと僕を前に進めてくれる。


 4月1日です。エープリルフール。「ただいま」なんて誰かに連絡しようかなとも思ったのですが、活力は消え入りました。正月なんかよりも新しいもののはじまりを告げられてきたこの日に、今まで学年、境遇は少なからず変化があったのに、今年は何も変わらない。僕は同じところに止まったまま、少し離れたところでふと思う。就職、進級、入学、頑張れ。

ブルー・シティー

 ジャイプールからジョードプル。ピンクから青。より西へ進んだ僕は、夕方ごろに宿に到着。インドのホステルには、よく壁に旅行者が落書きをしてあります。宿側も公認で、様々な言語、国籍の人たちにより時にはクサイ人生訓が、時には面白くもないオラオラしたメッセージが壁一面に広がっています。僕は未だに気が向かず、書いたことがありません。何か思いついたら1箇所くらい挑戦したいのですが、納得できるもの以外、そんなおおっぴらに残すのは恥ずかしく許せないタチなので、閃き待ちです。結局寒いものしか残せない気がします。日本語のものもいくつかあって、あぐらの宿には受付に近いところに大きな文字で「この宿 ヤッベーゾ」と書いてありました。オーナーが読めないからと堂々と、束の間の人気芸人にあやかって、到着した直後に見る方の気持ちにもなってほしい。確かにここでは不快な滞在をしましたが。そして今回の宿には大きく「インドで最高の宿」と書かれていました。それを見ただけで安心に包まれる。確かに2泊、快適に過ごすことができました。


 ジョードプルはインドの中で、お気に入りです。メヘランガル城を中心に特有の歴史を持っています。そしてブルーシティの名の通り、この街は多くの建物がはっきりとした青色に染められています。起源はシロアリ駆除の薬が日光で変色したことが始まりなど諸説、定かではありませんが、モロッコにある有名なブルーシティ同様、この街もしっかりと特殊な世界を創り出しています。


 健康的な7時頃の目覚めに、猛暑に襲われる前にと早めに準備を済ませる。宿をでて、まずははじまりのチャイ。そんな気は無かったのですが、売っていたおじさんの笑顔が素敵で引き寄せられてしまいました。しばらく歩いた道端の屋台で名前も知らない朝食を摂る。そこからはしばらくまっすぐ歩いていく。城跡は宿から既に見えているのだけど、なかなか近づくことが出来ない。ブルーシティも旧市街に入ってからがはじまりなため、しばらくはただ行為に集中する。早起きも否定されるくらい、この日も暑いのなんの。近頃は毎日1リットルの水を3本ずつ消費しています。もうこれがないとやってられないので。古い街並みへの入口の門をくぐり、あたりにはチラホラ青く塗られた家が現れはじめる。細くて狭い、地図にもない道を勘だけを頼りに、もう迷いながら。高い方を目指していくと、どうやらお城への道に入れたみたい。ここで同じく観光にやってきたインド人3人組と出会い、ヒイヒイ言いながら急な坂道を一緒に登っていく。正直彼らの英語はほとんどわからず、適当な相槌、そんなことはお構いなく。


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 外国人専用の受付、ここでも学生証が役に立つ。この施設のすごいところは、外国人は無料で音声案内を借りられるところ。タージ・マハルでも無かったことです。それになんと日本語にも対応している。聴き始めると、多少のカタコトへの期待も外れ、綺麗で聞き取りやすい男性の声でしっかりと説明がされる。メヘランガル城。ラージプート族の名前は、世界史を習った方なら覚えていると思います。彼らの拠点としたのが、この地域とお城でした。無数の国家の集合体だったムガル帝国の中でも、皇帝が最も繋がりを重視した豪族。実際にラージプート家の女性を娶った皇帝もいました。今も続くその一族が、ここを解放し、所有している数々の貴重な品を公開しています。最初はインド人3人組と共に回っていましたが、1つ1つの展示品の前で写真を撮る、巻き込んでくる彼らに嫌気がさして、途中から距離をとるようにしました。王族が実際に使用した様々で、豪華絢爛な品々。それらのコレクションもさることながら、この城一体が要塞としての機能、芸術作品としての機能を遺憾無く発揮しています。特に後者の趣向を凝らした装飾、それぞれの空間が役割を持った造りは、それだけで訪れる価値のあるものです。音声ガイドもあり、当時の生活を眼に浮かぶようによくわかりました。時代背景として元々持つ文化とイスラーム、そして進出してきた西洋の文化まで垣間見ることができます。建物としてこれだけ完成されていると感じた場所は他にありませんでした。頂上から眺めるといかに青い建物が広がっているのかがよくわかります。昼食にサンドイッチと、全く冷えていない真っ赤な、一体なんだろうというドリンクを飲んで、午後のはじまり。


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 それを終えると次にはひたすらにブルーシティー散策。地図も見ずに、ただいい眺めを探す旅。複雑に入り組んだ道を、行き交う人たちに尋ねながら、奥へ奥へと進んでいく。途中で池のようなところに出て、休みました。ガンジス川にはあれだけ人がいたのに、ここには誰1人いない。近くには猿たちが休み、水中に群れるたくさんの魚。波紋を残しながら進む鳥。なんだかいい場所で、歩いた甲斐を見つける。また歩き出し、正確な位置は自分もわかっていませんが、ほとんどの建物が綺麗に染められた一画を見つけ写真を撮る。雲ひとつない晴れ渡った空と、先日のピンクシティーが対照をなしたのに対して、親密に絡み合うようでした。満足がいったところで、宿に帰ろうとなるわけですが、間の抜けたことに、ちょうど1番暑い時間と被る。本当は30分ほどの道のりを何度も間違え、その度疲れ。結局1時間くらいかけて帰りました。途中、視界の中心に黒い斑点が流れていく、明らかに熱中症への階段を登りながら。屋台で一気飲みしたビンのマウンテンデューが美味しかった。世界のどこにでも手に入る飲料の1つです。しばらく休憩したのち、夕食へ。スパゲティが食べたくて、看板にそれらしき写真が載っていたので入った店。結局あったのはまたもチョーメンでした。翌朝は5時26分発の電車で次の街に移動することになっていたので、準備だけはしっかり済ませて。眠ろうとするけど、なかなか寝付けない。


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 そんな時に友人から連絡があって、なんと自分も世界を旅することにしたという知らせでした。前にも電話で話したり、ブログを読んでくれたりして、本人はきっかけをもらったと言ってくれました。もちろんたくさんの要因があって、本人が悩んで決めたことでしょうが、仮に少しでも人の背中を押すことができたのなら、とても嬉しい。そしてこれを書いていて良かったと思わせてもらいました。出発前のことを質問される中で、自分が元々抱いていた気持ちと、当時の感情を思い返すことができて、改めて自分も進んでいかなきゃいけないと。また、近しい友人が実際にそういう決断をする側にいたことが初めてだったので、他人事のようにすごい、勇気があると感心する。ただ楽しい、安全ばかりではいられない時もあるから、しっかりと身を守ってほしい、心配でもあります。こうして、出発から4ヶ月が経ち、それなりの日数が重なり、鈍ってきたところもあるのは事実です。でもまだまだ見たいものはたくさんあるからね、さあしっかりやっていこう。うざいインド人なんかに負けてられない。暑い気候に耐えるのは、うん、頑張ろう。自信ないや。たまには意地かなんかも見せなくちゃ。


そして砂漠の入口と言われるジョードプルから、次の街は砂漠のオアシス都市です。これまでスルーしてきた多くの砂漠、目の前に待つ新しい体験に、またワクワク。これはもう青春です。

ピンク・シティー

 西遊記よろしく、僕はインドを西へ進み続ける。これまでは誰しもが聞き覚えがあるような街を辿ってきました。自分としてもアグラまでは予め行くことは必然として決めてあった。その先になると選択肢は南北西へと広がっていたのですが、南はインド人にも暑いからよした方が良いと言われ続け断念。北へはその後に行くこととし、バラナシで出会った人が口を揃えてオススメしてくれた西の街へ。パキスタンとの国境付近、砂漠地域を目指して。ジョイプールは北へはデリーともそう遠くないところに位置しています。北部の中央。アグラから電車で5時間ほど。降り立った感想としては今までよりも栄えている印象。立体の線路を電車が走り、ある程度高さのある建物が並びます。


 遅い時間についたホステルは、ここでもドミトリーを予約してあったのですが、通されたのは物置のようになっている地下の部屋。ベッドメイキングもされておらず、他の3つのベッドにはマットレスすら置いてない。そのことからもわかるように、宿泊客は僕だけだったのでむしろありがたく思いました。ドミトリーは人がいなければ、ただ広いシングルです。安い値段なのに人の目を気にしなくていいのは嬉しいばかり。気にせずオナラもできるから。普段はもよおすと、音が立たないように必死です。出てしまった時は知らん顔。清潔感のある館内は、5階だて、ほとんどがシングルかダブルであるようでした。必要以上のスタッフも皆フレンドリーでよく助けてもらった。聞くと多くが自分たちの村から出てきていて、故郷の方が好きだけど仕事がないからとここで働いているそうです。いいタクシーの運転手の見分け方なども伝授してもらいました。若いドライバーは平気で倍以上の価格を要求してくるからやめた方がいい。屋上にあるレストランは街の様子が一望でき、一度どう食べたらいいか人生で1番悩んだサンドイッチと遭遇しましたが、味もおいしく心地の良い滞在でした。特に2日目に食べた、メニューにないけどお願いして作ってもらったカレーライスは久しぶりの肉入りだったこともあり、だいぶ汚い食べ方をしてしまいました。ここにも2泊。バラナシを離れてからは、残りの時間もあってハイペースジャーニーです。


 ジャイプールはそれほど見所の多い場所ではないとは思います。それでいて都市としての規模が大きく、周るのは難しい。これはアグラから、城跡があるのは当然のことなので、わざわざ入場しようとも思いません。そして完全復活です。2日目は1日かけて、20km以上も歩きました。頭の中でブルーハーツが流れるくらい、これはもう元どおり。昼ごろから、もうびっくりするくらい暑いのですが、意を決して出かけて行く。当然といったら失礼ですが、道はやはり汚くて。露骨なので、この汚さをディープと呼ぶことにします。どこにいっても見かける、不法投棄のゴミが大量に集まっているようなところを見ると、現実として受け止めなければならないことですが、悲しく、シャッターを押す気は湧きません。交通量も多く、時には渡らなければならないけれど、渡れないような事もあります。響き渡る、煩わしく、耐えられないほどのクラクション。これをシンフォニーと呼ぶことにします。それらと内面は激しく闘いながら、道程をこなしていきます。他の国では人柄がイメージを作る上で大切な役割を果たしますが、インドでは人とともに、街全体に行き届いた混沌さに圧倒されます。正直言ってかなり疲れるし、お世辞にもいい環境とは思いません。その中でも持つパワーがあるのか、それともこんな中でやっている自分の中にパワーを感じるのか。後者かもしれません。なんだか生き生きとした気持ちになるのが不思議です。


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 ここの1番の売りであろうもの。通称ピンクシティーと呼ばれるこの街は、中心部に行くと古い町並みに、同じ色をした建物が無数に並んでいます。実際に見ると、ピンクと言うのはどうだかな。橙色といった方が正確です。ただどんな色であろうと、統一感に対して、人は感動や感心を覚えます。細かい実用的な品々が売られる店が軒を連ね、観光地というよりは生活の色が濃い。その中にも名所があります。宿で確認した中で目を取られたハワ・マハル。そんなピンクシティーの真ん中に位置しています。この街では久しぶりに国際学生証が威力を発揮。インドの学生が最安、その次にインド人旅行者を差し置いて、海外の学生が続きます。これは今までなかったことで、ただただありがたい。一般の外国人旅行者はかなりお高くなっている中、かなり得した気分。インド人は本当に周りの人間に気を使うようなところがほとんどありません。何かに並ぶ事も苦手ならば、通路を塞ぐような事も平気でやってきます。狭い順路の続くこの場所で、能力は遺憾無く発揮されていました。気にしなければいいのですが、どうも切り離すことができない。外観が有名なので、中には入らなくても良かったかなというのが正直なところです。綺麗なところではありました。ただ四角が並べられたばかり、細かい細工のものではありませんが、ステンドグラスで飾られた回廊がありました。どんな質でも、"ステンドグラス=美"という単純な美的感覚が僕の中にはあります。惹きつけられるワードの1つです。てっぺんまで登ることができ、そこから見える街と、高台に聳える城跡の姿は、味のある風景でした。


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 王宮跡と博物館にも向かったのですが、入口で入場料の高さに断念せざるを得ませんでした。かなり整然と区画整理されている中心部を建物を見ながらゆっくり、そして休み休み歩いていきました。途中で昼食を。中華料理なのか、チョーメンと呼ばれる麺料理があって、焼きそばのような具材と味のこの料理をインドではよく食べています。この日もいただいて、とても好きな訳ではありませんが、麺が食べたくなります。そうなると他にはチョイスがないんです。先ほども述べたようにステンドグラス。それが珍しくヒンドゥー寺院に使われているということでBirla Mandirというお寺に行きました。白を基調に、教会のようなルックスのところでしたが、散々見てきたヒンドゥーの神々もステンドグラスとなると違う趣きがありました。というよりも、この寺院自体が他とは一線画した異端のような存在に映りました。同じように境内に置かれていた白くテカテカの神像は、どうも祈るような気持ちにはなれなく、安っぽい。物珍しさで観光客も多くきますが、厳かに祈るような人はいませんでした。


 日も暮れはじめ、もうかなりの距離をこなしていたので、疲労感もあり、歩くかトゥクトゥクか悩みました。無理だと思ったら頼もうと、とりあえず宿まで徒歩を選択。なんてことのない、もう2度と通ることがないだろう道ばかりを少しずつ後ろに送っていく。何の変哲もなく、特に変わった特徴もない。でもやっぱり富裕な人達が目につきます。乗馬場や大学など、かなり綺麗な身なりをした人たちをたくさん見ました。先程までいた旧市街とは、まるっきり別世界です。道は綺麗に舗装され、牛もほとんど見かけない。日本人というだけで、子供たちを中心に大人もよく声をかけてきます。適当に返事をして行き過ぎる。ちょうど直線の道路の先に夕陽が輝いて、脇に並んだ果物の屋台との風景が穏な空気を演出してくれました。郷愁の中に、明日への希望も渡してくれる。


"聞こえる街のシンフォニー

とまどいながらも歩いてゆける

心の鐘鳴らして

相変わらずさ俺は

ゆくりなく吹く風とともに

鳴らし続けるぜ

俺の心の中のシンフォニー"

エレファントカシマシ「大地のシンフォニー」より


 音楽を聴いていたら、何だか楽しくなって結局最後まで踏破。いつもは行くだけ行って、帰りは甘えることがしばしばですが、この日は何だか体力をつけておきたかった。そのことを伝えると宿のスタッフは「見た目は弱そうだけど、芯は強いんだな」褒めてないよ?確かにますます細くなる上半身に筋肉が欲しい。そんなことを最近はインドで考えています。シックスパック。人生で1度はなってみたいものです。そんな気持ちとは裏腹、ご褒美にビールを飲んで気持ち良い就寝。


 翌日は昼前の電車に乗って、足早に次なる街へ。今度はピンクシティーではなく、ブルーシティ。砂漠への入口の街、ジョードプルから。何とも名前がややこしい。

恋してる、いつだって

 忘れられません。最近は目を瞑ると、平らな大地が地平線まで続く風景、瞼の裏にくっ付いて離れない。そこに隙間なく並んだ大きなお皿、盛られた数々の日本食。これは初期から繰り返し言い続けていることですが、変化もあります。追求していけばいくほど、答えはシンプルなところに行き着いたりするもの。今僕が欲しているものは納豆ご飯と豆腐。朝から炊きたての白米によく混ぜた納豆をかける瞬間、そのルックス。暑かった日の終わりに食べる山葵醬油の冷奴。大豆製品素敵です。名ばかりで、魂の通わないなんちゃって日本食ではもう満足できないところまで来た。考え始めたら暗くなるだけですが、そして帰ったら当たり前のように食べるのですが。インドは特に美味しいということはありません。ましてや体調が悪い時に食べられるようなものはほとんどないので、困ったもの。自分は何でも食べられるからと当たり前に思っていましたが、こんなに日本のご飯が好きだったことに気がつきました。耐える他ありません。この強すぎる、叶わぬ想いが変に拗れるようなことが無ければいいのですが。


 ようやく本調子になってきて、些細なことにも笑えるような感性が戻りつつあります。この数日間、コンディション不良に加え、不運なことばかりが続きました。もう無理かもしれないと思いました。今すぐ帰ろうかとも、1番強く思った瞬間がありました。なんせ歩くのもしんどいような時もあったので。それでも長居しすぎたバラナシを離れようとアグラを目指してみたのですが、なぜか気がつくと電車を逃していました。その電車を追いかけるために他の駅にとお願いしたはずのトゥクトゥクは僕をさらに違う駅へ連れていきました。それでも翌日のチケットを、23時まで空いていると言われたオフィスに行くと既に閉まっていました。落ち込んで行くその間にあった細々したことにも気をやられ、その夜は駅近くに宿を探し歩く。カンボジアからの出国未遂から、そんなに時間も経たぬ中、本当にどうなっているのだろうというくらいどん底ですが、今回のことはほとんど自分が好んでガンガーに入ったせいなので、これ以上の自業自得もありません。


 ただこんな時こそ、身に染みる人の情。急遽泊まった所のオーナーが僕が弱っているのを察してか、とても親切にしてくれました。インドでこんなに客思いな人がいるのかと言うほどに。着いたのも遅い時間だったのですが、チャイやクッキーをふるまってくれました。食事を食べたほうがいいと、しきりに提案してくれた。食欲はなかったし、すぐにでも横になりたかったので断らせてもらって、寝たのですが、本当に嬉しかった。ただ親切も度を過ぎると面倒臭さと紙一重。翌日起きた僕に、体調の改善を見てか同じようなことを繰り返し言ってくる。「シャワーは浴びたか」「シャワーを浴びてないだろう」「シャワーは体調不良に最高だぞ」「もうシャワー入ったのか」またホテルをネットで評価してくれと「Googleで」「トリップアドバイザーで」「booking.comで」とまあうるさい。もう途中から露骨に受け流していたのですが、それでも言ってくる。細かい評価を気にしているけれど、そもそもロケーションに問題がある。なんてことは思っても言えませんでしたが。電車までの時間、夕方5時までベッドを使わせてくれたりと、本当に感謝してもしきれません。出してもらった食事もほとんど喉を通る状態ではありませんでしたが、この日薬局で購入した抗生物質のおかげで、ここから回復に向かいます。


 前日と同じ時間の電車にリトライ。心配で人に尋ねまくり、万全の予防線。乗車完了。その中でも素敵な出会いがありました。同席だった同じくアグラへ向かうイスラエル人のアレックス。彼がとても魅力的な人間で、飽きることなく楽しませてくれました。日本文化への理解も深くて、久しぶりに村上春樹の話題になる。彼以外の作家の話は海外の方から聴いたことがないので、村上さんの海外進出戦略は見事なまでに成功していると感じました。イスラエルに行った時には、そういう人に出くわすことはなかったので不思議ですが、海外で旅をしているイスラエル人は、僕の会った限り、見た目から派手にロックでそれでいて優しいという最高な人たちばかりです。髭やタトゥーがよく似合い、果物などを分けてくれる。日本人ではなかなか出せない'旅人感'を彼らは会得しています。ここのところスリーパーというグレード、寝具などはなく3段ベッドになる車両を使っているのですが、気温調節が難しく、もとはと言えば熱いインドで鼻水が止まらないのはこれのせいです。長い編成の中で、きっとみなさんがイメージされるような、立ちっぱなしで人が溢れているような車両もあります。さすがに屋根に乗るような光景は見たことがありません。基本的に移動は長時間になり、荷物もあるので、寝られるような車両に甘んじています。早朝6時の到着予定は驚きもなく遅れ、11時ごろになりました。


 アグラと言えば、何と言ってもタージ・マハルです。インドで最も有名な建造物と言って差し支え無いと思います。そこから歩いて2km範囲内にあるところに宿泊し、ちょうどこの日はタージ・マハルが休館だったのもあり、初日は到着後休むばかりでした。アレックスはその日のうちにこれを見て、夜には街を後にすると言っていたけれど、一体どうしただろうか。この宿はもうはっきりさいやくでした。シャワーは出ない。ドミトリーなのに、ドアは内側から嬢をかけない限り開きっぱなし。何より、窓が壊れて隙間があり、夜間の蚊の量が尋常ではなかった。一度蚊取り線香をもらったものも一晩は保たず、顔も腕も足も刺され放題。刺されすぎた時は、何か肌が強く乾燥してカサカサになるような感覚があるのですが、それに陥りました。僕は中東にいた短期間以外、基本的にずっと蚊と闘っています。日本で冬が楽しまれている間も、疎まれ始めてからも。スタッフはとても良くしてくれたのですが、このせいで寝不足。前日インドネシア人のチカと朝日に照らされるタージ・マハルを観に行こうと約束していたのですが、すっぽかしてしまいました。もう一泊は無理だという判断を下し、朝から夕方の電車を手配する。


 ようやく10時ごろから1人で向かいました。手前から道が綺麗に舗装されていて、それをまっすぐに進むばかり。途中チケットオフィスがあって、人がたくさん並んでいました。少しお高め1000ルピーを支払って、また歩く。だんだんとその姿が見えてきます。大きな門をくぐると教科書で何度も見たあの建物が。白というのは汚れやすく、それを綺麗に保つのにはかなりの努力が必要だと思います。それが果たされているこの場所は、有名なだけあって来られた喜びも大きなものでした。その墓標だけでなく、水の通った広場に、木々に至るまで気持ちよく整えられている。世界的な場所だからぜいたくは言えませんが、やっぱり人が多いのは苦手だな。このご時世です。どこにいってまでも、老若男女、セルフィーや写真撮影のためポジションどりに必死。見るに耐えない光景です。それても団体でいる人たちへの嫉妬なのかな。木陰で休んでいると警護をしている兵士の方が話しかけれてくれて、タージマハル内部にもスムーズに入れてもらいました。ムガル帝国、シャー・ジャ・ハーンにより竣工。イスラームを信奉した国だけあって、装飾や様式はモスクと通ずるところがたくさんありました。つまり好きです。大理石をこれだけふんだんに、莫大なお金がかかっていることは想像に易い。王の力というのは、その時代に造られたものから理解することができます。四角形、均等に配置された諸々、近くにいても、離れてもゆっくり眺めていました。


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 その後は宿でチカと合流してトゥクトゥクハイヤーし、他にある名所を周ってもらいました。城跡は近くに行ったものの入場料から断念。ベイビー・タージ・マハルと呼ばれる、シャー・ジャ・ハーンの祖父によって建立された墓標。名前の通りかなり小さい規模ですが、類似性がたくさんある。人が少ないぶん、座りながらのんびりできたのがよかったなあ。内側は大理石ばかりでなく、細緻でより時代を感じる飾りがされている。あまり公言していないことですが、インド文様、幾何学模様をいつまでも見ていられるフェチを持つ僕は、天井を見ているだけで非常に楽しめました。その他にもいくつか、お土産屋なども周って、宿に一度戻り、そのまま駅まで連れて行ってもらいました。一生懸命説明をしてくれた運転手。若々しいルックスに年齢を聞くと16歳。「免許は?」「持ってないよ、インドでは普通のこと」「警察は?」「お金を払えば大丈夫」こんな人たちに命を託すのだから、簡単なドライブでも少し覚悟がいるかもしれません。彼は無免許ながら稀に見る優良なドライバーでした。そんなこんな1泊で次なる街、ジョイプールへ。アグラではタージ・マハルさて見られれば満足です。


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 鳥に翼があって飛ぶことを羨ましく思います。それでも金子みすゞさんの詩ではありませんが、2足歩行ができる動物として、歩くことに大きな喜びを感じられたら、なんだか毎日楽しく過ごせそう。

サバイブ!

 暖かい陽気のバラナシ。たまに曇るようなことがあると、春のように優しく包み込む風が吹く。こうなると時間など関係なく四六時中眠気に襲われる。もう何をする気もなくなって、ガンガーのほとりでただそれを眺めていたりする。穏やかな流れは、どちらに進んでいるのかさえ分からなくなる。考えているのは「自分は何を考えているのか?」ということ。要するに何も考えていない。専門家に言わせると間違えっているであろうフォームで瞑想めいたことをしてみたり。気がつけば夜になり、暗い中にそれでも燃え続けるあの炎をぼんやり見つめる。


 宿を変えて、連れがいたおかげ。1人では諦めていたボートから見る朝陽。6時前に起こしてもらい男3人、100ルピーずつ払ってそれに乗り込む。川にはどの時間帯よりも多くの舟が浮かんでいる。ほとんどが観光客。地元の人々は沐浴や洗濯に励んでいる。運なく、この日は滞在中1回きりの曇り。僕の晴れ男と同様の力を持った雨男、雨女がいたのだと思う。残念ではあったが、距離を空けた岸の町並み、そこにある生活は穏やかで雰囲気のある世界だった。


 知り合ってから間もない日本人とその場でガンジス川に入ろうと言うことになった。バラナシでは宿で掛け布団をもらえず、夏風邪をもらってしまい、実現できずにいた。この機を逃すと、きっとせずに終わってしまう。水着に着替えて川に向かう。正しい順序を知りたくて近くにいた男性に教えを請うても「ただ入ればいいんだ」という答え。なら行きますか。一歩足を踏み入れると危うくコケそうになるほど、底は藻が茂っている。ゆっくり遊泳に励んだわけではない。ただ意を決して3度ほどスクワットのような動作で頭まで浸かる。決して口には入れまいときつく結んで、すぐに宿に戻ってシャワーを浴びる。体調を崩すのだとしたらいつ発症するのか。興奮が冷めると不安ばかりがやってくる。病は気から。そんな状況ながら、鏡に映る自分を見ながら「俺は絶対大丈夫」と唱える。


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 結果から言うと、一緒に入った方はその夜、本人曰く「インフルエンザとノロウィルスが同時に来た」と言うこの上ない体調不良、全身の関節痛に襲われ、呻きながら一晩を過ごした。そのことをビールを飲んで先に爆睡していた僕が知ったのは翌朝のことだった。辛そうな表情の彼は見るに耐えず、連れ添って病院へ行った。点滴を受け、帰って来たのは夜遅くだった。一方で何事もなかったかのようにケロっとしている僕を見て、その差に皆驚く。同じ時、同じ場所で沐浴し、同じタイミングでシャワーを浴びた、同じ国からの人間。地元の方がやられる可能性を「半々」と言っていたのは正解だった。もし自分の勢いで決めたその時間、場所によって彼が救われたことがあるのならば、この責任は自分にあるように思う。それでも症状、僕には遅れて現れ、それほど酷くないにせよ倦怠感、人生一の下痢には苦しんでいる。相方と比べると、これはもう無事と言っても過言ではないと思う。その理由を、ケニアで子供にもらったビーズのブレスレットをこの時もしっかり付けていたから。守ってもらったと思うようにしている。現地の子供達が飛び込んだり、水遊びをしているのを見ると環境は人間に驚くべき違いを与えることを教えられた。とにかく、海外旅行、日本で予行練習までして臨んだガンガー。1つの念願を叶えた満足感がある。


 なんとなく1日が過ぎてしまうような、のんびりした場所だった。川辺は道路から離れているのもあって、クラクションから解放されるのが何よりもありがたい。周辺にはバンコクほどのクォリティではないものの、よく日本食を出す店がある。ラーメンとあって頼んでみたら、ただインスタントラーメンを作って出されたりはするが、シャン亭というところで食べたカツ丼は本当に美味だった。気がつけば1週間も滞在してしまい、そろそろ居場所を変えようと思う。憧れていた南部は、ここで出会った人たちの情報から遠からず気温40度に達するということを聞き、迷い始めている。寒いよりはいい。ただここまで行くと、きっと室内に篭ってしまうだろうというのは容易に想像できる。一度少し離れたところにリキシャで出かけたのだか、交通量、喧騒に参ってしまった。その中に戻ることになるのは、少し気を重たくさせられる。


 物乞いをされることはインドでは頻繁にある。高台にいた時、下で5歳ほどの男の子が旅行客に対して何度も挑戦し、何度も断られるのを見ていた。何度も右に左に視界から消えながら、また何度でも戻ってきた。一度女性がお菓子を与えたことがあった、するともう一個をねだる少年。あとで少年は離れたところにいた母親と思しき女に1つを渡していた。暖かくも、それを命じている親の存在。同時に悲しくもあった。こんな確率の低い稼ぎ方を続けるほど、少しでもお金のもらえる仕事がないのだろうか。そこを知らずには取るべき態度が定まらないのだけど、特にまだ幼い子供にせがまれると胸は痛まずにはいられないので。それにしてもアフリカ、アジア。こんなことはもうたくさん見てきた。偉い方々、ぜひ彼らを救ってあげてください。


 広く知られていることなのかは分からないが、出発前に考えていた以上に薬物の勧誘を受ける。これまで行った国で、そういうことが一切なかった場所は皆無だった。高圧的に押し付けられたりしたことはないので、そこまで大きく心配することはないけれど、疲れている日などはこれが鬱陶しい。特にインドでは頻繁に起こる。実際に外国人旅行者でこれらを愛好する姿もたくさん見てきた。バックパッカーを志すなら、こういうことも不可分であることは知っていて損はないと思う。エジプトかどこかで「お前の顔を見れば、これが好きなのは一目瞭然だ」というようなことを言われた時は、本当に勘弁して欲しかった。


 バラナシで有名な日本人宿に結局4泊した。かなり汚いという噂は聞いていたが、シャワーも使え、1泊100ルピーというので離れられなくなった。明らかに洗われていない、硬い布団。虫や爬虫類の入り放題なこの場所は、これまでの経験がなく、日本から直接来ていたら無理だったと思う。慣れは恐ろしく、そこに求めるものは月日とともにかなり減った。今だけに集中することも簡単ではなくなってきたけれど、今一度、心を軽くして歩いていきたい。これがなかなか難しい。


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死と煙

 電車は予定より3時間ほど遅れて到着した。3段ベッドの中段で、その環境にしては十分と言える睡眠をとり、コルカタの駅で買っておいた菓子パンを頰張る。スピリチャルなインドのイメージに、バラナシは大きな働きをしている。「豊饒の海」の執筆のため、この地を訪れた三島由紀夫は、宗教が生活と密接に息づいている光景に驚いたと言う。聖なる川、ガンジス川が車窓から見えた時の喜びは、旅の中でもしばらく味わえていないものだった。想像してたよりは、橋の上、少し高いところから見ると綺麗であると思う。僕の真下、下段にいた韓国人の女性とともにプラットホームに降り立ち、新しい日の空気を吸う。早速リキシャーの価格交渉に入るのだけど、韓国人、女性、頼もしい連れのおかげで、僕は無口のまま安く街に行けることになった。サイクルリキシャー、つまり人力で運んでもらう。大きなバックパックを背負った2人、運転手のオヤジはかなり辛そうに、汗を拭いながら進んでいった。コルカタに比べると道が狭く、我先に進みたがるインド人と合わさってクラクションは止むことを知らない。ましてやゆっくり進む僕らの足は、批難の轟音を浴びる恰好のターゲットになる。あまり遠くないところで降ろされ、そこからは乗り物は入れないらしい。100ルピーで最後まで納得いかない顔の運転手さん、お疲れさま、さようなら。


 歩き始めると、こんなところでも頻繁に日本語で声をかけられる。そういえば先日、サダルストリートで一緒にいた流暢な日本語を話す人々は名高い詐欺師だったらしい。ネットに写真まで上げられているのには驚いた。ほどほどに別れておいたのは正解だったらしい。やっぱり話しかけてくるやつは危ない、旅をした人が必ず持ち帰る事実の1つだと思う。この区域はさっきまでとは違い、交通がバイクくらいしかないので安心して歩ける。車道も歩道もないようなほとんどの道は、歩くだけでかなり神経を使う。そして多くの人がイメージを持っているであろう、やっぱり汚いガンジス川が目の前に広がる。たくさんのボートが寄せられ、歴史を感じさせる建物が川に沿って並ぶ。薄眼で見たら美しいところなのだが、現実は牛、牛、牛の糞、ゴミ、ゴミ、ゴミの臭い。これぞ完全にインド。


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 どうやら予約していた宿は更に2kmほど降ったところにあるらしく、失敗したと思いながらなおも進む。すると初めてくる街で自分の名前が聞こえた。空港、コルカタでもご一緒した方と3度目の再会。僕が追いかけるような形になっているので不思議ではないが、運の巡り合わせを感じる。すでに2日滞在され、慣れたこの方に街を案内してもらう。そこには噂通りのバラナシがあった。迷路のような細い路地が、人、バイク、牛で溢れ、心地よいリズムでは歩けない。この国に来てからはそこら中に落ちている牛の糞、本体の大きいのは流石に避けるけれど、小さいものはもう気を使うのが馬鹿らしくなるほどそこにある。よって頻繁に踏んでいるだろうと思う。それを踏んだからって「うんこまん」とからかってくる同級生たちは、今は、そしてここにはいない。グルメのことなど、1つの知識も持ち合わせていない僕。ありがたいことにラッシー屋に連れていってもらう。ここは1日に2〜3000杯も売り上げると言う有名店。狭い店内に体の大きい西洋人がぎっしり詰め込まれている。日本人2人、臨時の椅子を出され、狛犬のごとく入口の両側に陣取る。種類も豊富に用意されていて、迷った時には必ず選ぶストロベリー。がなかったので、ブルーベリーアップル。名前はとにかく、実際どんなものかもわかっていなかった。しばらく待って持ってこられたのは、ヨーグルトのような、食べるのか飲むのか、その中間にあるもの。スイーツとは離れていたから、とても美味しかった。


 そして進むと火葬場がある。ヒンドゥー教の聖地。ガンジス川で死ぬことが、教徒にとっては1番の幸せであるらしい。各地から死を間近にした人々が最後の財産を叩いてまで訪れ、喜びの中に眼を閉じる。この地域には火葬場が複数存在している。狭い路地にいても、5分に1度を上回るようなペースで、遺族が担ぐ飾った担架のようなものの上に置かれ、無になった身体が運ばれていく。24時間燃やしているところもあり、この行進は唄を歌いながら行われる。慣れない旅行者には睡眠の妨げになるだろう。観光客でも燃やすところまではっきりと見ることができる。日本のように個室や室内で営まれるわけではなく、剥き出しの岸辺に、いくつも木が組まれたものが並び、1度聖なる水で清められた死体はそこに置かれる。同時に複数の人の死に赤い火が配られている。最初は黄色だった煙はゆっくりと色を黒くし、運ばれていく。風に乗った人の死を浴びる。全く知らない人の最後を浴びる。人生の中で最も特殊な体験の1つだった。煙は止み行き、燃え尽きて、残った灰は川に流される。そして彼らの幸福は約束される。目の前にあるのは自分にとってシュールとも言える光景、言葉はでない。流石に写真は禁じられ、自撮りに励む旅行者もいない。旅の中で、これだけ厳粛さを感じられる場所はなかった。一日中煙が上がり続ける、火葬場のためにある街、火葬街。1つのことを文化、習慣とは言え、ここまで守られていることに大きな感動がある。


 文字通り神聖ながら、あたりは変わらずゴミだらけ。そのまま放っておける精神は理解できないけれど、インドらしさと言えば納得がいく。それでいて美しいと感じる心が確かにあった。この一角には女性がいない。過去に夫の死に、焼身自殺をする、迫られる妻がいたことから、今は女性は船の上からとなっているようだ。最後に側にいてほしいのは、どう考えても連れ添った妻であるように思えるけれど、これは堅く守られている。おかげで岸はかなりむさ苦しい。1番見たかったもの、初日からしっかりと留めることができた。ちなみに妊婦や障害を抱えた人は焼かれずに重りを付けられ、沈められる。地元の人々は当たり前のように沐浴をし、日本人的な感覚だとむしろ汚しているのではないかと思う、この川で洗濯をする。伝統とは、その地に育ったものにしか理解のできないところがたくさんある。それが強烈に残るこの街に、日本人をはじめ、旅行者は特別な感慨に浸るのだと思う。こうして今のところはすっかりインド肯定派なのである。


 休憩に石段に腰を下ろして、暮れゆく街を眺める。だんだんと昼間とは比べものにならないほどの人々が集まり始めて。カーストバラモンに属する人によって、礼拝が毎晩行われている。男たちが歌いながら、火を手に舞を繰り返す。現代のスピーカー、電飾などは用いているが、どれだけの時間、これは継承されてきたのだろうか。踊り、そしてそれを真剣に見守る人々のつくる表情は、ずっと変わっていないのだと思う。偉そうに言うが伝統舞踊を心底楽しむには、若すぎるのか、あるいは僕の感性はそこまで豊かではないのか程なく飽きる。ずっと立っていたので疲れ夕食へ。1人ではなかったこともあり、初めて屋台ではなくレストランと呼べるようなところに入る。インド初のビールと共に。ネパールにいる時、ほぼいつも食べていた国民食モモ。向こうでは主流のバッファローモモは食べることはできないので、ベジタブルモモ。そしてガーリックフライドライス。気がつけばベジタリアンのような生活をしている今日この頃。体に変化は今のところまだない。ゆっくりと食事を摂られることへの喜びは、感じずにきた。どんなことでも少しを間を取ることで、特別なことのように感じられる。このことは帰国後も忘れてはいけないことだと思う。到着したのが昼過ぎ、そこからかなり濃い1日を過ごした。そろそろ帰ろうか。


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 深夜、一緒にいた方から嘔吐と下痢に苦しめられているという連絡が来た。数時間前まで元気で、昼からほぼ同じ物を食べていた。自らを心配してみるものの、多少弁が水っぽいくらいか。昔からお腹が弱かった気がするが、どこかで鍛えられてきたのか。ほとんどが泳いだ末に謎の病にやられるというガンジス川、自分ならばと危険な自信が膨らんでいく。